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いつも奇跡が起きていた

コインシダンス

ふと右のラックを見ると、サインペンなどを入れているボックスに原付自転車の鍵が入っていた。いつも別の決まった場所に置くのに、ふとした拍子にそこに入れてしまったのかもしれない。もし、さあ原付で出かけようとなったときに、いつもの場所に鍵がないことに驚き、記憶を頼りに探しまくって、まんまとその容れ物にたどりつけただろうか。
ある催促の電話がかかってきた。書類が届いていないがどうなっているのか? と言う。同封のレターパックで送ることになっていたので、もし投函したのなら、控えのナンバーがあるはずだ、と言う。たしかにそのナンバーを剥がして、何かに張り付けた記憶が残っている。あれ、どこに張り付けたろう? と考え、ややパニックになりつつ、机の上を見ると、小さな記録紙が目についた。なんとその表紙に張り付けてあったのである。「ああ、ありました」と相手に言い、郵便局でトレースをしてもらい、改めて電話をすると伝えた。その記録紙は実は前日に足下に落ちていたので、拾って机の上に置いていたものだった。もしそのときそういうことをしていなかったら、ぼくはその控えの紙片を見つけ出すことができたろうか。
映画を見終わって、DVDを取り出すボタンを押すが、なかなか出てこない。しつこくやっても出てこないので、これは故障したな、と思った。PCと付き合って40年ともなると、そのへんの勘は狂わない。ネットで対処法を見て、いくつか試みるが埒が明かない。これはいよいよ修理会社に電話して、人を呼ばないといけないな、と思い何気なく机の上を見たら、PCのスリット内にあるはずのDVDがそこに現れたのである。スリットから出てキーボードの裏側に張り付いていたらしい。それに気づかないとは!
いずれも老化が進んで経験するものなのか知らないが、いずれ原因と結果が結びつかないときがやってくる。それが認知症だろう。

ぼくは偶然の一致、コインシダンスというものを信じる。たとえば、ある仕事を思いつき、ふだんはまったく手にしない雑誌を買ったりすると、偶然にも自分の目的に合った記事が出ている、ということを何度も経験している。先日も読みさしていた『逝きし世の面影』という本を再び手に取ると、それがまさに自分がこれからやろうとしている仕事と関連してくるものであることに気がついた。その本は、故人となった歴史学者網野善彦の限界を抜く本だと誰かが週刊誌に書いていたのに刺激されて、しばらく前に購入したものだった。
この日頃、寝付きが悪く、手当たりしだいに枕元の本に手を出して朝になることが多いのだが、偶然エリザベス・ビショップの詩集成を開き、たまたま目にしたSongという詩を読み始めたところ dance like as Astea というフレーズがあったのにはたまげた。アステアファンのぼくはこれで一気にビショップのファンになった。もうアステアといっても知らない人が多いと思うが、一世を風靡したミュージカルダンサーである。ハリウッドはミュージカルでないと夜も日も明けないといわれた時代があった。
それはさておき、翌日も寝苦しく、またしても枕元に散乱する本のなかからロバート・ローエルの詩集成を拾い出し、何気なくFather's Bedroom という詩を読み始めると、ラフカディオ・ハーンの名前と彼の著作Glinmpses of Unfamilia Japanの名を見つけた。ぼくの心臓がコトンと鳴った。その日中、『逝きし世の面影』でラフカディオ・ハーンの日本理解が正統なものだったことを読んだばかりだったからだ。
さらに不思議は続く。ある日、ポール・オースターのエッセイ集を買い、The Poetry of Exileというエッセイを読みはじめたら、どうやらパウル・ツェランのことを書いているようだ。ツェランは英語でCelanと表記されるとは知らなかった。ツェランは外国の詩人でただ一人「自分の声」のようにして読める詩人である。ぼくはツェランとの深い因縁を感じざるをえなかった。
ツェランがらみではもっと不思議な話がある。かつて世代の違う3人で2週間に一度、ある駅の近くの碁会所で囲碁をやっていたことがあった。5段と段違いに強い40歳近辺の友が師匠格。その仕事上の知人である30歳近辺の青年とぼく50代(師匠とは会社の同僚だったことがある。いずれも当時の年齢)が同じような棋力だった。
何回か碁会所で打ち合ったあとの飲み会でたまたま詩の話になり、ぼくがツェランの名を出すと、あろうことかほかの2人もツェラン好きだと言い出した。ぼくは総毛立った。この地球で、その極東で、1千万都市東京の、あるまちで、しかも世代の違う3人が囲碁で集まり、それがみんなツェランを崇める人間だったというのは、いったいどれほどの確率のことなのだろう。
 ぼくがコインシダンスを信ずる理由は、十分にありはしないか。

