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同行二人 松下幸之助と歩む旅 (北 康利)

 今まで、恥ずかしながら、松下幸之助氏に関する本はほとんど読んでいません。以前「夢を育てる」を読んだぐらいです。

 今回は、年末年始に読む本を探しに図書館に行った際、目についたので手にとってみたものです。もちろん「松下幸之助」氏には興味がありましたし、タイトルや著者にも惹かれるところがありました。

 本書では、まさに「同行二人」、幸之助の生涯をともに辿っていきます。
 その中でもとりわけ私が興味深く読んだのは、「経営の神様」との別称に通じる若き日の幸之助の姿勢でした。
 たとえば、後年の幸之助の「非情」の真意に触れたくだりです。

(p42より引用) 功成り名を遂げた後の幸之助は、ビジネスのためには情をはさまないある種の「非情さ」を身につけていたが、五代自転車商会をやめる際の優柔不断な態度を見てもわかるように、それは決して先天的なものではない。ビジネスの世界に身を置く中で、優柔不断であることは双方を不幸にするだけだと悟り、時として非情になることを学んでいったのだ。

 富農の暮らしから一転貧乏のどん底に、そして、相次ぐ家族の不幸・・・。昔を語る幸之助には、触れたくはない「暗い時期」があったようです。とはいえ、幸之助は前向きでした。そして、同時に謙虚でもありました。

(p75より引用) 彼は運を信じて逆境にもくじけず、成功したときには「運が良かった」と謙虚に思い、失敗したときには「不幸だった」と運のせいにはせず、「努力が足りなかった」と反省した。そのことが彼の成功につながったのだ。

 失敗を「他責」にしないのは成功者共通の姿勢ですね。

 さて、昭和4年(1929年)、ニューヨークに端を発した金融恐慌が世界中の企業を襲いました。ちょうど事業が軌道に乗り始めた松下電器も倒産の危機に直面し、当時大番頭の井植歳男は幸之助に従業員の解雇を申し出ました。幸之助は病床に居ましたが、何とか解雇なしで乗り切る方策を捻り出しました。

(p141より引用) 幸之助は、矢沢永一・関西大学名誉教授がかつて「シンカー(考える人)」と表現したように、考えて考えて考え続ける人だった。
「五つや六つの手を打ったくらいで万策尽きたとは言うな」
というのが彼の口癖であった。

 このときは解雇は回避できましたが、さすがの幸之助も終戦直後には止むを得ず従業員整理を行っています。「終身雇用至上主義」ではありませんが、終身雇用を志向する精神には確固たるものがありました。

(p144より引用) 「終身雇用制とは社内に失業者を抱え込むことや。政府の失業対策の代わりをわれわれがやっているんや」

 「終身雇用の本質」を冷徹に意識しつつも、幸之助は「人は資本」であること誰にも増して強く思った経営者でした。
 「人」を大事にする気持ちは、従業員に対する厳しい姿勢にも繋がります。

(p155より引用) 時に厳しく叱りもしたが、それ以上に褒めることを心がけた。そして何より公平だった。

 この姿勢は、社員だけではなく、松下を支える「販売店」との対応にも貫かれました。
 有名な「熱海会談」での幸之助のことばです。

(p264より引用) 「『代理店のみなさんがもっとしっかりしてくださったならば』と思ったりもしましたが、それはたいへんな間違いでした。やはりその原因は私どもにある。そう思い直しました。・・・
 「今日、松下があるのは本当にみなさんのおかげです。それを考えると、私のほうは一言も文句を言える義理やない。これからは心を入れ替えて、どうしたらみなさんに安定した経営がしてもらえるか、それを抜本的に考えてみます。そうお約束します。」

 「事業部制」「週休二日制」「水道哲学」「新販売制度」・・・、幸之助の経営の先進性を示す施策は数多くあります。
 それらの成功から幸之助は「経営の神様」と称されましたが、あるとき新聞記者からその経営の要諦を問われた幸之助は、「『天地自然の理法』にしたがってきました」と答えたそうです。

(p275より引用) 信長の「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」、秀吉の「鳴かぬなら鳴かせてみしょうホトトギス」、家康の「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という、三者の性格を表した有名な言葉があるが、幸之助はこれらを、
「三つともホトトギスが鳴くことを期待してるから出てくる言葉ですな」
とした上で、
「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」
と、自らの境地を示した。

 本書で、最も私の印象に残ったくだりです。



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