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お酒はミステリーと共に

 酒が好きだ。弱いけれど好きだ。二杯も飲むと顔が真っ赤になり、周りから心配されるけれど、それでも好きに違いはない。学生の頃は吐くまで飲み、鴨川に飛び込んだりしたこともあったが、今では許容量も把握し、一応嗜む程度に収めることはできる。

 私は普段、友人と飲むことが多い。彼らと居酒屋で盃や冗談を交わすことは、人生に良い影響を与えてくれている気がする。
 ただ最近、独りで飲むのも悪くないとも思う。料理を作りながら、それと同時にラジオを聴きながら飲む酒も非常に楽しい。耳も目も鼻も手も口も、そして脳も楽しい。キッチンドランカーと化した私に死角はない。煮込まれていく肉や野菜を眺めながら酒を飲むと、私の脳みそまでとろけて融解していくかのような錯覚を覚え、日々の悩みがどうでもよくなる。というか、五感のほぼ全てを使用し、その上アルコールを摂取すると、そこにネガティブな思考が挟まる余裕が無い。悩みに隙を与えない私のアルコール観は、社会を渡り歩くためのスキルといっても過言ではない。
 また、五感のマルチタスクの境地に到ると、何故だか聖徳太子もこんな気分だったのではないかと勝手に共感する。彼は耳専門のマルチタスカーであったが、そんなことは酔った私としてはどうでもいい。聖徳太子は豊聡耳神子と呼ばれていたらしいので、私のことは豊聡耳目鼻手口脳神子と呼んで欲しい。欲しくない。

 まあこうしてアルコールを摂取しながら料理を続けていると、当然さらに酔いが回り、判断能力の低下が著しくなる。
 実際今日私は飲酒後にじわりと染みる、優しい味のポトフを作ろうとしていたのに、いつの間にかカレー粉をドバドバと投入している。それも激辛。今以上に胃や腎臓に鞭打つなど素面では考えられないが、しかし、酔いどれの私はその時その時点で、一番身体が欲しているものを作り始めていたのだ。人間とは、げに恐ろしいものである。

 長年、この判断能力の低下が飲酒のイメージを下げている。飲酒運転は言語道断だが、その他にも口を滑らせて人を傷つけたり、気が大きくなって何かを失うことも往々にしてある。判断力が鈍ることは人間にとって悪い事であり、飲酒の気分が高揚するあの気持ち良い感覚を得るための代償、と考えられることが多い。
 飲酒の「判断能力の低下作用」を、もっとポジティブに使うことはできないだろうか。そう思った私はハイボールを作り、読みかけだったミステリー小説を読むことにした。
 数時間後、読破する。得も言えぬ喪失感と、謎を暴いた後の解放感が私を満たした。これはいいかもしれない。
 私は小説にしろゲームにしろ映画にしろ、ミステリーものに取り組む際、どうしても犯人を予想してしまう。しかもかなりタチが悪く、何人も容疑者を挙げ、「根拠はないけど、何となくこの人怪しくない?」と思いながら物語を進める。そして、その中の一人が犯人だったものなら「ほら!やっぱり!ほーらこの人犯人じゃん!」と大喜びする。考えたふりをして、いくつもの保険をかけるくせに、ネタばらしの時には自分があたかも名探偵だ、みたいな態度をとる自分が嫌いだ。これをすると、驚くべき展開にもなんだか斜に構えてしまって、物語の中に飛び込めないというか、感情移入の妨げになる。つくづく嫌な大人になったなと思う。
 だが今回は、(飲酒によって全くと言っていいほど推理できず)何も考えずに物語を追体験したため、急展開するストーリーに純粋に驚いた。私はついに、ミステリーというジャンルを十全に楽しむことができたのだ。ミステリーに必要なものは、中途半端な考察力ではなく、酒だった。

 勿論、考察しながらストーリーを進めるのはミステリーとしては王道の楽しみ方だと思う。だから、飲酒ミステリーを勧めることはしない。しかし、下手な推理をかき消し、まっさらな気持ちで楽しむミステリーもまた良い、とだけは言いたい。活字がうねうねと動き出したり、頭が舟を漕ぐ場面もしばしばあったが、それでも楽しかった。

 今回の件で、ある視点から見れば悪いものであっても、また別の視点から見ればそれは魅力的なものになる、ということが分かった。判断力の低下は、必ずしも悪ではないのだ。酒とミステリーはそれを教えてくれた。
 さて、次はどのミステリーの世界へ飛び込もうか。へべれけのまま、間違って鴨川に飛び込まないよう気をつけようと思う。


 

 

 


こんなところで使うお金があるなら美味しいコーヒーでも飲んでくださいね