中華料理店の幻

子どもと2人でその店に入った。値段は安くないが、量が多く、ここら辺りではうまいほうなので、たまに行く。ある時、メニューを開くと、変なページがあった。中央にやや斜めに文字が見える。途中から破いて、上の部分が無くなったようにも見える。だからその文字は少しだけ上辺が欠けているのである。
水辺無視と読める。それも稚拙な字である。きっとこれは誰かがお習字をして、ほんとは破り捨てるつもりが、文字だけ残ったのを何かの事情でメニューに挟み込み、そのまま忘れたかどうかしたものだろうと思った。
店の人間が注文を取りに来たので、当然、これは何? と聞いた。始めはきょとんとしていたが、こちらが2、3回尋ねると、「定食」という答えが返ってきた。??? ぼくはあわてて「そうじゃなくて、これって何?」と畳みかけるが、彼女はにやにや笑うばかり。なんとアホなことを聞くのだろうという顔つきである。
この店はいつからか店員がほとんど中国人ばかりになった。フロア長も注文聞きも、調理人もみんなそうである。それでもフロア長は多少は日本語が分かるので、彼を手招きしてもう一度聞いてみた。
彼も「定食」と答えた。「え? 定食? 違うよ、この文字の意味だよ」「定食のこれ1これ2、分かった?」
フロア長も「水辺無視」が「定食」だという。私はしつこく「この水辺無視ってどんな意味」と追及した。明らかに相手の顔には困惑の表情が浮かんでいる。やっと彼がすまなそうに言ったのは、「これに意味はない」だった。
意味がない? 何で? 私の頭は真っ白である。それに引き比べて、店の人間は落ち着きすましたものである。正面に座っている我が子の顔を見た。彼も信じられないという表情をしている。
それからひと月ぐらい経ったころだろうか、またその店に寄った。そういえば変なメニューはどうなっただろうと焦ってページをめくると、あの不思議な文字は消えていた。どうせ店員に聞いても、「何それ?」と取り合ってくれないのは分かっているので、そのまま質問を押さえ込んだ。

つけ麺物語

麹町の旧日テレの近くにこじんまりとした中華屋があった。結構流行っていて、昼時なんかに行くと入れないことがあった。だから、いつも時間をずらして、目当てのつけ麺を注文する。それはそれは質素なつけ麺で、黄色い麺と醤油味のつけ汁、そこには刻んだネギしか入っていない。これがうまいんだ。しばらくぶりに行くと、閉店していた。どういう事情があったか知れないが、客は入っていたから、なにか特別な事情があったのだろうと推測するしかない。

それで代わりを見つけたのが、銀座の大王である。ほぼ麹町と一緒の味で、三原橋の一柳(いちりゅうと読む。これもいまはない。半地下のトンネル内にあったのだが、老朽化して危ないということで、立ち退いた)で飲んだあと、京橋近くまで来て食べていた。最後に汁に熱いスープを入れてくれるので、それを飲み干した。店長が愛想がよくて、居心地がよかった。ぼくのこと、近所の人間と勘違いしているようだった(どういう訳か、あちこちでそう言われる)。夜10時でも結構、人が入っていたのに、やはり閉店である。ぼくは疫病神か。あるいは、簡素な味のつけ麺には祟りがあるのか。

