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宮沢賢治のことはわからないけれど、たぶん自分はそんな風に生きられない。けど、いいのかも。

あまつゆとてちてけんじや
雨ニモマケズ
イーハトーブ

そんな直線的に生の呪縛を受け止めることはできない。でも、いいじゃんとも思ってる。
無理して自己犠牲と創作の多重螺旋構造を紡がなくても、表層的な機微なんて山の様にあるのだから。
名前だけ知ってる文豪とかさ。いっぱいいるし、んなもんでやってけるんだよ人生の闇雲なんて。

でも、不誠実の風雨に打たれ一点を観測しながら流れゆく星々に己を重ね綺麗であり所詮点でしかないと肩肘ついて涙ぐむわたしにわたしはなりたいと願う。純朴だけではフライにされるだけ、残酷な喜劇を描く癖に彼自身純朴と愚かを体現してるようで滑稽で、こんなふうに生きれないけど生きてみてみれば何かあるのかもとおもいたい。

聞き齧ったちっちゃな知識じゃこんなもんが限界だけど、現実の機微を一身に受けて心臓と文字に切り刻まれた痛みを描きたい。と、思う愚かを思う。なって。

痛みこそが生であるのならば、その逆はなんなんだろうかとボンヤリ刻んでみれば宮沢賢治だって読んでくれるかもしれない。自己がなんなのか問い詰めていけばいつかは。

いつかは。

これはポエム。所詮気まぐれの成長期のホルモンバランスが乱れ狂った不完全の賜物なんだきっと。でも、いまのとここのへんが行き着ける限界だから。書いとこうかなんて。

余談だけどゴッホ展行った。ひまわりよりコウモリの方が好きだった。そうやって捻くれて美術館に行くと生きる意味を見直せるかな?なんて。必死にもがいてる時間が美しくて一番大事なんだよきっと。

こういうの情文っていうのかもしれないなんていつてみてフッと吹き消して熱は消える。
またひは灯る。人は増えすぎたけど灯る数は増えたから情文の形は増えたはずだって。星になったなにかをみながら。なんていってみて。

贄に捧げ作品を創る神を信奉したいけれど、至らぬ愚か者の、微かなやさしさを。

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