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職業としての政治 (M.ヴェーバー)

政治家の資質

 マックス・ヴェーバー(Max Weber 1864~1920)は20世紀を代表するドイツの社会科学者です。
 その研究範囲は、社会学・政治学・経済学・経営学・歴史学・宗教学等に広がっていますが、それぞれの専門領域ですぐれた業績を残しています。

 彼の近代資本主義形成過程の研究は、現代の経営学や官僚制理論に至るものです。
 資本主義の進展に伴う経営の大規模化はそれぞれの役割・プロセスにおいて専門的職能集団を生み出し、その流れで組織合理性や効率性を目指した官僚組織が形成されます。その官僚制組織の構成員は、各自の自主性・主体性ではなく、合目的的な「精神なき専門人」たる特性が求められるのです。

 そういった典型的官僚組織の構成員である(文字通りの)「官吏」と、本書の考察対象である「政治家」を対比して、以下のように論じています。

(p41より引用) 政治指導者の行為は官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。官吏にとっては、自分の上級官庁が、・・・自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に・・・執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反して、政治指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。

 政治家には「自らの意志に基づく行動とそれへの責任」が求められます。そういう政治家に必要な資質として、ウェーバーは「情熱」と「判断力」の二つをあげています。

(p78より引用) 情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力-これは政治家の決定的な心理的資質である-が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。
・・・実際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題である。

あいも変わらず・・・

 巻末の解説によると、この本が書かれたのは1919年、ドイツが第一次世界大戦に敗れ、ドイツ全土が騒然たる革命の雰囲気に包まれていた時期です。まさにドイツ帝国が崩壊しワイマール共和国が成立したころです。

 さて、それから約1世紀を隔てた今、政治を取り巻く世界では、少なからずヴェーバーが描いた姿が営々と続いているようです。

 まずは、一部の「ジャーナリスト」について。

(p47より引用) 成功した暁にこそジャーナリストには特別に困難な内的要求が課せられる。世間の有力者のサロンで、一見対等に、しばしば昔からちやほやされて(というのは恐れられているからだが)交際するということ、しかも自分がドアの外に出た途端に、おそらく主人はお客の前で「新聞ゴロ」との交際について弁護これ努めるに違いない、と分かっていながらかつ連中とつき合うというのは、それこそ生やさしいことではない。-また、「市場」の需要があればどんなことでも、また人生のありとあらゆる問題について即座に納得のゆく意見を述べ、しかもその際、断じて浅薄に流れず、とりわけ品位のない自己暴露にも、それに伴う無慈悲な結果にも陥らないということ、これも決して生やさしいことではない。だから、人間的に崩れてしまった下らぬジャーナリストがたくさんいても驚くに当たらない。

 このあたりの輩は、最近のマスコミ流には「コメンテーター」とかの肩書き?で呼ばれているようです。

 次は、ちょっと前には「派閥の実力者」とか「King Maker」とかと言われていた人たちが近いですね。ヴェーバーは「アメリカの政党システム」の解説として記しています。

(p65より引用) この人民投票的な政党マシーンとともに登場した人物が「ボス」である。ボスとは何者であるか、自分の計算と危険において票をかき集める政治上の資本主義企業家である。・・・彼は社会的名誉を求めない。・・・彼は権力だけを求める。・・・
 ボスははっきりした政治「原則」をもたない。彼はまったく主義をもたず、票集めのことしか考えない。・・・「プロ」だ、政治屋だと社会的に軽蔑されても、彼は平気である。・・・もちろんボスは、自分たちの金づるや権力の源泉を脅かすようなアウトサイダーには抵抗する。しかし、選挙民の好意を競う闘争では、腐敗の敵として知られる候補者でも受け入れざるをえないことがよくあった。

 最後は、いつの世にも・・・という指摘です。

(p80より引用) デマゴーグの態度は本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、というよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない。単なる「権力政治家」・・・の活動は派手かも知れないが、実際には空虚で無意味なものに終わってしまう。

 先にも書きましたが、この本が出版されたのは敗戦直後、ドイツ激動の真っ只中でした。革命の高揚感と敗戦の自虐モードが入り混じった不安定な世情だったと思います。

 その中でヴェーバーは、周りの人々をまた自らを奮い立たせるように、希望を込めてこう締め括りました。

(p105より引用) 政治とは、情熱と判断の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。・・・人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志で、いますぐ武装する必要がある。そうでないと可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が-自分の立場から見て-どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。


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