とうとう自分で同じような味のつけ麺を開発した(というほどのものでもないが)。少し邪道に走ったのは、自家製メンマとわかめを汁に入れたことである。まあそれくらいは許してもらって(誰にだ?)、まちの夏祭りにお店を出すことにした。2日にわたり、100人前ずつ用意をする。それを一人でやるのである。しかも、狭い自宅で作るわけだから、冷蔵庫も小さいし、もともとそれだけの量は到底入らない。夏の真っ盛りだから、すぐに腐る。ネギの刻んだのなど典型的に足が速い。だから、朝も暗いうちに起きて、せっせと作り出すのである。

そのまま朝を迎えて、会場まで30分、借りもののリヤカーに荷物を積んで持っていく。クルマの免許がないから、そういう苛酷な労働になる。何度か往復して準備ができる。うだるような暑さのなか、ビールを飲み続けながら、一日中つけ麺を作りっぱなしである。途中からほぼ意識の飛んだような感じで作業をしていた。

麹町、銀座のつけ麺の幻を追っているうちに、とんでもないことになってしまった。それでも10年、夏祭りに店は出し続けた。わが狂気には、程がない。

佐渡の幻

佐渡には都合3回行っている。一人で2回、あとはわが弟と一緒である。はじめて佐渡の地・両津に降り立ったとき、ここが北一輝の生まれた土地かと感慨を覚えた。

何を食べてもおいしい土地で、対岸の新潟市もうまいが、地元の人は格段に違うと主張するし、ぼくも強く同意する。何気ない、お婆さん一人がやっているような定食屋に入っても、品札に刺身が書いてある。ぼくは白身かイカ、タコぐらいしか食べられないが、ビールのあてに頼むと唸りたくなるようなうまさである。県庁所在地を数段下に見る気持ちには、間違いはない。

弟と島の北のはずれ近くの民宿に泊まったときのことである。朝食に出た海藻「ながも(あかもく)」の味噌汁が驚くほどうまかった。ふだん口数の少ない彼にしては、珍しく「こりゃうまい」と声を挙げていた。それから幾年経っても、佐渡の話になると、弟は決まってその味噌汁のことを言い出す。旅に出て漁港などに寄ると、酒のあとに決まって海藻汁、カニ汁、エビ汁を頼むようになったのは、佐渡の影響である。

佐渡は意外と大きな島で、たしか東京都内と同じくらいの広さである。島は海に突き出した山の先っぽだと思えばいい。平坦なところはほとんどない。そこをあちこちバスを使いながら見て回ったが、あるところを歩いていたら突然、盥の底のような場所に出た。眼前に10階建てはあろうかというビルが、それもタテに半分に切って、横倒しにした感じに岡のふもとに埋まっている。言ってみれば、縦横に発達したアリの穴の断面図を見ている感じなのだ。

一瞬、何が何だか分からなかった。佐渡だから金山の発掘の跡かとも思ったが、セメントのビルだから、そんなわけがない。呆然と立ち尽くし、われに返ってカメラのシャッターを押した。数年後、写真を取り込んだパソコンがクラッシュし、すべてのデータが消えてしまった。もちろんその巨大な建物のお化けもどこかに消えてしまった。

ぼくが見たのは、いったい何だったのだろう。そして、それは果たして現実のものだったのだろうか。

鏡の部屋

ぼくは方向音痴だろうと思う。「だろう」というのは、ふつうに方向が間違っているので、それが異常なこととは思えない。やがて人にも指摘され、そういうものかもしれないと納得し始めるのである。方向音痴とは「私はどこにいるの?」と思う病のことだと言う人がいるが、ぼくは自分への信頼の問題だと思っている。道を間違うことなど大したことはない、たとえ通い慣れた道で迷っても、それをおかしいなどと思わなければ、別にそれでいいのである。こんなに歩き慣れた道で迷う自分がおかしい、と疑い始めるから、病のような兆候をおび始めるのだ。そして、自分で凝り固まったルールを作り始める。ほかに有効な近道があっても慣れた道に徹する、大事な用事のときにはいつもの時間帯で行くとか(光の具合で風景が違って見えるから、時間帯を変えると危ない)、自分を律し始める。そうでないと、大げさにいえば、自己の崩壊を味わうことになりそうに思うからである。

