Come Out To Show Them――当事者とのロビイング経験から その2

その1 https://note.com/northloungeradio/n/n351e2fa49f1a

2 ロビイングや抗議行動はトラウマの解放の「場」として適切なのか

かおりさんやマークと当時、よく話していたのは、いわゆる「糾弾」で当事者はほんとの意味で癒されるのか、という疑問だった。

(小松原織香の『当事者は嘘をつく』を読んで、言語化できる気がしたので、このnoteを書いているのだけれど、ずいぶんズレた話なので、引用はしないことにしました。すごい本なので読んでください)

「当局を相手に、当事者が被害経験を語り、自分たちの要求を通す」型の運動に、3人とも違和感があったのだ

また、浦河のべてるの家の実践なども念頭にあった。

2-1 自分のカウンセリング体験

わたしはマイノリティとしての生きづらさを抱えていた(いまも抱えている)が、わたしの経験上、運動はわたしを孤独から救ったけれど、癒さなかった。

わたしを癒したのは、運動仲間に冷めた目で見られながら駆け込んだカウンセリングだった。

しかもなんと、そのカウンセラーは日本会議系の新興宗教の信者だった。

かれにおそわったのは認知行動療法で、わたしはかれに心を許さないまま自分を癒すスキルを手に入れた。とても優秀なカウンセラーだったのだ。

2-2 「被害者」であり続けること

前回のnoteの冒頭で紹介したのは、スティーブ・ライヒのCome Outという曲にサンプリングされた公民権運動のとき警察に暴行され誤認逮捕された黒人の青年のセリフだ。

無実を訴えるために、治りかけていた傷を開いて血を見せなければならない。

これほどの矛盾はないかもしれない。

公正な社会をつくるために、傷ついた者はずっと「被害者」であり続ける必要があるということだろうか?

そう思わないし、そうあるべきではない。

また、運動は往々にして負けつづける。

遠大で抽象的な目標を掲げれば掲げるほど、必然的にそうなる。

「負けることによって仲間が増える」ともよく言われるし、それはその通りだし、そうやって自分たちの闘いをねぎらい、英気をやしなう、ということはある。よくわかる。

でも遠大で抽象的な目標を掲げて負けつづけることこそが、まさに自分たちの正しさを証明しているのだと勘違いする/勘違いさせるのは、腐敗した運動なのだ。

もちろん、当事者みずからが「役割」を背負い、被害者としての「ペルソナ」を身につけるという側面もあるだろう。

その主体性を否定するならば、それはそれでおかしな話なのだけれど、当事者は、いつでもその「役割」や「ペルソナ」を中止し、去ることができなければならない。

3 ヘイトスピーチになるべく再被曝しないために

以上のような運動の落とし穴に落ちないための戦略は2つある。

1つは、被差別体験の痛みやヘイトスピーチ被害を、数字やすでに文字化された文章をつかって語ること。2つ目に、短期的勝利を積み重ねることである。

3-1 資料の用意

1つ目について、念頭にあったのは「ヘイトスピーチによる被害実態調査と人間の尊厳の保障」(龍谷大学人権問題研究委員会 2016)だった。

この論文では、ヘイトスピーチのターゲットである当事者たちに、在特会が京都朝鮮第一初級学校に対して行った街宣について、知っているかどうか、どのような感情を持ったか、日本各地のデモや街宣についてはどうか、感情はどうか、ジェンダーによる違いなどの項目について調査をし、数値化している。

しかし、アイヌヘイトの被害について、このような調査はこれまで存在しない。アンケートをしてみようかという案もでたが、そもそもわたしたちのカウンター行動は、当事者の迷惑をかえりみないでおこなうものであり(迷惑をかけたいわけではないが、カウンター行動などというものは必然的に迷惑である)、当事者との信頼関係が必要なアンケートや調査をする主体として不適当なのだ。

それに、もうロビイングまで時間がなかった。

わたしたちは、「法律家がロビイングするべきじゃないの?」「もっと当事者に“寄り添って”いる運動がロビイングすればいいのに」などとぶつぶつ文句を言いながら、資料の準備をした。

不適当なのはあきらかだったが、わたしたちしかいなかったのだ。“寄り添ってる”ひとたちは、みんなアイヌ施策推進法案の反対にまわっていた。また、わたしたちは、法案の一条一条を検討して、第4条に希望をみていたから、見過ごすことはできなかった。

わたしたちが用意したのは、『差別禁止法を求める当事者の声 8 アイヌ問題のいま』(一般社団法人部落差別解放・人権研究 2017)と、自分たちでまとめたアイヌヘイトの実態だった。

聞き取られ、すでに本にまとめられたものを紹介することは、わたしたちのかんがえる最低限の運動倫理? と呼べるようなものにかなってると思われた。

いまふりかえってみると、「レイシストをしばき隊」以降のカウンター行動の理念「マジョリティとマイノリティの非対称性とヘイトスピーチの沈黙効果とマジョリティの責任」について理解しつつ、マイノリティのトラウマやカウンセリングについてかんがえてきたわたしたちだからこそのむずかしさであり、工夫だったのかもしれない。

...つづく

追記:
このように書くと、あたかもわたしがこのやり方で、かおりさんをさらなるヘイトスピーチ被害から守ることができたように勘違いされるかもしれないが、1月に官邸前であった頑日のアイヌ新法反対ヘイトデマ街宣動画の書き起こしをしたのはかおりさんなので、まったくもってそういうわけではないことをここに記しておく。

[C.R.A.C.NORTH]要請書「アイヌ新法の差別禁止規定を実効性のあるものにするために―ヘイトスピーチ問題―」※閲覧注意(ヘイトスピーチがあります)

[C.R.A.C.NORTH]要請書 「国は先住民族宣言第8条に則り、アイヌの人々に対する差別を防止し、是正するための効果的措置を検討して下さい」

なぜヘイトスピーチは暴力か(Forces of Oppression/野間易通)

宮地尚子(2018)『環状島=トラウマの地政学【新装版】』初出 2007年

宮地尚子(2013)『トラウマ』


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