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幼稚園で哲学、居酒屋でカルパッチョ。



この1年での結論

カルパッチョ食べようよ

憂鬱な時に物思いになんか耽ってないでさ


スーパーでカルパッチョの元を買ってきて、
手作りまでしちゃった





大学生になった。
人生の夏休み。
少年期から青年期へ。


思えば、少し長く生きすぎたようだった。

虐待、いじめ、そして孤立。
どうせこの先逃げ場や居場所などないと、
そういう暗い未来を自覚したのは小学4年生。


そんな絶望感こそはあれども、
それなりに生きて小学6年生。
それなりに勉強して中学3年生。
それなりに部活して高校3年生。

そして大学1年生。


僕、何を理想としているのだろう
僕、何が一体幸せなんだろう
僕、何を目指して進んでるんだろう

僕、なんで生きているんだろう


こうした絶望感を持つようになった。


中途半端に勉強ができたので、地方旧帝と呼ばれる大学に入ってしまい、周りは皆優秀な人ばかり。勉強・サークル(部活)・バイト・人間関係。全てを完璧にこなしている。むしろ、これまで完璧にこなしてきた結果として、自身を旧帝たらしめる。


美味しいカフェに行くぐらいの元気はあった


そして、軸がある。


何が幸せかを知っている。
何が理想かを知っている。
その日暮らしに見える人だって、
それが幸せだからそうしている。

しまいに辛くなってしまって。そこから解放されるために、おらが心は理想探しの旅に出る。
旧帝の天才たちの人生や理想は素晴らしい。
彼らのようになりたい。ならなければならない。

その結果、他人の人生や理想に執着する
バケモノに。行き過ぎた同質化感情。

家族や地元の友達の愛に囲まれてホームシック。
そういう人を見て、自分にはそんな家族や友人がいないことに対して抑うつになっていたり。
僕はそれを「ホームないシック」と呼んでいた。そのホームないシックについても、これが正しいものなのか思考を重ね、そして辛さに喘いで。

空から地元



同質化の営みの中で僕はいつしか鬱になった。
日々のそういう考えや苦しみを整理しようと、
実に沢山の文字を記した。


そこから展開し、なぜ自分が行き過ぎた同質化に走るのか。なぜ自分には理想がないのか。自分は何を目指すべきか。そもそも自分が幸せと感じるものは何か。あらゆることについて考え、そして書き記した。


その一端。
僕は名大祭に執着をしているが、なぜ執着しているのか。約7000字の「鬱ツイ」と銘打ったこのnoteには、居場所と関連付けて色々考えている。


といった感じで、
鬱になってはそれを思考し言語化し、
鬱になってはそれを思考し言語化し、
そして鬱になる。


鬱になってはそれを思考し言語化し、
鬱になってはそれを思考し言語化し、
鬱になってはそれを思考し言語化し、
鬱になってはそれを思考し言語化し、
鬱になってはそれを思考し言語化し、
鬱になってはそれを思考し言語化し、
鬱になっては・・・ 鬱・・・・・





崩壊。





答えの見つからない場所に
耐えられなくなって、限界を迎えて。

崩壊の瞬間は些細だった。
2月末の合宿のコンペで些細なミスをして。結局そのコンペでは優勝したけれど、色々なことが重なって。なぜか合宿先のホテルから大雨の中。
傘も刺さずに15キロ。
逃げるように歩いて。走って。




理想から逃げたい
思考して逃げたい
自分から逃げたい





理想から逃げられない
思考しても逃げられない
自分から逃げられない








メンクリに行ったところ、
強迫性障害だと診断された。
鬱はそこから来ているらしい。


強迫性障害というのは自分の意思に反して、考え(強迫観念)や行動(脅迫行動)が止まらなくなってしまう精神疾患。同質化欲求やそれに付帯する思考がその病状に当たるんだとさ。



これまで自分は鬱に対して、
思考で対抗しているつもりだった。
考えて言語化して鬱になって。また考えて言語化して。そのサイクルの中に自分なりの答えがある気がして。これまでなかった居場所やら逃げ場を自分の中に作れる気がして。



考えることで距離を置き、
考えることで客観視し、
考えることで解決策を見つける。


しかし、それらは間違いであった。そうした思考は全て強迫性障害が導く「強迫観念」であり、鬱に対して思考で逃げているつもりが、実は思考に追いかけられていたということ。



理想がないという絶望感

他人を理想にする焦燥感

理想になれないという鬱

この僕に残ったのは思考

その思考すらも強迫観念であり、すなわち鬱。
解放のための逃げ場はいつしか崩壊の端緒へ。


メンクリ終わりにお出かけする生活


僕の1年間の鬱、そしてそれに関する思考を一言で振り返ると、「幼稚園の中で哲学をしている」ようだったと思う。 精神的不調を制御するためになされたことは実は精神疾患の表出そのもの。

僕は精神疾患で矮小化された脳みその中で大層なことを考え、それを言語化してただけ。幼稚園という稚く狭い環境で高尚な哲学をやっている気分になることと何も変わりない。

だからさ、鬱になって、
それを考えて言語化することなんてやめて。

Noteに7000文字の鬱ツイ!とか言って精神疾患者の歪んだ思考を垂れ流すのをやめて。



カルパッチョ食べよう。





先日同窓会に行った。
後輩たちの目は輝いている。
先輩たちの振る舞いからは余裕を感じる。


同窓会なのに同級生は殆ど来ない。
だから、物珍しい大学1年生ということで、楽しい大学生活の土産話でも聞こうかと話しかけてくる後輩たち。なるほど、同窓会が「人生の答え合わせ」と言われるわけだ。


しかし、僕があまりにも無難なことばかりを言うので後輩は興味を失う。それもそのはずで、僕は特に精神疾患と診断されたあと、その日暮らしで生活している。バイトがある日はバイトをして、遊ぶ予定がある日は遊ぶ。それで精一杯だから話せることは少ない。

いつしか話題は後輩の進学先が田舎すぎるという、切なくも希望に満ちた面白い話になった。


そんな日の夕食に食べたカルパッチョ。


美味しい。

独りベッドの上で鬱になって
そして編まれた厭世的な言葉と
論理から酷く離れた妄想と


カルパッチョはこんなにも美味しいのに。

鬱になっていられない。いや、鬱になるのはいい。精神疾患になるのも仕方がない。だけど、大事なのは「考える」ことではない気がする。



もちろん、気分転換も上手くいかない。
実際僕は一人旅したけど、ずっと憂鬱な気分だった。人と会ってても辛い時は辛い。

だけどさ、だけどさ、カルパッチョは美味しい。
この美味しい刺身は少し鬱から離れている。

辛いことを考えても仕方がない。
辛いことには蓋をすればいい。
僕はそういう言説を嫌ってたけど、
結構そうかもしれない。


だって精神疾患は人の考えを狭める。それは幼稚園であり、そこで編まれる言葉など幼稚園の哲学だから。そこで得られる幸福や逃げ場など居酒屋のカルパッチョには及ばない。


だけれども、今でもどうにもならないことを考えては、こうして言語化して、また考えて言語化している。まあ、ゆっくり向き合えばいいや。



季節が一巡し、大学2年生になる。
僕の考えは、生活は、病はどうなるだろう。

とりあえず、居酒屋でもう一度カルパッチョを食べよう。誰かとでもいいし、1人でもいい。なんなら合宿の時みたいに手作りしてもいいし。




きっと繰り返される
「幼稚園の哲学」と向き合いながら。


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