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横浜中華街 ― 世界に誇るチャイナタウンの地理・歴史 (山下 清海)

(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)

 いつも利用している図書館の新着本の棚を観ていて目に付いた本です。

 ちょっと前、横浜中華街の聘珍楼閉店のニュースが流れました。
 今から30年以上前、結婚して最初の社宅が横浜(南区)で中華街まで歩いて行けるところでした。20数年前、神奈川支店勤務時のオフィスは中華街そばのビルでした。
 その後も時折訪れることがあり、中華街は私にはとても馴染みのある街です。

 その中華街をテーマにした解説本ということで手に取ってみました。
 あれこれと興味を惹いたところがありましたが、そのいくつかを書き留めておきます。

 まずは、「はじめに」に記されている「横浜中華街の特徴」です。

(p17より引用) まずチャイナタウンとしての横浜中華街の規模は、サンフランシスコやニューヨーク・マンハッタンのチャイナタウンには及ばない。しかし、世界のチャイナタウンの中で、十基もの牌楼(中楼門)があるチャイナタウンは、横浜中華街だけである。
 そして横浜中華街のチャイナタウンとしての最大の特色は、来街者のほとんどが華僑ではなく日本人ということである。世界の多くのチャイナタウンの役割は、現地で生活している華僑が必要としているモノやサービスを提供することである。・・・
 横浜中華街は、横浜のきわめて重要な観光地である。そして、それだけ日本人に愛されてきた街でもある。世界各地のチャイナタウンの中で、横浜中華街のように現地社会の人びとに愛され てきたチャイナタウンはほかにない。

 なるほど、そうなのですね。

 とはいえ、中華街には街を作り街で暮らす華僑の人々の生活の歴史がありました。
 江戸時代末期、1859年(安政6年)。横浜開港を機に外国人居留地が作られたのが始まりです。

(p37より引用) 一八五九 (安政六)年、横浜が開港されると、欧米の商社は、旧横浜村の砂嘴を埋め立てて形成された居留地に、直ちに商館を設置した。前述したとおり、これらの商館の多くは、すでに香港、広州などを根拠地に中国との貿易に携わっていた。横浜に進出したこれら欧米資本は、対中国貿易の豊富な経験から、日本における経済活動においても、中国人を買弁として随伴してきた。 このため、これら中国人の多くは広東人であった。

 この後、華僑密集地域が居留地の一部に形成され、「チャイナタウン」としての形態を整えていきました。

 この横浜中華街の華僑の人々にも、中国本国の政治の動きは大きな影響を及ぼしました。大陸派と台湾派との対立構造です。
 この対立を融和に導いたのは、1986年1月の不審火で消失した関帝廟の再建事業でした。

(p176より引用) 何としても関帝廟を再建したいという華僑の思いは、それまでの大陸派と台湾派の対立を克服させ、一つにまとめた。中国語の「存小異、求大同」(小異を残して大同につく)という精神がみごとに発揮されたのである。
 横浜中華街の華僑社会は、中国を支持する「横浜華僑総会」(大陸派)と台湾を支持する「横浜華僑總會」(台湾派)に二分されてきた。しかし横浜中華街発展会の理事らが中心になり、関帝廟の再建に向けて尽力した結果、厳しく対立していた両派の華僑総会が協力して、政治的対立を乗り越え、関帝廟再建委員会が設立された。

 本書は、横浜中華街の成立から現在に至る歴史的経緯にとどまらず、中華街の人々の暮らしや観光地としての中華街の特徴や変遷、さらには日本国内や海外の「中華街(チャイナタウン)」の紹介と比較等々、多様な観点から「横浜中華街」の実像を描き出しています。

 その内容は、フィールドワークに基づく実証検証を経たものも多く、とても興味深いものでした。
 欲をいえば、多数掲載された「写真」がもう少し大きく鮮明だったらと思います。せっかくの貴重な史料ですから、もったいないですね。

 まあ、ともかく、最近の私の “中華街との関わり” は、デパートの惣菜コーナーで時折買い求める「華正樓」の餃子・麻婆豆腐ぐらいになってしまっているので、また、久しぶりに中華街を訪れてみましょう。



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