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深町純さんと音楽のこと

【高校生のときの憧れ】
高校生のときは、アマチュア無線にハマって、英語で赤点を取ったことを書いたが、同時に音楽にもハマった。フォークソングのクラブにいたから、そこの担当の数学の先生がブルーグラスという米国の音楽のプロのバンジョーの演奏家でもあったのも影響した。そういう音楽を演奏したり聞いていたのだが、特にロックとジャズの間くらいの「フュージョン」をよく聞いていた。日本は1970年代から1980年代にかけて、軽音楽も「全盛期」と言ってよく、この頃の日本の軽音楽は世界でも珍しい「発展」をしていた。特に軽音楽は、それまでの日本のフォークソングから、ヤマハの「ポプコン」に代わり、やがて「ニュー・ミュージック」という分野ができて、「歌謡曲」「ジャズ」「ロック」などの融合した音楽、という独特の音楽文化を作って、日本もその頂点にいた、という感じがしている。そして、ジャズもロックのリズムで演奏されることが多くなり、日本のみならず外国にも多く出ていたのが「フュージョン」という分野になる、と自分では思っている。あの頃の日本の「軽音楽」は、音楽としてのレベルも、世界的に高いものがあった、と思うのだが。

【「深町純」というアーティスト】
そして、そのフュージョンの分野には、日本では深町純という存在がいた。高校生の自分は毎週、民放のFM局で放送される、深町さんの「音楽ってなんだ」という番組をよく聴いていた。そこには、ゲストとして毎回、日本のゴスペルといえばこの人、という「亀渕友香」さん、深町さんと同じ芸大の教授で民族音楽の「小泉文夫」さんなど、多彩なゲストが来ていて、楽しめた。深町純さんは、その当時の日本の軽音楽のシーンを裏側からも、表側からも、リードした存在だった、と、自分は思っているのだが、多くはキーボードプレイヤーとしての名前が知られているだろう。深町純は多くの楽曲も残した。早くから電子音楽をやっていて、冨田勲氏のシンセサイザーですべてを作った、ムソルグスキー「展覧会の絵」のシンセサイザーの多重録音盤の技術の裏方は深町さんだったし、NHK「みんなのうた」の編曲などもしている。もともとは芸大の作曲科にいた彼は、ピアノ演奏の名手で、芸大の歌曲の卒業試験では、彼に伴奏依頼が集まったという。しかし、彼自身は既に在学中に音楽の仕事をしていたため「自分には芸大卒業資格は必要ない」と宣言し、卒業の数日前に芸大を中退。以来、日本の軽音楽をリードする存在となった。当時はシンセサイザーが注目されていて、特に有名なのは「イエローマジックオーケストラ」だったが、その前に「エレクトロキーボードオーケストラ」という、電子キーボードとドラムスだけのバンドもあった(参加者は八木正生、大野雄二、羽田健太郎、佐藤允彦、など、今となっては「大御所」ばかりだった)。深町さんは後に、洗足学園にできたシンセサイザー科の初代の学科長になったが、麻薬事件で表舞台から消えた。それから数年して、彼は音楽活動をまた始めた。

【社会人になって】
社会人になって、深町さんの名前を写真雑誌で見た。なんと、音楽活動を再開して、六本木のPIT-INN(現在はもうない)というライブハウスでフュージョンのライブ活動をしている、という。グループの名前は「Keep Out」。先日亡くなったギタリストの和田アキラさんもそこにいた。なにせ高校生の頃の「憧れの人」である。早速、六本木のライブに伺った。観客は多くはなく、深町さんご本人とも話しやすい雰囲気もあった。ライブ会場の六本木PIT-INNの上の階には中華料理屋があって、ライブの練習などのときに、蟹が逃げ出してステージの横を歩いていたりした、という話も聴いた。

ライブに通って、三度目くらいに、深町さんに話しかけた。関係ないかとは思ったが、自分の書いたコンピュータ言語の本も持っていった。

「ええと、こういう本を出していて、深町さんの高校生からのファンです」
「あ、それ、僕も勉強のために読みました」

というやり取りは今でも覚えている。

そこから、深町さんとの交友(というほど頻繁ではないが)が始まった。

【恵比寿に行く】
深町さんとライブの都度に軽くお話をしていると、あるとき、「これから恵比寿でライブをやります」というので、恵比寿の「アートカフェ1107(現在は移転してartcafe friendsとなった - 残念ながら2024年3月に閉店)」を紹介され、今度はそこに通うことになった。そこでの深町さんの演奏はピアノ一つの「即興演奏」だ。何度も通って、ライブ仲間とも仲良くなり、今でも交友がある。コロナ禍などもあって、このところご無沙汰しているのは申し訳ない。自分も即興演奏をやるようになったのは、深町さんの影響が大きい。