先日、「ジョン・ウィック2」を見ていて、鏡の部屋のシーンに出くわし、まざまざと「燃えよ、ドラゴン」が思い出され、さらに自分のおぞましい過去までも炙り出されてきて、おろおろとした。そうか鏡に囲まれたら拳で殴るのか、と今更ながらのヒントもつかんだのである。

ブルース・リーがカンフー集団の頭領ハンを追っているうちに、鏡の部屋に迷い込む、というかおびき寄せられる。ハンはそこの仕組みが分かっているから優位に立てるが、ブルース・リーは鏡の反射でどれが本物か偽物か判別がつかない。こいつかと思って構えると、後ろから蹴りつけられたりする。しかし、頭をぶつけた鏡が割れることで、はっと気づくのである。偽物の自分は鏡がなければ成立しないということに。ブルース・リーは次々と鏡を割って、とうとうハンをやっつける。しかし、一方では残念でもあったのである。実はぼくは、その眉毛の異常に濃い役者さんが、幼児のころに好きだった月形龍之介似だったので、けっこう肩入れしていたのである。

ある日、仕事で品川のあるビルを訪ねた。まだ時間に余裕があるので、トイレに入ることにした。なにか不自然な感じもしたが、そのまま用を足した。手を洗い、外に出ようとして、ドアが見つからないのである! ええっ! である。慌てて見回しても、壁は銀色に光るだけで、ドアノブと思われるものがない。まだ携帯のない時代なので、これから会いに行く人にそこからの脱出法を聞くわけにもいかない(しかし、考えてみれば、携帯があったとしても、トイレのドアはどこですか、とは恥ずかしくて聞けない)。汗が噴き出し、心臓が早鳴りする。もう終わりだ、と思ったとろこにちょうど、所用のある人が入ってきた。ぼくはそのドアを目がけて猛ダッシュした。トイレに駆け込んでくる人があっても、その反対の人はまずいないだろう。

ぼくは必死だった。しかし、もしそのときブルース・リーの秘技を思い出していたら、きっとその新型ビルのおしゃれなトイレの銀色の壁に拳をぶち込み、噴き出す血をなすりつけて、偽の映像を消していただろうと思う。

紛失騒ぎ

ものがなくなるのはなぜか。ぼくは「いなくなる」というほうが正確ではないかと思う。今までそこにあったものが突然消えてなくなるのだから、「いなくなった」のである。
その代表格は、ぼくの場合は消しゴムと円錐形の筒に皿が付いたルーペである。ふっと姿を消して、しばらくするとそこに自然な顔をして舞い戻っている。
メガネもその一角に入ってくる。どこに行ったか見当もつかない。探しに探して、念のために二度までも見た脱衣籠に戻ると、脱いだ下着にうまく絡んで隠れている。洗った靴下の数は滅多に合わない。イスに座ったら、尻にメガネを敷いていたということも何度かある。無重力ジェルとか使用なので、メガネは少し歪むだけである。実際に買ってすぐに卵を載せて座ったことがあるが、見事割れなかった。
 
ぼくは恐ろしいほどうっかり者で、先日も駅のホームにある待合所にカバンを忘れた。2駅先から戻って調べたが、もう誰かが持って行ったあとだった。雨の日に出かけると、傘を5、6本はなくす。買ってはどこかに置き忘れるのだ。カバンのほかに書類ファイルなど持っていると、駅で切符を買うときに、狭い荷台のところに忘れてしまう。一度など、相手の方と酔っぱらっていい加減なチークダンスを踊っているうちに書類をどこかに忘れたことを思い出し、駆け足で飲んだ店を逆にたどり、3軒めで見つけることができた。ダンスの相手のはるかに年上の女性は呆れかえっていた。

