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掌編  素敵な旅  高北謙一郎


さて、週に一度の掌編投稿です。この作品は、いわゆるマジックリアリズム。そもそもが非日常の遊園地的アトラクションから非日常が融合してくる展開。お楽しみいただければ幸いです。


   【素敵な旅】               高北謙一郎

ある晴れた日の午後、彼女は思い立って、近所の遊園地へとやってきた。

誰と約束したわけでもない。たったひとりでやってきたのだ。

決して大きな遊園地ではない。観覧車と回転木馬、ジェットコースターとゴーストハウス……ひととおりのものは揃えているが、それ以上ではない。子どものころから、歩いて数分の場所に暮らしていた彼女にとっては、今さら目新しいものはなかった。

それでもひとつだけ、彼女を魅了して止まないアトラクションがあった。一度そのことを考えてしまうと、彼女はもうそれ以外はなにも考えられなくなってしまった。

「ジャングル探検隊」と、声に出してみる。なんて甘美な響きだろうと、彼女はうっとりと思う。その言葉を発した自らのくちびるを、何度も触れてしまうほどに。そう、『ジャングル探検隊』――それが、彼女が心を奪われているアトラクションだった。 

敷地内は、どこも閑散としていた。平日の午後ということもあるのだろうが、たとえほかのどんな時間だとしても、この遊園地がひとびとで賑わうことはなかった。彼女は入り口でチケットを購入すると、わき目もふらず目的の場所へと、『ジャングル探検隊』のツアーが組まれる建物へと、そそくさと足を運んだ。

木造の小さな建物は、ちょうど駅の待合室のようになっていた。古びたベンチが、がらんとしたロビィに幾つか並んでいる。ワックスの染み込んだ床、細かい傷がついた窓ガラス、そんなものにもいちいち愛おしさを感じながら、彼女はベンチに腰をおろす。

『ジャングル探検隊』は、二両編成のトロッコ列車に乗って、深い森の中を探索するという、まさになんの変哲もない、どちらかといえば地味なアトラクションだった。今日もこの列車に乗り込むのは彼女だけだろう。彼女は先頭車両の最前列に腰をおろし、誰に気兼ねすることもなくこのツアーを満喫するだろう。それはもう、定められた運命のようなものだ。もしもここで誰か余計な闖入者が現れたら……彼女はそう思うと、居ても立ってもいられなくなった。お願い、どうか早く出発して。

当然のことながら、それは杞憂に終わった。やがて列車が到着した旨、アナウンスが告げた。彼女は駆け出したいのをなんとか我慢して、ゆったりとベンチから立ちあがる。まるで、ここから先は優雅な旅を楽しむ貴婦人でなければならないとでも言うかのように。たおやかな笑みを浮かべながら、彼女は手にしていたチケットを係員に渡す。定年はとっくにすぎているであろう老人。もはや顔なじみと言ってもいいぐらいだが、互いに慇懃すぎるほどに無関心。それが礼儀であると、互いが心得ている。

駅舎を模したうすぐらい乗り場には、深い夜に包まれたような、濃紺のトロッコ列車。側面に走る鮮やかな黄色のラインが印象的だ。彼女は列車に乗り込むと、まっすぐに先頭車両に向かい、その最前列に腰をおろす。弾力のあるバーが、係員の男の手によってすぐにおろされた。走行中の安全のためのものであると、場内のアナウンスが告げている。

「素敵な旅を」と、決して彼女と目を合わすことなく、係員が告げた。

彼女は満面の笑みとともに応える。「ありがとう。行ってきます」

やがて彼女ひとりを乗せて、ゆっくりと列車が走り出した。心地よい振動が全身を包み込む。駅舎の外に出ると同時に、まばゆいばかりの陽射しが降り注いた。まるで、別世界への扉が開いたかのようだ。涼しげな風が、大きく開け放たれた窓から吹き込んでくる。

木々に囲まれた広大な池を貫くように、レールは一直線に伸びていた。ゆらゆらと泳ぐ魚たちのシルエットを眼下に眺めながら、彼女は周囲に目を向けることも忘れない。その視線の先には、暗い森の入り口が、ぽっかりと開いている。

この地点は、乗客たちが心の準備をするための場所だと、彼女は考えていた。これから自分たちが向かう、スリルと危険に満ちたジャングルに思いを馳せるための場所だ。深く息を吸い込むと、両手を強く握りしめた。

