ボクヒコちゃん

 俺は小型犬を飼っている。雄のポメラニアンだ。捨て犬だった。令和の時代にこんなことがあるのかと言うような、ダンボールに「拾ってください」の貼り紙。近所の電信柱の影に置かれていた。
 仕事帰りの夕方にそれを発見した。まだ掌に乗るくらい小さいその犬は俺を震えながら円らな瞳で見つめていた。その様子は「犬」ではなく、「ツブラメ」という別の種族の様。目が合ってしまえばシンプルに「うあ。可愛い」が俺の感情を支配する。今までの27年間、動物を飼ったことは一度もなかったが、一気に心が持っていかれる。この子を飼おう。運命なのか俺の住んでいる賃貸は8畳一間ではあるがペット可物件だった。引っ越しせずともこの子を飼うことができる。抱きかかえて家路に着く。なんの抵抗もなく、寧ろ自ら望んで俺の腕に乗ってきたようだった。
今の時代は便利だ。初めて犬を飼う俺でもネットで調べれば犬の飼育に必要な物や、一緒に住むために必要な躾の仕方など知識が無限に手に入る。まだ小さい小さいそのポメラニアンをエコバックに入れて近所のホームセンターで首輪やリード、クッションやエサや玩具などを買い揃え、二人暮らしのスタートとなった。
 それから3年。俺たちは楽しく暮らしていた。散歩が大好きで元気なワンちゃん。名前は「ボクヒコ」。飼い始めたその日から、犬用のエサはもちろん、俺が食うコンビニの握り飯から新しく買ったボールペンまで「それボクのでしょ!ボクのでしょ!」と言いながら飛びついてくるような気がした。俺が仕事へ出かけようとすると「ボクも連れてって! ねえボクもボクも!」と着いてこようとする。後ろ髪を引かれる思いで外出し、帰ると「ボク待ってたよ! 今度はボクをお散歩に連れてってくれるんでしょ?」とくるくる回りながら駆け寄ってくる。とにかく「ボク」という言葉を多用しているような気がするので「ボクヒコ」と名付けた。
 ボクヒコは散歩が大好きで人懐っこく、他の犬のことも大好きだ。一緒に出掛けるとリードをその愛くるしい出で立ちと裏腹にガンガン引っ張り、あっちの犬こっちの人と「こんにちは~!」とでも言っているような様子でアプローチをしまくる。その都度、俺は飼い主や歩行者と軽く会話をする。そんなことにも慣れてきた。
 ある朝、ボクヒコの頭上に「09」という数字が浮かび上がっていた。幻かと思って何度も瞬きしたり頭を振ったりしたが確かに浮かんでいる。振り払おうとその数字に手を伸ばすが全く触れない。なんだこれは? 当のボクヒコはいつも通りケロッとして元気である。「どうしたの? ボクになんかよう?」といったふうに首を傾げてこちらを見つめている。その様子はやはり「ツブラメ」だ。俺がおかしくなったのか? その日は有休をとって休むことにした。きっと疲れているんだ。蒲団を被り眠りにつこうとする。ボクヒコが「ボクと遊ぼうよ」と顔を舐めてくる。頭上の数字を気にしながら遊んでやる。彼はいつもと変わらず元気でかわいい。この数字がずっと見えるようなら病院へ行こう。もちろん、獣医ではなく、脳外科か心療内科だ。俺が行くんだ。そう思いながら、普段の休日の時のようにボクヒコと過ごす。昼と夜の散歩のときも、外の人はやはりボクヒコの頭上の数字が見えていないようで、「かわいいワンちゃんですね」とか「うちの子(パピヨン)と同い年ですね」などと普段通りの会話を仕掛けてくる。この数字は一体なんなんだろう? そんな疑問をずっと抱いている俺の頭上に、はてなマークなど浮かんではいない。落ち着かないので、ボクヒコと遊ぶ時も上の空。寝ようにも寝付けない。気が付くと時間は0時を過ぎていた。まだ玩具で遊んでくれとせがんでくるボクヒコに目をやると頭上の数字が「08」になっていた。ここで俺は勘づいた。これは『カウントダウン』だと。何故か俺にだけ見えている。ボクヒコに課せられた何かしらのカウントダウン。いや、答えは明白だ。この子の『命のカウントダウン』だ。俺にだけ見えている理由はわからないが、これはそういうことだろう。数字が09から08へ減ったのだから間違いない。ありふれたショートショートのような事態が俺とボクヒコの身に起こっているのだ。
 体のどこかが悪いに違いない。こんな数字が見えている俺ももちろんどこかおかしいのだが、ボクヒコ自身もどこか悪いんだ。だからこんなカウントダウンが始まっているんだ。俺はボクヒコを抱え上げ、狂犬病の注射とフィラリア予防の薬をもらうために年に一度いくだけの近所の獣医へ駆け込んだ。なんだか食欲がないみたいだと適当な理由をつけて診察室へ入る。俺と同い年くらいの獣医の男性は「ちょっと血液検査をしてみましょうね。大丈夫だよー」と頭上の数字は当然見えていないので、気にせずボクヒコの頭を撫でた。ボクヒコは尻尾を振っている。懐っこいなあ。1時間ほどで検査の結果が出る。血液も、レントゲンで見た腹回りも、異常なし。診察台の3万6千円を浪費しただけだった。でも間違いなく今日の日付を跨げば数字は08から07に変わるだろう。そして案の定そうだった。
