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掌編  ラストスパート 高北謙一郎

   

こんにちは。恒例の週に一度の掌編投稿です。今日は午前中に東京国際マラソンがありましたね。ふと、マラソンをテーマにした作品を書いたことがあるな、と思い出しました。普段は幻想文学を中心に執筆していますが、朗読イベントは私にとっても実験的な場として活用させてもらっていました。この作品は、まっとうなスポーツ物ものとして、自分でも珍しい作品。

あ、写真は先月たまたま撮影に行った夜の東京駅。まだその日の記憶が残っている場所がテレビに映るのは、なんだか不思議な気持ちでした。物語の場面とはまるで関係ありませんが、使わせていただきました。


いつものように投げ銭設定にて投稿します。

それでは、よろしくお願いいたします。


【ラストスパート】           高北謙一郎

スタートの銃声を聞いてから、一時間が経とうとしていた。

レースは中盤に差し掛かっている。ここから徐々に、先頭集団はバラけていくはずだ。駆け引き、つばぜり合い、意地のぶつかり合い……長い距離を走る中で、そのストレスはランナーたちを消耗させる。現在ぼくを含めた7人の選手が、そんな過酷な優勝争いを繰り広げていた。

42.195キロ。大きな国際試合の前哨戦。この勝負を制した者だけが、世界と戦うことを許される。先導するバイク、テレビの中継車、沿道を埋め尽くす観客たち、世間の注目度もそれなりに高い。こんなところで、負けるわけにはいかなかった。でも……

さっきから、左のふくらはぎが異常を訴えている。最初は筋肉に軽い張りを感じる程度だったものが、次第に引き攣るような痛みを伴うものになってきていた。

当然、アスファルトの地面は平坦ではない。極端ではないにしても、微妙に左右の足にかかる負担は違っていた。それが徐々に、左のふくらはぎに疲労として蓄積しているのだろう。

ポジション取りが上手くいっていないことは最初から分かっていた。ぼくは今、集団の左端で身動きが取れない状態にあった。右側は他の選手たちによって、左側は沿道の観客たちによって遮られていた。同じく前にも後ろにも、選手たちがひしめき合っている。本来なら道路の中央付近に出て、この窮屈な状態を抜け出したかった。しかしこの包囲網を脱するのは容易なことではない。ここは踏ん張りどころ、我慢するしかない。

沿道に、20キロを通過したことを示す看板を見つけた。同時に、視線の先に給水ポイント。ここでいったん集団はバラけるはずだ。誰にとっても水分の補給は重要になってくる。そのまま素通りする選手はいないだろう。ぼくにとっては、絶好のチャンスだ。ボトルを取ったらすぐにポジションを変更しよう。幅寄せしてくる右側の選手に注意を払いながら、様々なボトルの中から自分の飲み物を探す。と――

不意に、前方を走る選手のひとりが転倒した。短い叫び声とともに、もんどりうって倒れ込む。バランスを崩した他の選手が、必死に手足をバタつかせる。選手同士の接触だ。咄嗟に倒れた選手を跳び越える。しかしすぐぼくの後ろにいた選手は、気づくのが遅れた。彼は転倒者を避けることは出来なかった。折り重なるように倒れたふたりを視界の隅に捉えながら、すばやく自分のボトルを掴み取る。よし、これで集団は5人に絞られた。


25キロを過ぎた。あの給水ポイントでのアクシデントにより、集団は完全にバラけていた。各自が距離を置いて道路の中央付近を走っている。ぼくの前にはふたり、斜め後方にさらにふたり。これだけ間隔が空いていれば窮屈な思いはしないで大丈夫だ。

だけど、ぼくの左足はもう限界に近かった。陽射しはあったものの、二月の空気は決して暖かくはない。さっきから冷たい北風がぼくを苛んでいた。皮肉なもので、周りに他の選手たちがいなくなったために、その風をまともに受けるようになった。体温の低下は筋肉の動きを妨げる。自分のふくらはぎが石のように凝り固まっているのが判った。

突然、背後から荒い息遣いが聞こえた。ぎょっとした。まったく気づかなかった。振り返ると、すぐそばにふたりの選手が迫っていた。だけどもっと驚いたのは、決して彼らがペースを上げているようには見えなかったことだ。どちらもあごをあげて苦しそうにもがいている。フォームもだいぶ乱れていた。なんでだ? なんでこんな瀕死の連中に?

