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勝手に新奇な言葉を拵えることは慎むべきだ。

90年前にあった「新語」批判

冒頭の言葉は、88年も前の1934(昭和9)年に
刊行された谷崎潤一郎「文章読本」に
記されている
(先日の『讀賣新聞』朝刊/編集手帳)。

国語審議会が得意そうな「新語」批判だが、
谷崎は、当時、使われ始めた
「待望」という単語を「新語」として挙げ
「期待と希望を一つにするのはせわしない」と
ネガティブな感想を述べている。
いまは定着している「待望」でさえ、
当時の新語として扱われ、
しかも、よからぬ言葉と見なされている通り、
新語を一語、一語、とやかく言っても仕方がないのだ。
残る言葉は残るし、消える言葉は消える。
“言語は変化するもの”という達観は、
この新語にこそあてはまると言える。

崩壊しつつある日本語


日本語の“変化”で問題視すべきは、
話題になりがちな、新語などではなく、
コミュニケーションの手段としての
言語の骨格を揺るがし、
“崩壊”と言ってよい様相すらもたらす
次のような“変化”だ。                                

                                 ↓

●平板読みの横行による、
  口語における意味の消失と
  単なるカタカナの羅列と化した発音
  Ex.ゲンダイオペラカイヲケンインスル

●語頭アクセントの消失による複合語の分裂
  Ex.国際人、道法違反だ

●「形」に頼る口語の蔓延に象徴される語彙の枯渇
   Ex.各校の主将のみ行進する<形>に変更する
        <形>となりました。

●そして“敬語”の消失

「母」と言うタレントが少数派となって、
多くが「お母さん」と堂々と言ういま、
身内に対して神妙に敬語を使う会話も市民権を得た。
これは社外に向けたビジネス会話についても同じだ。
さらに、敬語を使うべき相手に向かって
「いただいてみてください」と言うに
至った“いただく病”の蔓延で
最早「敬語」は乱れているレベルを
超えて、消失したと言うのがふさわしい。


これらの現象が今後、口語をさらに侵食し常態化した場合、
コミュニケーションに及ぼす障害はますます深刻になる。
いまでさえ、理解不能なまま、
ただ聞いて頷いていることが少なくないように見える。


先に挙げた事例のほかに
「もってつけの」や「働きづくし」など
自己流で慣用句を加工する「フェイク慣用句」が
広がれば日本語の意味不明度はますます上がる。

「新語」について言えば、
相手の理解は二の次で、
個々で勝手に、自分でつくった
「マイ新語」を話す時代が、
もうそこまで来ている

と言っても大袈裟ではない。


読書時間の激減だろうか、
やはり原因は。











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