TheBazaarExpress47、善三先生が見守る地域の魅力~熊本県小国町編
阿蘇の外輪山の麓、人口約7000人の熊本県小国町(黒淵地区)に佇む鎮守様。その背後を取り囲む、樹齢700年の夫婦杉もそびえる黒い森を借景に、この町で生まれた洋画家、坂本善三をテーマにした小さな美術館がある。
町内にあった明治5年に建てられた古民家を移築して造られた母屋と、新たに造られた常設展用の建物は全館畳敷き。ゆるやかな坂になった芝生の前庭では、子どもたちが駆け回っている。
夏のある日、善三の作品が並ぶ常設展会場では、小国中学の1年生(小中一貫校の7年生)たちの鑑賞教室が行われていた。
「善三先生の作品をよーく見て、どこかに傷がついていないか、絵の具が剥がれていないか、観察してみてください」
学芸員の山下弘子が子どもたちに声をかける。本物の芸術作品を目の前にして、「作品調査」する子どもたちも真剣な表情だ。
母屋にある町民ギャラリーのスペースには、女性二人組アーティスト「ワタリドリ計画」(麻生知子、武内明子)の作品「それぞれ20年、座布団双六1995~2015」が展示されていた。畳に敷かれた60枚の座布団には、ろうけつ染めで絵が描かれている。
「1995年善三美術館開館、スタート」、「小国高校ホッケー部インターハイ初優勝」、「松嶋菜々子鍋が滝でCM撮影」等々。
双六で遊ぶ子どもたちを前に武内が語る。
「皆さんが生まれたのは2003年ころだから、向こうの部屋の座布団あたりですね」
作品を踏んで遊びながら、入場者にもこの美術館の開館20周年を祝ってもらおうという、ユニークな作品だ。
障子を全開にした室内には、鮮やかな夏の光と高原を吹き抜ける爽やかな風、蝉時雨が入り込んでくる。
大自然と人々の生活に溶け込んで、たおやかな時が流れる珠玉の美術館―――。
その誕生と歩みを振り返ってみよう。
※
「善三先生は絵には徹底的に厳しいけれど、私たち弟子には優しく面倒見てくれました。誰もが一度善三先生と触れ合うと、精神的に弟子になってしまっている。その人柄が、人を引きつけたんです」
かつて高校時代から善三に師事し、長じてはこの美術館建設に奔走して初代館長(現・名誉館長)となった坂本寧(以下・坂本)が語る。
善三は1911年(明治44年)小国町宮原の造り酒屋の三男として生まれた。大津中学校(現・県立大津高校)を卒業後上京し、岡田三郎に師事。帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科に入学。その後長い兵役生活を経て熊本に戻り創作活動を展開。57年、46歳のときに渡欧し、パリを拠点にスペイン、イギリスなどで修業を積み、59年の帰国後は抽象画へと画風が変化した。灰色(グレー)と黒を主体にした画風から、「グレーの画家」「東洋の寡黙」と呼ばれ、国際的にも高い評価を得ている。
坂本が渡欧前を振り返る。
「渡航費を工面するために絵を買ってくれたのは地元の人や弟子の医者たちでした。中にはお金だけ出して絵を貰われない人もいた。でも誰も文句を言わなかった。先生のしょうから(人柄)でしょうね」
今も町内には、善三の絵をコレクションしている人が大勢いる。だから小国の人々は、誰もが目の前にその人がいるかのように親しみを込めて「善三先生」と口にする。
小国杉で有名なこの地は、かつて林業で栄えた町だった。杉を一本伐れば1年食える。子どもが大学に入ったら杉を一本伐ればいい。
人々は江戸時代から今と変わらぬ人工造林を行い、100年単位で杉を育ててきた。戦後も昭和40年代に林業が衰退するまで栄華を誇ってきただけに、教育熱心で文化度も高かったのだ。
善三もまた、生まれ故郷の小国を愛していた。
「私の絵の原点は小国にあります。子供のころ、光が薄く差し込む杉林の中で遊んでいると、杉の頂きを森の妖精が飛び回っていた。楽しくもあり、怖くもあった」
という善三の言葉が、前町長宮崎暢俊の著書に紹介されている。
1987年、町が主催した美術フェスティバルの第一回目のテーマが「坂本善三」だった。病床にあった善三は、「救急車に乗せて会場に連れていってほしい」と懇願したという。
その願いは叶わなかったが、同年76歳で善三が没したあとにも、町との関係はより深く続くことになった。
「善三先生が亡くなったあと、相続税のことでご遺族から相談を受けました」
坂本が言う。
「作品を町に寄贈したらどうでしょうかと言ったら、奥様が、美術館を建てて下さるならという条件で承諾してくださったんです」
さっそく宮崎町長に相談すると、生前から善三と親交があり、敬愛していた宮崎は「場所は生地の黒淵がいいだろう」と言った。
坂本は、どんな美術館がいいだろうかと、当時世田谷美術館館長の美術評論家・大島清次に相談に行った。すぐに小国にやってきた大島は、現在の場所を見つけ、「黒木の森の前に建つ日本家屋が一番美しい。そういう美術館を造らないといけない」と言った。
その頃別の方面から、町内の山奥にある古民家を町に寄付するという話しもあった。
それらが合体して「古民家の畳敷きの美術館」の案が生まれてきた。
だがそれが誕生するためには、現在の敷地に住んでいた人には近くに移転してもらい、解体した古民家の木材を町まで運び出すためには、山に新たな道を造らなければならなかった。県内の美術界からは、「美術館は不燃の建物でなければいかん」と非難を受けたが、大島は「世界に一つくらい畳敷きの美術館があってもよかろう」と一括した。
黒淵の人たちはこの美術館を歓迎して、有志で600万円もの寄付を集めた。
その誕生は95年10月。開館の日には入り口前に赤絨毯が敷かれ、町民たちはバザーを開きトラクターで引く丸太列車を走らせて喜びを表した。
まさに作家と故郷の「交歓」から生まれた美術館だったのだ。
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その誕生の背景には、全国的にも有名な小国の「町づくり」の歩みがある。
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