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日本の町 (丸谷 才一・山崎 正和)

廃墟の美

 この本も書棚から引っ張り出してきた古い本です。
 丸谷才一・山崎正和両氏による「日本の町」をテーマにした1980年代の対談集です。

 題材になったのは、日本の8つの町

金沢―江戸よりも江戸的な
小樽―「近代」への郷愁
宇和島―海のエネルギー
長崎―エトランジェの坂道
西宮芦屋―女たちがつくった町
弘前―東北的なもの
松江―「出雲」論
東京―富士の見える町

 宇和島以外は、私も訪れたことのある町(東京は今住んでいる町)ですが、お二人の慧眼には感心しきりです。正しく本質を捉えているのか、思い込みに過ぎないのかはともかく、感じた印象をひとつのコンセプトとして言葉にまとめる見事さは、(当然ですが)私など到底足元にも及びません。

 たとえば、「北陸の京都」と言われる金沢について、京都生まれの山崎氏が興味深い「金沢・京都比較文化論」を開陳します。

(p16より引用) 山崎 京都人にとって文化というのは自家用品じゃない、自分で消費するものじゃないんですよ。人に売るものなんですね。・・・
 観光都市に対立する概念としての文化都市というのは、要するに自家消費用の文化で行くといってるわけでしょう。京都人にとっては、文化即観光、観光即文化ですね。ところが金沢の人にとっては、文化と観光は対立概念だというのが大変おもしろいとわたしは思いました。

 また、小樽をテーマにした対談では、東京と横浜、大阪と神戸といった双子都市の比較で、札幌と小樽の関係を山崎氏はこう指摘します。

(p50より引用) ところが小樽は、それ自体が近代都市で、その発展として札幌が出来てきたというつらさがありますね。札幌がどんどん大きくなっていくと、小樽の持っていた機能を全部継承してしまう。ということは、裏返せばすべて吸い上げられてしまうということで、どうも小樽は札幌に骨の髄までしゃぶられてしまった。

 さらに、小樽の「廃墟としての美」を、運河の保存とその観光化によって生まれ直させようと、二人の話が弾みます。

逆説の町

 丸谷氏・山崎氏の対談の面白さの源は、両氏の対象に対する切り口の多様さ・斬新さにあります。

 「長崎」の章で発揮された歴史的な切り口からのやりとりです。

(p114より引用) 丸谷 そう、長崎をうんと特殊な地域とすることによって、徳川三百年の封建体制がきちんと出来た。そこのところは、はっきり言えるような気がする。
山崎 つまり日本を閉じるために開いた町という逆説があるんですね。

 確かに、江戸時代、長崎出島に海外との接点を限定することにより、その他日本全体を覆う鎖国政策を維持したと言えるのでしょう。このあたりの考え方・発想には納得感を感じます。

 もうひとつ、長崎という町の特殊な性格についての山崎説です。

(p119より引用) 山崎 ですから、そんなふうに、外国文化をたえず受けいれていて、それが日常的になってしまうと、外国そのものが、刺戟として感じられなくなりますね。緊張感がなくなってしまう。ですから、長崎という特別の世界の中では、国際性は何もなかったという逆説が成り立つと思うんです。
丸谷 つまり、すべて日常のことだった。

 長崎といえば「国際的」という通念に対して、シンプルな切り口で異を唱える、こういう知的な刺激を発することは結構難しいことだと思います。
 私のような凡人は、なかなか割り切った立論ができないものですし、すぐ些細な例外を気にしてしまうものです。

 さて、対談集の中からの最後のご紹介は、「弘前」をテーマにした章での山崎氏と丸谷氏とのやりとりです。

(p173より引用) 山崎 言葉の話にまた戻りますが東北の言葉は、もちろん私にはよくわかりませんけれども、だいたいにおいてしっかりした語源があって、いわゆる方言じゃなくて、むしろ昔の古典的な日本語が保存されているという感じですね。・・・さらにあえて論理を飛躍させますが、だいたい東北は地名がきれいですね。
丸谷 それは確かだ。それはね、また論理を飛躍させるけれど、(笑)結局、大和言葉とアイヌ語と出会ったときの衝突感なんです。それがすごいんだと思いますね、おそらく。

 民俗学・言語学・歴史学・・・、多様で豊富な知識を材料に、自分たちなりの新たなコンセプトを創発していく、そういうやりとりができることは素晴らしいものです。
 インプット→処理→アウトプット。私は、どのプロセスも全くもって未熟です。


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