 理不尽にもこの子の命は終わってしまう。どうやっても止められないんだ。なら最後の時まで一緒にいてあげよう。俺は有休をとり続け、なぜ死ななければならないのかわからないほど元気なボクヒコと不安を携えながらの日常を送る。その間に数字は06から05へ05から04へ……。そして01の日を迎えた。俺はいつも以上にボクヒコを撫でまわす。抱きしめる。「ボクあっちへいきたいよお」と言いたげな表情をするボクヒコのことなどお構いなしだ。このなんとも犬らしい匂いも、このぬいぐるみのように柔らかい毛並みも、時々「ボクだよ!」と吠える甲高いけどどう考えたって心地よい鳴き声も、今日でもう、全部なくなってしまうんだ。なんで? どうして? 納得できないがどうすることもできない。命ってそういうもんなんだ。嫌だと思ってもどうすることもできないんだ。
 いよいよ最後の日付を跨ぐ時を迎える。時計の秒針が12へ近づく。やめてくれ。止まってくれよと思っても、容赦はない。5秒4秒3秒2秒。いつにない速さでその時に迫って行く……。
0。俺はその瞬間、ボクヒコのことを抱きしめてはいたが見つめる事は出来なかった。強く目をつぶっていた。怖かった。勝手に予想を積み重ねていく、冷たさ、硬さ、哀しさ。それから10秒。全てを諦めて腕の中のボクヒコを見つめる。目を瞑る彼。頭上の数字は00を示していただが、何かを暗示するように段々と薄くなり、やがて見えなくなった。
 全部悟って茫然とする。そこから15秒。ボクヒコがバタバタと暴れ出す。「うああああ!」俺は思わず声を上げた。殆ど悲鳴に近かった。ボクヒコは俺の腕から飛び出すと、ブルブルブルと強く体を震わす。ボクヒコが生きている! 「ボクヒコ!」俺はずっと座っていたために足に痺れがあったがそんなものは無視して無理やりボクヒコに近づき、抱きしめようとした。すると、「やめてくれよ!」とダミ声がする。なんだ? 誰の声だ? 俺は一瞬何が起きたのわからなかった。「いつも強く撫ですぎだぞ。痛い時あるぞ!」声の主はボクヒコだ。ボクヒコが喋った!? 俺は自分の耳を疑って頭を押さえる。
「幻聴じゃないぞ。オイラ、ちゃんと喋ってるぞ!」
 もう何が何だかわからない。なんでボクヒコは喋っているんだ? あのカウントダウンはなんだったんだ? ボクヒコが喋りだすまでのカウントダウン??
「腹減ったよ。飯くれよ。でもまあ、今の飯飽きたから新しいの買ってくれよ」
「……え? なんで喋れるん……ですか? 」
 何故か敬語で問いかけしまった。
「知らねえよ。あんただってなんで自分が喋れるのかわからないだろ? それと一緒だ。なんか急に喋れるようになったんだ。オイラ」
 ボクヒコ自身も喋れるようになった理由はわからないらしい。ボクヒコってこんな喋り方なんだ……。こっちが思ってたのと全然違う。一人称が「ボク」ではないし、「~だよ!」みたいな可愛らしい喋り方もしてない。時に赤ちゃん言葉で彼に話しかけいた自分が恥ずかしい。
「あのカウントダウンってなんだったの? ……ですかねえ……」
「カウントダウン? なんだそれ? しらねえよ」
 ボクヒコは自分の頭上にカウントダウンの数字が浮かんでいたことさえ知らなかったらしい。

 喋ることができるようになった経緯はわからないまま、俺たちの生活は続いている。外では喋るのが恥ずかしいらしく、普通の犬のように振る舞っている。その方がこちらも助かる。ただ今までのように可愛いとは思えない。家ではだいぶ態度のデカい奴だ。飯をよこせ、外へ連れていけ、玩具で遊べ。常に命令口調だ。喋れない時からずっとこんな性格の犬だったのか? それともカウントダウン前と後で変わったのか? 捨てるわけにもいかないので、同居人として共に暮らしている。
 ある日彼と散歩をしていると、頭の上に07の数字が浮かんでいる柴犬とすれ違った。最近越してきたのか、初めて見る犬と飼い主だった。リードをグイグイ引っ張るその犬とは裏腹に飼い主の女性の表情は優れない。きっと、『カウントダンウン』をネガティブに解釈しているのだろう。その気持ちは解る。カウントダウンが始まった段階ではその答えにしか行きつくことができない。8日後くらいまたすれ違うことがあれば、声をかけてみよう。そう思いながら俺は普通の愛犬家を装い彼と散歩を続けた。

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