最初に彼女を出迎えたのは、色鮮やかな花々だった。彼女の顔がすっぽり隠れてしまうほどの大きさのものから、可憐な花びらを無数につけたもの、本当にこれが植物なのかと思うほどに、奇妙なかたちをしたものもある。瑞々しい果実のあまやかな匂い、うつくしい蝶、鳥たちのさえずり……列車が通り過ぎると同時に、すぐ頭上でばさばさと大きな音がした。黒い雲のように、小さな鳥たちの大群が飛び去っていくのが見えた。

しばらく進んでいくと、きいきいと鳴く猿が、列車を眺めに集まってきた。十匹以上はいるだろう。そのうちの一匹が、走り去る列車に追いすがりながら、枝づたいに近づいてくる。彼女はうれしくなって手を振ってみた。すると猿は歯をむき出しにして、あからさまに不満の声をあげた。どうやら餌をもらえると思っていたようだ。追走もそこで終わった。彼女は申し訳なく思いつつも、遠ざかっていく猿の姿を見ながら、もう一度、大きく手を振った。今度からバナナを用意しよう――心の中でそう呟いてはみたものの、けっきょくのところすぐに忘れてしまうのもまた、いつものことだった。

「さあ、そろそろかしら」彼女は再び進行方向へ顔を向けた。無意識のうちに、口もとが弛んでしまう。その表情は期待に満ち溢れていた。彼女が今日ここへやってきたのは、まさにこれから起こるであろう瞬間のため、といってもよかった。

まぶたを閉ざす。深呼吸をひとつ。心の中で、静かにカウントダウン。七、六、五、四……彼女が目を開くと、まるでそれを待ち構えていたかのように、茂みの陰から大勢の男たちが姿を見せた。森の原住民族だ。皆、裸の上半身や顔の一部に彩色を施している。手には槍や石器、棍棒のようなものを持っていた。派手派手しい羽根飾りを頭に乗せた男が甲高い雄たけびをあげると、まわりの男たちも一斉に奇声を発した。

なんて恐ろしい姿なんだろうと、彼女は思う。もしも男たちが襲ってきたら、自分は逃げることはおろか、抵抗することさえできないだろう。殺されてしまうかもしれない。

とはいえ実際のところ、これから男たちが襲ってくることは、彼女にとって明白だった。そして、今はできる限り自らの恐怖心を高めるべきだと、彼女は心得てもいる。それこそが、よりいっそうその後の展開を感動的なものにするのだからと。

男たちが襲撃を開始した。獣じみた叫びが、あたりにこだまする。突然、ドンッという音が頭上から聞こえた。何者かが列車の屋根に飛び乗ったのだ。続いて、彼女のすぐ右手に見える窓枠に、ひとりの男がしがみついた。振り落とされないよう必死の形相を浮かべながら、彼女に向かって斧を振りあげる。それも束の間、今度は彼女の左側にも新たな敵の姿。まさに絶体絶命。彼女の恐怖は、いやがうえにも増幅された。

と、その時だった。ジャングルの中に、朗々たる声が響いた。

身体の深い部分を揺さぶるようなテノールに、彼女の顔はかがやく。彼だ。彼が助けに来てくれたんだ。喜びに打ち震えながら声の主を探す。自らに迫る危機も忘れて。

やがてひとりの青年が、木々の間を縫って颯爽と登場する。うつくしい巻き毛と精悍な顔つき、そして逞しい身体……その姿を見ただけで、彼女はうっとりとしてしまう。力づよくも軽やかに、彼は野盗たちを撃退していく。それはまさに、電光石火の早業。最後のひとりを列車の屋根から突き落とすと、彼は車両の最前列、彼女の前に降り立った。

「お怪我はありませんか、お嬢さん」

深みのある声で訊かれると、それだけで彼女は気を失ってしまいそうだ。やさしげなまなざしを意識しながら、媚びるように言った。

「ねぇ、少しジャングルの奥を案内してくださらない?」

自らと座席を固定していた安全用のバーに目を向ける。

青年は笑みを浮かべ、その逞しい腕で、軽々と彼女の縛めを解いた。

彼女は彼の胸に飛び込んだ。太い腕に抱きしめられながら思う。

なんて素敵な旅なんでしょう、と。

                                        

                            《了》

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