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250.青色発光ダイオードには中村教授の深い悲しみと、喜びの同居した裁判結果だったのかもしれない。

1・発明対価200億
  青色ダイオード訴訟・中村教授の苦悩
  発明やアイデアに光があてられた


 
2004年(平成16年)1月30日、各新聞はノーベル賞級の発明とされる青色発行ダイオード(LED) を開発した米カリフオルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授 (当時49歳) が、かつて勤務先で、青色LEDの特許権を所有する日亜化学工業(徳島県阿南市)に対し、発明に見合った対価の一部として二百億円支払いなどを求めた訴訟の判決が東京地裁であったことを一斉に報じた。

三村量一裁判長は「小企業の貧弱な研究環境の下、個人的能力と独創的な発想で世界的発明を成し遂げた、職務発明としては希有な事例だ」と述べ、「発明の対価」を少なくとも600億円と認定した上で、請求通り200億円の支払いを日亜化学側に命じた。
日亜側は同日、東京地裁に控訴した。

一方、中村教授側は今後、請求を増額することも検討している。
今までの職務発明の対価額や支払い命令額としては過去最高となった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この訴訟では、東京地裁が2003年の9月に特許権が中村教授と会社のどちらに帰属するかの争いでは、特許権は中村教授の退社前に会社に承継され、現在も会社にあると判断された。

「職務発明」とは企業や大学、国の機関などで職務として行った発明で特許法第三十五条で規定され、職務外の「自由発明」とは区別されている。
会社は職務発明で得た特許権を使用する権利を持ち、使用者側に特許権を譲渡した従業員は、「相当対価」の支払いを受ける権利がある。

対価額は「会社の受けるべき権利」や「貢献度」を考慮して決めると規定されている。
これは2004年1月24日の東京高裁判決で認められた1億8935万円の支払命令を受けた味の素の人口甘味料の製法と1月29日の日立製作所に1億6300万円の支払命令に続き過去最高を一挙に塗り変えてしまった。

これで職務発明という言葉が世の中に広がった。

中村教授の発明は、日亜化学工業が1990年に特許出願し、1997年に登録された。この青色LED技術の基本特許の地位を占め、製品化に決定的な役割を果たしたと裁判所は指摘。

製品の売上高は、確定分を含め、1994年から2010年まで1兆2086億円に上ると算定し、その上で売上高に対して特許の貢献度を50%、利益分をその20%と見積り、発明の利益を1208億円とした。

さらに、「会社に青色LEDの技術蓄積は全くなく、独力での発明」として設備費などを除く中村教授の貢献度は少なくとも50%と判断、604億円が「発明の対価」と認定した。

中村教授は在職当時、特許出願時に1万円、登録時に1万円の計2万円の「褒賞金」しか受取っておらず、2001年に提訴した。しかし、わずか、たったの万円とは驚きだ。

青色ダイオード (LED) とは、赤、青、緑、色の光の三原色のうち、研究者の間では開発が極めて難しいとされていた半導体素子、つまり、電流を光に交換する半導体で携帯電話の表示装置や大型スクリーンなどに使われる。

蛍光灯に比べて消費電力が少なく「夢の光源」ともいわれる。
LEDには、ほかに赤、緑があり、青を含めた「光の三原色」がそろうと、白を含めたフルカラーを表示できる。この青色は、日亜化学工業が1993年に製品化した。


これで青色素子の実現ではほぼすべての色をLEDで表現できるようになり、情報機器などの分野での市場規模が拡大。
逆光でも鮮明に発光する信号機などにも使われており、年間数千億円ともいわれる需要を生み出し、日亜化学工業は業種が急成長する要因となったパイオニア発明とされる。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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さて、中村教授の報奨金がたったの2万円だったというのは誰もが驚きを隠せないことだが、金銭的な不満がこの訴訟の理由のように思われているが、特許をとった後も教授は争いもなく社内で開発を続けていたという。

安月給だったにもかかわらず、「成果が上がり始めた頃は、本当に幸せだった」と中村教授は話していた。

今回の訴訟のきっかけは、退職した教授が2000年に米クリーの社の顧問になったことで、日亜化学がクリー社と教授を「企業秘密漏洩」で訴えたことに対する反訴として起こされたことはあまり報道されていない。

秘密漏洩訴訟の方は一昨年、中村教授は勝訴した。
日亜側は中村教授のノウハウに恐れていたのかもしれないが、日亜側の訴えには無理があったといえる。

それがきっかけで中村教授の「眠った子」を起こすことになった。

そもそも教授はこの裁判を起こされるまで、特許の権利は会社にあるものだと思っていた。それよりも米国で静かに研究生活を送れていたら、今回の訴訟も起こさなかったといわれている。


研究者とは不思議なもので、ノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一さんも「研究に打ち込めなくなるので昇進を希望しなかった・・・・」などと語るように、技術者は地位や金だけのためで働いていないことがわかる。

この200億円の支払いを命じた東京地裁の「青色ダイオード」判決には日本中が驚き、産業界には危機感を感じる者が多い。

キャノンは「これで訴訟に走る人が増え続けるだろう・・・・」
セイコーエプソンは「・・・・研究者と会社が信頼関係を築かなかった結果だろう」
エーザイは「・・・・係争が起こらないよう契約を交わすことが重要」
三菱化学は「企業活動に大きな影響が出る恐れがある
協和発酵は「判決は法律改正が必要というメッセージではないか・・・・」
ホンダは「・・・・ある種の社会現象と言えなくもない」
オムロンは「・・・・会社と個人が十分な話し合いをできていないことが問題だ」
日本経済団連は「判決は常識を越え、非常識を越えるというのが率直な印象だ」


