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ニートを楽しむ日記 188日目 10/5木 - 孔子について勉強

はやくもニートも188日です。
最近は自己紹介の連載?をはじめてそちらを書いていましたが、たまにはニート日記も書いてみます。

最近何をしていたかというと、10日ぐらいかけて『論語』と『大学』を読んでいた。
正確に言うと、図書館で借りた『大学』を読みだしたところ「そもそも孔子ってどんな人やねん」となり、和辻哲郎の『孔子』を読み始めたのだけど、この本は孔子の紹介というより『論語』の批評が主で、当然『論語』を知っている体で論が進んでいくので、それについていくために『論語』を読んだ、という感じである。

なぜ『大学』を読み始めたかというと、最近の興味である東洋思想と、前職とも関連していて私の問題意識の大きな一つである教育問題との接点になりそうだと思ったから、という感じに言語化できると思う。
まあ孔子自体が、東洋思想と教育の接点という感じがするし。イメージですけど、

で『大学』を読み始めたわけなのだが、その『大学』は現代語訳がなくて(代わりに解説みたいなのはある)、手元にあった『論語』も抜粋みたいな感じでしっかり訳されてなかったので、ネットから書き下し文を全文探して来て、それをネットの訳をいくつか見たり手元の本を見たりして自分なりに現代語訳しながら読むという、やたらストイックな読み方をしてしまった。
と言っても、ちゃんと訳したのは『論語』の学而篇と郷党篇だけなのだけど。

漢文を現代語訳するのなんて高校の時ぶりだし、早々にセンター試験で漢文を使うことをやめたので、高校二年生以来だった。
「いずくんぞ」とか「いわんや」とか久々に聞いたよ。

和辻哲郎氏の『孔子』がなかなかおもしろくて、まずはソクラテス・釈迦・孔子・イエスは世界の四聖人=人類の教師である、という話をする。その過程で、なぜ彼らが人類を代表する教師足り得るのか、そもそも孔子の生まれた中国文化というのは何なのか(そんなものはあるのか)などを語っていく。この辺りは、さすが『風土』の作者といったところで、単なる孔子の解説本を読む気でいた私は、スケールの大きさに度肝を抜かれている。

そのあたりが一通り終わったあと、ようやく『論語』の批評が始まる。
が、そもそも『論語』を批評の対象として考えたことなんてなかったぞ。どう批評すんねんと思っていると、どのような意図で論語が編集されたのか、ということを考察していく。そんなことは考えてみたことがなかった。
というか、恥ずかしながら、論語の構成を全く知らなかった。この辺りで、こりゃ論語読まなきゃついていけないぞと悟り、論語を訳し始めたわけだが、高校の時論語は習ったと思うんだけど、構成とかまで授業でやったかなあ。忘れているだけの可能性もある。

ほとんどの方がもう知っていることだと思うが、論語というのは全部で二十の篇にわかれている。これも今回知った。そして前半の十篇を上論、後半の十篇を下論という。これも初めて知った。

で、和辻氏は、この二十篇の成立時期を考察していく。論語って孔子の話したことを弟子が「師曰く~」でまとめたもんじゃないの、ぐらいの知識しかなかったが、話しはもっと複雑で、孔子の弟子が「師曰く~」と言ったのを孫弟子以降がまとめた感じらしい。
で、最初からまとまって二十篇で来ていたわけではなく、後世の人がいい感じに並べ替えたり編集したり話を盛ったり削ったりして、今の体裁になっているらしい。
なので『論語』全てが実際に孔子が言ったことではない。
後世の儒教の学び手や儒教を国の思想にしようとした役人たちが、都合のいいように誇張したりしているので、『論語』を全てそのまま受け取って孔子の人となりを分析しようと思っても巧くいかない、みたいなことを和辻氏は言っている。
(そもそもなぜ孔子の人となりを考察するのに『論語』だけなのか、という話も、もちろん本の前半でしている。簡単に言ってしまえば、『論語』以外はさらに孔子の生の姿から遠ざかるから、ということらしい)

で、『論語』二十篇の成立時期を検証し、どうやら学而篇と郷党篇という二篇が、一番最初に作られた(=最も実際の孔子の言動に忠実と思われる)篇であると結論づける。
(これももしかしたら常識?私は知らなかったし、この辺りおもしろかった)
その上で、無作為に並べられているように思えるこの学而篇と郷党篇の言葉を、実に見事に系統立てて考察していく。
なぜこの順序でこの言葉たちが並んでいるのか。
それを知った上でこの二篇を読むと、もうその意図だとしか思えなくなってくる。
なんか説教臭そうなことがたくさん書かれてるな、ぐらいにしか思っていなかったが、そこに線分を引くことで、孔子とその学徒たちの生き生きとした学問生活が浮かぶかのように、『論語』が見えてくる。

私たちは、どうも古いものを今と切り離して考えてしまう習性があるように思う。
昔のことだから、昔の人だから、今とは違った価値観や論理で考えていたんじゃないか。
昔なんだから、今よりも文化もロジックも今より劣っていたんじゃないか。
だから別に意味なんてあまりないんじゃないか。
ついどこかでそう思ってしまうように思う。

戦時中の人に対しても、江戸時代にしても、戦国時代にしても、平安時代にしても。孔子なんて尚更。(孔子が生きていたのは紀元500年ぐらい。イエスより500年も前。孔子とイエスの間が、戦国時代から現代ぐらい離れてるということがもうなんか驚き。ちなみに諸説あるらしいが、釈迦も孔子と同時代ぐらいらしい。釈迦もイエスより500年前なんかい。もう全然別時代じゃん)

でも、昔であろうと人間が文明を作り始めたのなんてたかがここ5000年ぐらいで、生物学的に言ってその期間で人間の脳みそが大きく変わるわけはない。
もちろん新しい知識や技術は次々生まれてきたけれど、それを使う人間の頭の方は大きく変わってない。
だから、孔子の時代であろうと卑弥呼の時代であろうと空海の時代であろうと頼朝の時代であろうと信長の時代であろうとどうする家康の時代であろうと龍馬の時代であろうと東条英機の時代であろうと、人間の理解力や論理力、基本的な考える力は大差ないんだろうな、ということを『論語』『大学』『孔子』を読んで改めて気づかされた。
わかってはいるんだけど、つい別だと思っちゃうんだよなあ。

それぐらい、和辻氏が描き出す『論語』学而篇と郷党篇の解釈は見事。

そんなふうに感動していたら、ハローワーク帰りに寄った古本屋で、前回行ったとき(半月前ぐらい)にはなかった論語の岩波版と講談社現代文庫版を100円コーナーに見つけ、速攻お買い求め。
ちゃんと論語を読み解こうとした私の気持ちに呼応して、論語が私の元にやってきてくれたような、そんな気持ちになったのであった。

引越し前に本増やしてどないすんねん。(7冊買った)


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