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【詩作】止まった季節

止まった季節

新しい年を
寿(ことほ)ぐことさえ忘れた
かなしき冬鳥に
いつかまた
歌声の戻る日は訪れるだろうか

冬の旅路で出逢った
物憂げな空と
霧の中に包まれた
路地裏のさびしさを
セピア色の記憶に刻みつけて

今宵わたしのこころには
北国の山里に舞う
灰雪が積もり
ショパンのノクターンが
夜の静寂(しじま)に響きわたる

詩作の集まりに積極的に顔を出すようになって約1年。職業柄、日頃は無味乾燥なお役所文書やら商業用の文章ばかり扱っているので、「言葉に対する感覚を麻痺させないために」という、いささか不純な動機から(?)せっせと通っているわけですが。

もちろん、詩は小さい頃から、手の届かない憧れの世界でした。「詩人になるか、そうでなければ、何にもならない」と言って神学校を脱走したヘッセの人生、かっこいいですねえ……。かくいう私も三十路をとうに過ぎ、そろそろ「もう自分の夢に遠慮するのはやめよう」と決心して、詩作という蛮勇に踏み切ったのです。

冒頭の「止まった季節」は、とある著名な批評家が主宰する文学講座に参加した際、課題として無理やり(!)こしらえた自作。季節をテーマに、四行ないし五行から成る短詩【A】【B】【C】を三つ作り、A~Cを自由に組み合わせて一つの作品として完成させる、という趣向です。

面白いもので、講座を受けた当初は「夏」と「旅」と「花」といった明るめのキーワードを紙の上に並べていたはずが、数日後、仕事で忙殺されていくうちに「冬」と「さびしさ」と「音楽」へと心境の変化が起こったのでした。ちょうど通勤途中や日常生活の中で、浴びるようにショパンのノクターン曲集を聴いていたからでしょう。一種の自主的な洗脳かもしれませんが、耳から聴こえる旋律を通して心象風景が現れる、という不思議な体験をしました。かつて訪れた雪の降りしきる飛騨の山里、ベルギー・ブルージュの霧に包まれた路地裏、そして教会で一人祈りを捧げた年越し……どれもなぜか冬の出来事だったのですが、こうやって詩のイメージが定まっていったというわけです。

作品は作品になろうとする。作者は、ひたすらその過程ができあがるのを忍耐強く待つだけだ。

(宮崎駿/アニメーション作家)

詩作を通じて、つくづく言葉は生き物であると感じます。この過程を独善的な「産みの苦しみ」と呼んでしまうのは、いささか傲岸なような気も……。あえて形容するなら、「産まれいづる言葉に寄り添い、その誕生に立ち会う喜び」でしょうか。やがて言葉は書いた人の手を飛び立ち、知らない所で読まれるうちに、おのずと成長していくのかもしれません。

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