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自分の望みを知っているか

妥協した選択は、
妥協した日常を生む。

「この程度で良いや」が
その程度の現実を創る。

最近働きながらこれを
強く感じているので
今後の自分への戒めを込めて
その経験について書きます。

何かしら、日々の生活に
違和感を感じている方へ、
何かヒントになれば嬉しいです=)

今日はアフリカの思い出と共に。。


事の発端

約1年半前に転職をした。

転職の軸の一つは
「淡々とこなせる業務ができること」

自分がしたいこと・
達成感を感じること・
やりがいを感じること…

いろんな
「したいこと」があるけれど、

「今は現実を見て、
自分ができることをしよう」

「どうせやりたくない仕事だし、
淡々とできる業務を選ぼう」

そう考え転職活動をした。

この程度の会社・業務・給与なら
悪くないか。
そう感じた会社に入社。

業務は自分が希望していた
淡々とこなせる業務で、

一応大企業と呼ばれる会社で
同僚や上司にも恵まれ、
環境としては申し分ない。

でもこれが、
私の首を絞めていった。

私の毎日

淡々とこなせる業務を
希望通りしているが、

心が動く仕事ではないので、
「やりがい」や「もっとこうしたい」
「この会社でこうなりたい」
と感じる瞬間は全く無い。

会社では、
頑張ればちゃんと評価もされるし
ある程度の自由度もある。

それでもなんだか
自由な牢獄の中にいるような気分。

評価されても
「あ、はい。まあ仕事なので
やることをしたまでです。」
とそんなに嬉しくないし、

ミスをしても
「あ、すみません。次気をつけます。」
としか思えない。

また、転職活動時に建前で
「将来OOのような業務を通して
経験を積んで管理職も目指したいでう!」
なんてことを言ってしまったため、
それに関連する業務がどんどん降ってくる。

あーだるー、
こんなの興味無いー、
としか思っていなかなった毎日。

でもそんな自分が、
ある時から物の見方が変わり、
働く時のマインドが変化した。

自分の本当の望みを知っているか

だるい日々を送っていたある日、
ふとした瞬間、
自分の選択が
現実を生み出していることに
気がついた。

目の前に繰り広げられている現実は、
私が選択したもので出来上がっている。

私が「転職」を選択し、
その中で「淡々とした業務」を選び、
面接時に希望した「未来像」が
現実になっている。

上司が私に任せてくれている仕事も
「私がしたい」と言ったからで、
無茶振りではない。

じゃあなぜ私は
自分の選択でこんなにも苦しいのか?

それは大きく、
「自分の本当の望みが何かわかっていなかった」
「妥協した人生を選択していた」

この2つが理由だと思う。

自分の「望み」、
心の声ともいうのかな?
これを勘違いしていると、
矛盾が生じる。

歪んだ体がどんどん歪んでいくように、
歪みは悪化していく。

これは先日書いた
素直に生きたほうが楽」
という記事にも通じる。

本当の姿や望みを勘違いしていると、
いずれその代償がくる。

しかし厄介なことに、
「自分が望んでいること」に関しては、
自分でも気づいていない
可能性も高い。

私も当初は「淡々とできる業務」を
心から望んでいると思っていた。

自分の望みを知る方法

私はこの2点を元に
自分が本当にしたいことを
知ることができた。

  1. 自分のしたことが誰かに喜んでもらえて、かつそれ以上にそのことが自分の喜びになった経験

  2. 自分が誰かのためにひたすらこだわっている何かを見つけた時


1. について私の経験を話すと、

偶然頼まれて
リサーチとレポーティングの
仕事をしたことがあった。

そのレポートによって
顧客を複数獲得できたことで、
売上に貢献し
会社の方々にとても感謝された。

私は調べたことを
文章にまとめることが
好きだったので、

楽しんでやったことだったのだが、
それが人に喜ばれ
成果に繋がったことに、
これまで感じたことのない
達成感とやり甲斐を感じた。

そこから仕事が広がり、
今はこれを副業にしている。

このように、自分がしたことが
人から想像以上に喜ばれ、
そしてそれを心から嬉しいと
思えるのであれば、
自分の心が望んでいることかもしれない。

2.については、
例えば私は文章に関して、
読み手のことを考えて
ひたすらこだわってしまう。

1.で述べたレポートも
このnoteも、
できるだけ文章に触れる人に、
読んで良かったと思えるものを
書きたいと細部までこだわってしまう。

良いフィードバックはもちろん
ネガティブなフィードバックも
これからの糧として
ありがたいと思うことができる。

そして完成物を喜んでもらえた時に
どんな時よりも喜びを感じる。

学生時代、
接客業をしていた時に社員の方が
「お客様のありがとうが私のやり甲斐です。」
と言っていて、
当時の私にはその言葉の意味が
理解できなかった。

だが、私にとっては
「読んでいただいた方の
ありがとうが私のやり甲斐」
だったようで、

受け取る相手のことを
損得勘定抜きで考えて
没頭できることは、
自分の喜びに繋がっている。

自分の接客・おもてなし・創作物など
行動の届く先のことを
一途に考えてしまうものがあるなら、
それを極めることが
自分の幸せにもなるのではないか。

歪んだ選択を矯正していく

では勘違いしていた望みによって
取ってしまった選択を
どう矯正していくか?

望みに気づいたからといって
生活もあるので
すぐに会社を辞める選択は、
私は取らなかった。

今はレポーティングの副業に
力を入れたり、
noteを書きながら、
次のステップを探っている。

そしてもう一つ、
自分の望みに気づいてか
大きな変化があった。

それは、今ある現実を
「自分の選択の結果」
だと認識してから
仕事に行きたくない気持ちが
ほぼ無くなった。

もちろん少しはあるが、
心から行きたくないというよりは、
割り切った気持ちに変化した。

例えば、
意味のわからない業務、
理不尽なことが
自分に降りかかってきたとしても、

以前はそれを私に投げかけた
「相手」や「業務」
に腹を立てていたが、

「これも選択した自分のせい」
だと思うようになった。

(パワハラやセクハラなど、
そのような状況は相手が100%悪い。
私に今起こっている現実は
全て相手ではなく
私の選択に基づくものであるため、
こう考えている。)

また環境や人のせいにして
過去の選択を後悔することは、
自分がした決断への
責任から逃れている。

そう考え始めてから、
他人などの外部からの刺激には
反応しなくなり、

自分の一つ一つの選択に
フォーカスするようになった。

そしてこれは、
自分の選択次第で自分の人生は
変えられるという確信にも
繋がっている。

もし違和感を感じているのなら

「まあこの程度ならいいや」
という妥協した選択は、
その程度の現実を生む。

でもその選択の裏には
自分が本当にしたいことが
わかっていなかったり、
勘違いがあったりする。

今の生活に不満がないのであれば
無理に変えなくて良いと思うが

もし違和感を感じるのであれば
自分が妥協した選択をして
その結果を人のせいにしていないかを
見返してみるのはどうか。

(先ほども書いた通り、
一方的に被害者の立場なら別の話。)

もし自分が望んでいることと
現実が一致していなくても
手遅れなのではなくて

そこから目の前の
一つ一つの選択にフォーカスし
少しずつ矯正して行けば、

きっとそのモヤモヤが
一つずつ晴れていくのではないかと
思います☀️

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