仕舞屋(しもたや)みたいな小さな一軒家が、ぼくが勤める会社だった。取引先に出したはずの手紙が、窓の外の屋根に乗っかっていたことがある。ある人に別の人に出す手紙を送ったこともあった。相手から「違う人宛の手紙が来てます」と電話があり、自分の粗相に気づいた次第。内容がお金に関することだったので、冷や汗をかいた。
その会社が思わぬ儲けが出て自社ビルを建て、そこに引っ越しをしたときのことである。仕事で使った借り物の写真が見つからない。たしか毀損あるいは紛失した場合はいくらいくらの弁償金がかかる、と借りたときの条件があった。確かめてみると、結構な額が書かれていた。歴史的にも大事な写真なので、当然のことであろう。ほかの人間に知られずに、ひそひそと探索したが、一向に見つからない。万策尽きた感じで、ぼくはじっと刑罰がやってくるのを待つだけだった。やがて期限が来て、請求書が届き、全社員にぼくの不祥事が知られることとなった。結局、会社がその結構な額を弁済し、ぼくはえらい大目玉を喰った。

それから半年、年末の大掃除の日がやってきた。素っ頓狂な声を挙げて、女子社員がやってくる。両手を押し立て、B4ぐらいの大きさの紙を掲げている。その社員は満面の笑みである。ボクシングでラウンド数を知らせるレオタード娘みたいだ。見ると、くだんの写真である。聞けば、台所を掃除していたら、キッチンと壁の間に挟まっているものがあった。何だろうと引き出してみたら、その歴史的な写真だった。
なぜに仕事に使った写真がわが机を離れ、部屋の外にある台所にまぎれたのか、皆目見当がつかない。しかし、失くしものが見つかるときというのは、えてしてこういうものだ、という妙な達観がやってきた。

彷徨えるまち

楼蘭――なんという床しい響きだろう。砂漠にあって、夷狄(いてき)から逃れるために移動を強いられたまち。そのまちが身を添えたロブノール湖もまた移動する湖として知られている。幻の都市ほど興味を引かれるものはない。かつて津軽半島の日本海側のほぼ中央に奥州十三湊(とさみなと)があった。岩木川の河口にある十三湖(じゅうさんこ)の西岸である。中世における北日本の重要な港だったことは分かっている。津軽の安藤という豪族が拠点を置いて、栄えていたらしい。それが南北朝期に大津波によって壊滅したといわれる。

石川県加賀の地に蓮如(れんにょ)がつくったまち吉崎がある。怪しげな連中たちも押し集まってきた急づくりのまちには、活気があふれていた。延暦寺の弾圧から逃れてつくった越前のみやこである。その後、越前は浄土真宗のくにとなり、ときの政権から独立するまでになる。信長が恐れたのはその軍隊のような力と、死ねば極楽浄土に行けるという精神的な支えだった、という。戦いのために必要なものを二つながらもっているのだから、強いはずである。しかし、蓮如自身はその暴力主義には反対の立場だったようだ(五木寛之『漂泊者の心』)。信長は、他の地の規模の小さな一向宗には融和の策を採っている。これはつとに渡辺京二が書いていることである。その吉崎も急速度に衰え、歴史の表舞台から消えていく。

香港には仕事とプライベートで3回行っている。仕事はNと2人で行った。何を本業にしているのか分からないところがあった。ネクタイとワイシャツとジャケットの色使いがばらばらで、ある妙齢の女性が彼がトイレに立ったすきに、「なんでしょね、あのセンス」と言ったのには笑ってしまった。Nは身体も大きく頑丈そうに見えたが、実は線が細かったことがあとで分かった。彼は仕事そっちのけで深圳の不動産のことばかり気にしていた。ビジネスの話があるからと言うので、一緒にバスと列車で深圳に向かった。バスは桃色の頬をした巨体の白人夫婦ばかりだった。まるでフェリーニの世界のよう。深圳は香港以上に太陽が近いのと、高級ホテルといわれるところにも堂々と昼間から商売女が出入りしていたことだけを覚えている。ああ、それともう一つ、まちでゴミ袋を丸めたような感じの老婆がライチを手押し車に積んで、売り歩いていた。だいぶ昔の話である。