このように企業側は戦々恐々としているが、サラリーマン研究者の権利は拡大していくことは新しいこれからの時代の流れともいえる。

現に製薬業界では研究者の報奨金の上限はどんどん上がっている。大手の山之内製薬は報奨金の上限を100万円から1000円にアップ。
三共も研究者への報奨金の上限を撤廃した。

このように今までは開発分野の研究者は「いくら頑張っても収入が増える訳ではない」とサラリーマン化していたが、今回の判決で、報奨金制度の導入や金額の拡大の動きが活発化すればみんなやる気になってくると喜んでいる大手企業もいる。

今までは、日本の特許法では「相当の対価」を支払えば企業が特許を引き継げてきたが、その対価を企業が一方的に決めていたからこそ、田中さんは1万円、中村さんは2万円などの特許報酬を受けていただけだったが、今後は研究者個人のやる気が爆発し、日本経済にも好影響を与えるだろう。

また、「理系の発明だけが対象ではなく、文系でも十分に億単位のボーナスを得るチャンスがある」と東京ガス都市研究所の西山昭彦所長は新聞紙上でコメント。

具体的には、新製品の考案、プロジェクトへの積極参加、つまりアイデア能力を高く評価しているという。

つまり、企業がそれだけ儲けられるアイデアならば、それなりの報酬を与えようという企業も増え続けるという点だ。


たとえばプレステーションの開発者のソニーの久多良木健副社長は42億円を手に入れた、これは社内ベンチャーで新製品が大ヒットし、会社が上場すれば億単位のお金を手にする可能性がある点だ。


さて、この中村教授がどうしてここまでの争いに発展してしまったのだろうか、途中でも話し合う時期がかなりあったと思うのだが。これは、発明者の中村教授と日亜化学工業の小川英治社長との確執も大きな原因となっていた。
関係者は、「両者が最悪の関係にならなければ、中村氏が日亜を辞めることも、訴訟を起こすことも、従って、200億円の支払いを命じられることもなかった」と断言している。


日亜化学工業の創業者は、故・小川信雄氏。徳島高等学校から陸軍の軍医学校に進み陸軍の技術将校になり、復員後、郷里の徳島で協同医薬研究所を設立。結核治療薬の原料製造を手掛けていたが、昭和56年に将来性が見込める蛍光体の開発に重点を置くため日亜化学工業を設立した。

「信雄氏は『世界に例のないものを作れば、地方の中小企業でも成功する』が持論。
中村氏が開発した新製品が大手のブランドに立ち打ちできず失敗作と役員たちから批判にさらされた時、その中村氏を弁護してきたのが信雄氏でした。

中村氏が『青色発光ダイオードの開発をしたい』と直訴すると、黙って3億円の予算をつけた。当時、町工場にすぎなかった日亜としては破格な金額です」と地元経済人がこんなエピソードを語る。中村氏は米フロリダ大学で一年間研究し1989年に帰国したが、その時は経営トップが代わってしまっていたという。

1989年3月に信雄氏は社長を退き、娘婿の小川英治社長がニ代目社長に就任。
英治新社長は海のものとも山のものとも知れない青色発光ダイオードの研究開発を禁止する業務命令を出した。
しかし、信雄氏との信頼と約束を守り、中村氏は社長命令を無視するのだった。

当時を振り返り、中村氏は「首を切られてもいい」という覚悟で青色発光ダイオードの研究開発を一人で続け、1993年に開発が成功、世界的発明と称賛を浴びた。

しかし英治社長との深いミゾはまったく埋まらなかった

英治社長は青色発光ダイオードの製品化は他社からスカウトした人物を充て、中村氏を新設する「半導体研究所」の所長に据えようとした。
つまり本体からはずそうとした。

当時、英治社長は中村氏に対し『これでまた一人で始めんといかんようになったな』といったことにより、中村氏は英治社長に嫌気を差し、日亜を辞めてアメリカに渡ったという。

そして前述のように会社を辞めてからも日亜の中村氏に対する訴訟が行われたのである。このようにもともとはこの訴訟はゼニカネの問題ではなく、世界的大発明といわれた青色発光ダイオードには中村教授の深い悲しみと、喜びの同居した裁判結果だったのかもしれない。


中村修二 - Wikipedia


asahi.com : 教育・入試 : NIE

青色発光ダイオードの事例から学ぶ!企業がとるべき3つの対策 (legalsearch.jp)


ノーベル賞中村氏も激怒! 国と財界の発明特許「訴訟封じ」許せるか | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)


重要判例!青色LEDの裁判から職務発明の課題まで知財部が解説!【知財タイムズ】 (tokkyo-lab.com)


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※注 この著作権noteは1999年からの事件を取り上げ、2000年、2001年と取り上げ続け、現在は2002年に突入。今後はさらに2003年から2020年~2022年に向けて膨大な作業を続けています。その理由は、すべての事件やトラブルは過去の事実、過去の判例を元に裁判が行われているからです。そのため、過去の事件と現在を同時進行しながら比較していただければ幸いでございます。時代はどんどんとネットの普及と同時に様変わりしていますが、著作権や肖像権、プライバシー権、個人情報なども基本的なことは変わらないまでも判例を元に少しずつ変化していることがわかります。
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