見出し画像

連載小説 サバンナ #1 (再掲)

 寒い朝だ。

 自分の体温で温まった毛布にくるまっているというのに、背筋がぞくぞくとする。

 隣のリビングから依子が何かを唱える声が、夢と覚醒の狭間に張った薄紙にぼたぼたとインクを落とすように響き、俺は再び夢の中に戻ることをあきらめる。

 それにしても寒い。思い切ってベッドから起きだし賃貸マンションの安普請の引き戸を少しだけ開くと、隣室のリビングのソファに腰かけた依子が、ぶ厚い本を膝に置き、開いたページに覆いかぶさるようにして呪文のようなものを唱えている。

「ねえ」
 声をかけると、依子はびくりとしてその本を閉じソファと背中の間に隠した。褪せた空色の表紙がちらりと見えた。そして急いでぎこちない笑顔を作り、あいさつをしてくる。
「おはよう」

「今朝は寒いな」
 俺は引き戸を最後まで開き、リビングに入る。壁時計を見るとまだ6時前だった。

 依子は毎日5時半には夫婦の寝室をそっと出ていき、謎の儀式をし始める。これは3年ほど前、息子の真が2歳になったころからの習慣だ。例え家族旅行の宿泊先でも、依子は早朝に起きだして持参したその本を洗面所に持ち込んでなにやら唱えているのだ。

 俺が気づいているのを知っているのかどうかわからないが、依子は毎朝何をしているのかについて俺に話したことはない。
 
 俺のほうも、依子が一体何を唱えているのかを尋ねたことはない。それを問うてしまったら、そして何かしらの答えを得たのなら、もう依子と暮らすこと自体が無理になってしまう気がするからだ。
 
 この謎の儀式について考え始めると憂鬱になる。だから見てみないふりをする。朝ごくたまに起こされてしまうことがある以外には、さして支障もないのだし。
 
 あまりに寒いので、ダイニングチェアに掛けてある薄手のダウンをパジャマの上から羽織る。今日は何月だったっけ?壁のカレンダーで確認しようとしたが、なぜかそれは外されていた。

「コーヒー淹れるね。トーストとサンドイッチ、どっちがいい?」

 聞かれて我に返る。依子はいつの間にかキッチンに移動していた。さっとソファに目を移したが、あの空色の本はもうそこにはなかった。依子が俺に見つかる前に片づけたのだろう。

「トーストにする。チーズをのせてくれよ。あと、今朝の新聞は?」

 普段は俺が起きてくるころにはダイニングテーブルの上に、朝刊が置かれているのに今朝はない。

「休刊日よ。」

 そうなのか。新聞の日付を見たかったのに。

 仕方なく俺はテレビのリモコンを手に取って電源ボタンを押し、NHKの朝のニュースにチャンネルを合わせる。アナウンサーが抑揚のない声で今日の天気を伝えている。東京都の最低気温は18度。朝のうちは曇り空が広がるが午後からは晴れ間が出る。

 おい、じゃあ今ここは18度はあるってことなのか?それにしては寒すぎるだろう。俺はより一層の寒気を感じダウンの前を掻き合わせた。そうだ、依子に聞けばいい、今日は一体何月何日なのかと。変だと思われるかな。でもいい、そもそも依子のほうこそ毎朝おかしなことをしているじゃないか。

 台所にいる依子に声を掛けようとしたとき、けたたましい警報音がテレビから響いてくる。そしてその画面に白い文字で『ニュース速報』と表示された。

 
  続く


一気読みはこちらから ↓


よろしければサポートをお願いします!いただいたサポートは今後の記事の取材費としてつかわせていただきます。