あるとき、深町さんのステージの後、深町さんを囲んで仲間と雑談をしていたのだが、そのとき、「え?あなたもピアノやるの?セッションしましょう」と言われて、少しだけ上手くないセッションをした。あー、録音取って置けばよかったー、と言っても後の祭り。

このお店は、もと有名プロダクションの役員の方がオーナーをしていて、オーナーの方ともお知り合いになった。今でも続いている。ひょこっと、ライブ見に来ました、と、見れば、様々な分野で有名な方が後ろの席でライブを聴いていたりする。何人かのミュージシャンの方を、ここにご紹介した。その中には今でもライブを続けている人もいる。また、写真家やパリコレに出たモデルの方など他の分野のアーティストや、クリエイターでそうそうたる方々も時々やってくる。いろいろな方とお知り合いになった、IT屋ではあった。

【深町純という存在】
世界に人の一生の時間を超えた時間で流れている「音楽の歴史」というものがあるのだとしたら、深町純はこの時代のリレーの走者の一人として走ったのではないか?彼は音楽であって、音楽の神が深町純という姿をした人間として、彼を選んで、この時代の日本に降臨させた。彼が亡くなったとき、葬儀にもお伺いしたのだが、日本の流行音楽シーンを支えた、有名無名のそうそうたる方々が集っていた。葬儀のときに思ったことがある。深町さんという人を失って、悲しい、という気持ちはあるのに、一方で、そうではない自分もいたのだ。音楽という歴史の走者として彼は走り、走りきって、次の世代にバトンを渡した。そういう感じもしたからだ。おそらく、深町純は「音楽家」ではなく、音楽が人としてこの世に現れたその人だったのではないか?とさえ思える。彼は音楽家ではなくて、音楽そのものだった、というイメージが今もある。

【深町純のショパン】
深町さんはクラシックの音楽の勉強をしてきたから、もちろんクラシックの曲もたくさん演奏している。個人所有のものだったと思うが、まだヤマハに買収される前のベーゼンドルファーのピアノで、彼は難曲として知られるショパンの曲を弾いた、というステージがあった。誰が聴いても素晴らしい解釈と演奏で、その場にいた人は称賛の拍手の前に一瞬、凍りついた。他の演奏家であれば、ショパンの難曲をヒイヒイ言ってなんとかこなしている、という感じになるが、その時の演奏は、ショパンが彼に乗り移って、指を勝手に動かしていた、という感じだ。ショパンが深町純に乗り移ったのだ、とそこにいるほとんどの人が思ったはずだ。彼は普段のステージでは、お客様に向かって決して頭を下げない。下げても、ちょっと、という感じだ。そのプライドの高さもすごいとは思うけれども、実はそのステージでは、演奏が終わると彼は珍しく、深々と頭を下げた。そのとき、私は思った。「彼はその時、誰に向かって頭を下げたのか?観客ではない。おそらくショパンその人に頭を下げたのだ」と。で、同じ「深町仲間」の友人にそのことを話したら「オレもそう思った」という人ばかりだった。

【巨人とともに歩む】
ディズニーの映画の古典で有名な「メリー・ポピンズ」というのがある。出てくる子どもたちの父親が銀行家なのだが、その父親が言うセリフに「A man has dreams of walking with giants(人は大きなものとともに歩む、という夢を持っている)」というのがある。深町さんとの時間は、自分にとって、そういうものだった、と今、思っている。

深町純さんは、2010年11月に亡くなった。
深町さんの姿を写した写真は今も、私のハードディスクに数千枚はある。亀渕友香さんとのセッションの写真も。

ライブの様子も、いくつか、YouTubeに上げてある。中には、深町さんには珍しく「猫踏んじゃった」まである。

これをリクエストされたときの深町さんは「え?ぼくが?やるの?」とか言いながら、素晴らしい演奏を聞かせてくれたのを今でも思い出す(誰だよ、リクエストしたの)。

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