自分のペースが極端に遅くなっていることに気づいたのは、その時だった。そう、彼らがペースを上げたわけではなかった。ぼく自身の足が、前に進まなくなっていた。確かに前方のふたりとの距離が開いていた。いつの間にか、集団はふたつに別れようとしていた。

バカな、こんなところで引き離されてたまるか。

腕を強く振る。
だけどそうすればそうするほど、ぼくの呼吸もまた、激しく乱れた。
前方との差が縮まらない。むしろ、徐々に広がっていく。

いやそれ以前に、今は自分を含めた3人での勝負に集中すべきだ。追いつかれたとはいえ、そのまま抜き去られることはなかった。彼らにしてもさほど余力は残っていないはずだ。こうなったらせめて3人で競り合うことによって、速度を上げていくよりない。判ってる。判ってはいるけど……


30キロを過ぎた。さっきから、右のわき腹が痛い。

我ながらうんざりする。

今さら初心者じゃあるまいし、なんだってこんな時に。

食事には、充分に気をつけていた。食後、体内の血液は消化活動のために費やされる。その途中で過度な運動をすれば当然その血液は筋肉への供給も余儀なくされる。結果、消化活動のための血液が不足して、内蔵器官は一種の酸欠状態に陥る。それが痙攣や痛みの原因だ。そのためランナーは最低でも本番の2時間前には食事を済ませている。実際、今日もぼくは万全を期して3時間前には済ませていた。

じゃあ、なんで今こんな痛みに襲われるんだ?

顔をしかめ、それでも無理やり腕を振る。

負けてたまるか。絶対に、勝つのは自分だ。

今日のレースに負けたら、ぼくは現役を退くつもりだった。これまでパッとした成績は残せなかったものの、それでも常に一線で戦う選手として、それなりの実績を残してきたつもりだ。実際、試合に出ればいつも優勝候補として名前は挙がる。それでも、思うように結果が残せない。結果がすべての世界では、やはり勝てなければ生き残れない。

33歳という年齢も、次第にその重みを増してきたように思う。経験ではカバーしきれないと思うことが、以前よりも頻繁にあった。そろそろ引退……

その言葉が脳裏にチラつくようになって、もうずいぶんになる。

それでもこのままひっそりと身を引く気にはなれなかった。最後の最後ぐらい、自分が満足できる結果を残したかった。このレースに優勝して世界を相手に戦う。そこで持てる力のすべてを出し切って完全燃焼――そこまでは、何としてでも……

35キロを過ぎた。いよいよ終盤に差し掛かる。

沿道のひとだかりはさらに増していた。

小旗を振る者、ぐるぐると腕をまわす者、誰もが声援を送っているようだがぼくの耳にはまるで入らない。ぼくだけが膜ひとつ隔てた場所を走っているみたいだ。左足は痛みを通り越して感覚がない。いや、痛痒感とでもいえばいいのか、奇妙なしびれが足全体を包み込んでいる。わき腹に至っては、ずっと右手で薄い肉を捻じりあげて痛みを誤魔化すよりなかった。荒い息、かすむ視界、意識の混濁……それでもただひたすらに走る。ただ、この戦いに勝利することだけを信じて。

ついに40キロを通過した。ラストだ。この直線の先を左に曲がればスタジアムに辿り着く。スタートから2時間と少し。いつものことながら、長い道のりだった。

だらりと腕の力を抜いて、軽く揺すってみる。
大きく息を吐き出すと、前方に視線を向けた。
まだ、先頭を走るふたりの背中が見える。
正直、意外だった。まだそんな場所を走っているとは思っていなかった。もうとっくにスタジアムに帰還しているものと、そう思っていた。諦めてはいなかったとはいえ、心のどこかでは、すでに追いつくことは出来ないほどに差をつけられているものと、そう思っていた。だけど彼らとの差は、わずかだが縮まってさえいた。

知らぬ間に、集中力が研ぎ澄まされていたみたいだ。他の選手たちの動きにまったく意識を逸らされることもなかった。そういえばずっと並走していたふたりも、どこかに消えていた。そして足の痛みも、わき腹の痛みも。

湧きあがるような歓声が耳に飛び込んできた。

これまでまったく聞こえていなかったひとびとの声が、一気にぼくを呑み込んだ。違う。その声援を呑み込んだのは、たぶんぼくの方だ。
無尽蔵の力が身体の底から膨れあがる。自分の内側に、熱を感じた。
腕を振る。飛ぶように走る。風を切る。

行ける。追いつける。追い越せる。この勝負、ぼくの勝ちだ。

直線を左折。スタジアムの入り口が見えた。傾き始めた冬の陽射しの中、ぼくはその先に待つ未来に向けて、最後のスパートに入った。

                                

                              【了】

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