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新装版 赤い人 (吉村 昭)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

 吉村昭氏は私の好きな作家のひとりです。
 本書は、1977年に単行本として発刊された作品です。いつもながらの膨大かつ緻密な資料渉猟を礎とした高密度の内容ですね。

 タイトルの「赤い人」は囚人のこと。北海道の原野の開墾に徴集された囚人たちと看守との壮絶な軋轢を描いています。

 当時の内務省を中心とした政府の囚人に対する基本方針は徹底した「懲戒主義」でした。明治14年9月、樺戸集治監開設式に来道した内務省監獄局長大書記石井邦猷は、囚人への足袋貸与を求めた月形潔典獄に対しこう断言しました。

(p94より引用) 「全国の囚情は、まことに不穏だ。それを鎮静する方法は、囚人に決して弱みをみせぬことにつきる。集治監の目的はあくまで囚人を懲戒させることであり、重い労役を課して堪えがたい労苦を味わわせることにある。それによって、囚人に罪の報いの恐ろしさを教え、再び罪をおこさせぬようにすることである。・・・」

 この方針に基づき、樺戸集治監では囚人に対し過酷な重労働を課したのでした。そして、こういった北海道開拓に囚人を徴用することについて、当時ハーバード大からの留学帰りであった少壮官僚(太政官大書記官)金子堅太郎は、北海道行政組織の実態視察の復命の中で次のように論じています。

(p184より引用) 「(囚徒)ハモトヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、ソノ苦役ニタヘズ斃死スルモ、・・・マタ今日ノゴトク重罪犯人多クシテイタヅラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテコレラ必要ノ工事ニ服セシメ、モシコレニタヘズ斃レ死シテ、ソノ人員ヲ減少スルハ監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日ニオイテ、万止ムヲ得ザル政略ナリ。・・・」

 このころは、囚人に無償の労役を課することは合理的と考えられており、彼らの「人権」、もっと言えば「命」という観点は全く存在すらしていなかったのです。

 同じ時期、隣の空知監獄署の囚人たちには、幌内炭山への出役が課せられていました。その環境も想像を絶する劣悪・悲惨なものでした。

(p212より引用) その年の末までに、炭山への出役によって二百四十一人が病死または衰弱死し、七名の者が射殺、斬殺された。
 その年、東京では首相官邸でもよおされた仮装舞踏会が華やかな話題になり、サイダーが製造発売され、庶民の間には狆の飼育がさかんであった。

 自らの著作の中で、主観的な心情をストレートに表現することの少ない吉村氏流の記述です。

 こういった懲戒主義の主張が強い中、囚人の更正に重きをおく考えも、一時ではありますが登場しました。

(p255より引用) その頃、監獄制度の改良を熱心に推しすすめていた司法大臣清浦奎吾の努力がみのって、新たに監獄則が改正された。
 その要点は、それまで囚人に課せられた労働が懲戒を目的としていたことを廃し、囚人に技術を教えこみ、精神的な教化をほどこすことであった。

 しかしながら、この方針も、明治41年の厳罰主義を採用した新刑法の施行により、旧来の過酷な環境に後戻りしたのでした。

 さて、この小説の舞台となった「月形」ですが、私にもちょっと縁があります。
 今から30年(注:初投稿当時)ほど前、社会人になって最初の赴任地が北海道岩見沢市。月形はその隣町で何度も訪れたことがあります。
 当時の印象からは、開墾前が人も寄せつけないような原生林だったとは想像もできません。国道12号線をはじめとする今の北海道の幹線道路の礎が数多くの囚人たちの峻烈な労役により築かれたことは、本書を読んで初めて知りました。
 砂川市には、犠牲になった囚人を慰霊する「旧上川道路開鑿記念碑」が建てられているとのこと、一度訪れてみたいものです。



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