夜に2人で飲みに出たところ、一群の屋台が並んでいるところがあった。全部、貝専門の店ばかりで、炒めたり、スープにしたり、垂涎の匂いを撒き散らしながら、列をなす人間に供していた。中華鍋を尻から煽る火が、夜の闇を揺らしていた。われわれ2人は餓鬼のように指をねぶり、唇を光らせて貝を食べ続けた。Nの目のなかに怪しい光が明滅していた。
満腹になってホテルに戻って、ベッドに横になっていると、Nが唸り声を上げた。汗が額をだらだらと流れている。「当たったらしい」と言う。腹が痛いというわけでもないので、頭を冷やしてそのまま寝入ってしまった。翌朝、もののけが落ちたようにNはさっぱりした顔をしている。聞けば、夜中じゅう熱で苦しめられたという。

その日も昼間は仕事に専念し、夜、ぼくは映画に出かけ、Nは部屋でじっとしているということになった。映画館はいまでいうシネ・コンプレックス形式で、ボックスの中に女性が座り、そこから放射線状に10センチ幅ほどの溝が何本か買い手の手許まで伸びていて、そこに窓が穿ってある。観る映画ごとに金を落とす窓が決まっている。そこに金を入れると線路をちゃらちゃらと転がって、センターの女性に届くという仕掛けである。合理的だな、いずれ日本にやってくるな、と思った。ぼくが見たのは香港やくざ映画で、狭い館内はあふれんばかりの人だった。笑いがさんざめき、アクションシーンには一斉に体が揺れる。

外に出てから、どこに行こうかと考えた。そうだ、昨日のあの屋台へまた寄ってみよう。ホテルとの方角を考えれば、さすがのぼくも間違いようがない。しかし、いくら探しても、あのときの喧騒はどこにもない。というか、夜店一つないのである。ぼくは狐につままれたような思いで、病み上がりのNのいる安宿に帰ったのである。彼は近くの日本料理屋で名前だけの鍋焼きうどんを食べたという。

変な人1

こないだ地元の飲み屋に顔を出し、奥のカウンター席に座った。隣にサラリーマン風の男が座って、本を読んでいた。ぼくはいつもの生レモンサワーを頼み、あとカシラ、シロを塩とたれで2本ずつ注文した。その間も男はじっと腕をカウンターに押しつけるようにして本を読んでいる。どうしても何を読んでいるか気になる。ふと本の表紙が見えるときがある。なんだろう。それを何回が繰り返すうちに、小山昇の著者名と『なぜ社長は……』までは見えた。すぐにググッて分かったのは、『なぜ社長はあなたを幹部に選ばないのか』だった。うーん、安酒で憂さを晴らすこういう場にその本はどうか。そここそが問題かも。もちろんぼくの声は架空のものである。

その店はそこらじゅう、天井から壁から隙間なく品名、店の要望などが書かれた長方形の紙が所狭しと貼ってある。「ボトルキープお(を)願います」「みそず(づ)け」「ワンドリリンクせい(制)です」と文字遣いがなっていない。客が入ってくると風も吹き込み、一斉に全面の紙札がザワザワと揺れる。それはまるで恐山のイタコの小屋うちと同じである。風で御幣が舞っている。

ある日、その店に若者が一人入ってきた。そして続けてもう一人入ってきた。そいつが手に焼き芋を持っている。店の半ばまで来て、どうしようかと思ったらしく、引き返して出て行った。しばらくして帰ってきたが、全部食べ切ってきたようだ。こいつに酒を飲む資格はないのではないか。これはもちろんぼくの架空の声である。

またその店の話である。そこは刺身が安く、3品あるいは4品選んでセットにできる。3品盛りなら380円である。向かいの初老の男性が、トロと赤身とイカをご所望である。赤身とイカまでは順調に進んだ。いけないのはトロである。箸をつけるのだが、持ち上げない。それを何回か繰り返して、やっと一切れを口に運ぶ。最後まで待っていると、30分はかかるだろう。人のことも考えてものを食え。もちろんこれはぼくの心の声である。

