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資本主義の時間 自然の時間

はじめに

きっと書きたいことは、こんな感じのタイトルのこと。

最近、庭や畑に時間を使っている。
やればやるほど、感覚が変わってくる。
自然の息吹や圧倒的な力を感じる。

小さいとき、庭の草むしりをやらされていた。とても嫌だった。部屋でヘッドフォンをしてロックやポップスを聴いていたかった。

もし今のように自然の息吹を感じるほど、自然に毎日触れていたらどうだったろうか。

でも、自分から自然に触れていくことにようやく向き合えたからこその体験なんだろう。

しかし、言いたいことは、毎日主体的に自然に触れることで手に入れる感覚が存在するということ。たまにしているとわからない感覚のこと。このことを言葉にしておきたいと思ったのだ。

自然に触れて目覚めていく感覚

最近、ほぼ毎日、自分たちの農園に行く。

以前は、仲間たちがせっせとハウス建てたり、防草シートを敷いたり、種から苗を作って水やりしたり、僕がほとんどいない中、着々と進めてくれていた。そのときには、わからなかった。

僕らは忙しくさまざまな活動をしていて、何日か手の空いた時だけ、農園に行く感じだった。そんなあるとき、僕らの農園の先生から、「誰か一人は毎日農園に行って活動してほしい」と言われたことがある。

ドキっとした。それぞれ他のこともしながら精一杯やっているけれど、なんだか怠けているようなことになっているのかも。生半可な気持ちでやるべきではないと言われたように思った。

でも、今はそのことの意味が少しわかる気がする。それは、毎日しっかり働きなさいという意味ではなかったのではないかと今は思っている。『自然の時間』の感覚になると、毎日農園が気になるようになるのだ、たぶん。いや、少なくとも、僕はそうなりつつあるから、そう思う。

『自然の時間』と書いたのだが、それには理由がある。明らかにパラダイムや感覚が異なるのだ、僕がこれまで感じてきた感覚と。そしてそこから見えてくる景色や考え方まで、それは影響してくる。

『自然の時間』と書いたのは、言葉にしてみると、自然というのは途方もなく大きくて、どこまでやっても人間の力が及ばないもので、どれだけやってもまったく達成される感じもないもので、だからどれだけでも関わることができるし、どれだけやってもやりたいことが生まれてくる場所で、時間という概念が『資本主義の時間』とは明らかに異なる。そう、簡単に言うと、コントロールできる要素はほとんどないという感じ。

『資本主義の時間』では、『タイムマネジメント』や『タイパ(タイムパフォーマンス)』なんて言葉があるように、人間の力でコントロールしていけるという前提がある。

『自然の時間』では、何ひとつコントロールできる感じではなく、自然そのものに合わせていく感じで、そのためには自然そのものを学び取っていく時間も必要である。

畑のつくり方や庭の手入れの仕方、道具の使い方なども今では検索すれば、簡単に知ることができ、それを知ってやってみればそこそこいい成果も出るところもありそうだ。

しかし、残念ながら僕は探究癖があるから、謎は深まるばかりで、途方もないものを相手にしている感覚が自分の中に広がっていく。それでも手がかりを得ようと絞り込みながら足場となるところを探しながら、途方もない存在に向き合うのだ。

そうしているうちに徐々に、『資本主義の時間』でいう『タスク管理』的なことよりも確実に今必要なことを見つけ出し、それを着実にすぐ片づけていくという繰り返しが重要なんだと見えてきている。

もちろんその繰り返しからルーティン化できたり、さまざまなものの配置や必要な道具、その道具の手入れなどが徐々に整理されてくる。しかし、そういった、例えば道具の状態なども、ちょっとした時間にどうするか決めて、購入するとか手入れするとか、ルーティンの中の隙間でこなしていく必要が出てくる。

これはなかなか創造的で楽しい要素で、最適な状況を見つけ出すための実験期間を設けて、手間で非効率でもしばらく必要な活動を繰り返していくことが重要だと感じている。

しかし、『自然の時間』で重要だと気づき始めていることは、一日に進められることが本当に限られており、何もかもできないということだ。だから、無理な計画も立てなくなるし、今日無理なことはまたにする。

『資本主義の時間』でも、そういうことはあるのだけれど、感覚がちがうのだ。『資本主義の時間』では、それは可能だけれど、自分に無理したくないからしないという選択か、あとは怠けている・サボっているということになる気がする。

『自然の時間』を生きていると、当然のこととして今日あきらめなければならないとか、今日でなくていいよねとか、たくさんある。

もし僕らが『自然の時間』で資本主義社会を生きたらどうなるのだろう。

この記事を書いてから季節が変わり時が過ぎた今、僕はほとんど農園に行けていない。でも、僕の中に芽吹いた『自然の時間』は細々と生きている。

そしてそれは、自分の意思決定の仕方にも自然と影響している。僕の中にもともと『自然』があり、その『自然』に従い生きていけばよいのだと『自然の時間』が確信をもって教えてくれたように感じる。

今、地域SXファシリテーター養成講座を進めている。このコンテンツの中に『サステナビリティ感性』という言葉を位置付けた。これは、森のように考え、森のように生きる感性のことである。それは、すなわち『自然の時間』に通じる感性である。

大きな自然の時間の流れを感じること(森の時間感覚)、大きな自然の繋がりの中で生きているのを感じること(エコシステム感覚)ができるようになると、ビジネスも本当の持続可能な姿が見えてくるはずである。

持続するための姿を頭だけでなく、感じることによってその本質を体現できるようになる。それは理解ではなく、コモンセンスとして是か非か感じ取れるものである。これからのビジネスパーソンのビジネスリテラシーである。

何かを感じたら、農園を始めるか、森の手入れを始めることをお勧めする。その活動の中で、資本主義に酔いつぶれている状況からどんどん目が醒めてきて、本当の自分の姿や自然な在り様について気づいてくるはずだから。

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