変な人2

溝の口「かとりや」でのこと。ぼくはここの「ネギしろ」が目当てで、わざわざ2時間近くかけて出かけている。溝の口西口商店街は南武線の線路脇にある昭和感横溢の一画である。そこに数軒もつ焼きが軒を並べ、毎夜、ホルモん好きが集まってくる。
かとりやは中で座って食べる店だが、外でも食べられるようになっていて、中は若い衆が、外は背の高いおやじさんが身をこごめるようにしてモツを焼いていた。それを囲むようにして客が立ち並び、思い思いのモツを注文し、それぞれ好みのアルコールを飲んでいた。おやじさんの渋かったこと。いなせな感じがあった。池袋の「男体山」のおやじも長身で、やっぱり背を屈めるようにして焼いていた。かなり遊んできたな、と思わせるものがあった。池辺良という役者は本来はインテリなのだが、風情に人生を諦めた男の匂いがあって、とくに着流しなどを着ると匂い立つような男の色気があった。いまでいえば綾野剛にそうした気配がある。
5、6年前になるだろうか、かとりやのおやじさんが巣くっていた場所がベニヤで閉じられてしまった。それとごく最近、隣にあった古本屋が駅の反対側に移ってしまった。そこもベニヤが張られ、移転先が書かれていた。オオバQに出てくる小池さんみたいな顔をした店主は、夕方になると酒が入って、よく買った本の計算を間違えていた。どんどんまちも人も変わっていく。呑み助の聖地といわれる京成立石も駅前にタワーマンションが建つという話である。見捨てられたようなまちばかり探して歩いているようなぼくのような人間には、本当に居場所がなくなっていく。
月島の路地裏、東向島の鳩のまち、白々とした洲崎パラダイス、北千住龍田町、浅草千束通り、立川の競馬狂いが集まる飲み屋街……たいていはむかしの赤線や戦後の闇市があったところだ。
 
かとりやの客は店を愛して通っている。常連とおぼしき人に話しかけると、即座に「かとりや愛」が語られる。その熱気に煽られる思いがする。みなさん、店と一緒に生きているという感じなのだ。たまに一人で飲み食いしている若い女性がいるが、彼女たちも一途な思いを伝えてくる。これだけ思い入れが深いとほかに引っ越すのが難しそうだ。

あるとき、隣の男がラップトップを開いて、何かぶつぶつ言っている。独り言タイプっているけれど、どうもそれとは粘着力が違う。心が何かに執着して、それを払い除けるのに必死な感じがあるのだ。サラリーマン風の中年男性である。決まってそういう人がしゃべる言葉は、聞き取れたとしても、意味内容までは分からないことが多い。会社の不満? 人間関係? 政治的なこと? ぼくと同じでその声が気になったのか、一つ向こうの男性が声をかけた。
「私はこういう安い店でないと飲めないんですよ」
 すると男は、
「私は収入が少ないわけではないんですが」
 と答えている。身も蓋もないことを除けば、ごく普通のサラリーマンの会話である。さっきまでの独り言は一体どこへ行ってしまったのか。

池袋「ふくろ」でのことである。妙な取り合わせで、30代とおぼしき女性とその母親ぐらいの年齢の女性。あとで分かったのだが、年配者は30代女性の友達の母親らしく、池袋に観劇に来たのだという。野田秀樹の芝居に感激したと言っている。池袋はオペラシティと並んで“演劇の聖地”なんだそうだ。知らなかった。ぼくなんか下北沢をすぐに思い出すけれど。
若い女性は最近、若冲展、正倉院展を見に行き、母親のほうは山種(美術館)にはやはりいいものがある、と言っている。日本橋の骨董屋にいい刀があった、とずいぶん賑やかな話をしている。
そこに取り入ったのが二人の右隣、それはぼくの左隣なのだが、70はいってそうな男である。見るからに怪しい。しきりに若いほうに酒を注いだり、自分の食べ物を回したりしている。ぼくも正倉院展に行きました、日本画も扱っています、連絡先を教えてください、と粉をかけている。日本橋の話題が出ると、いい店があるから飲みにいきましょう、と畳みかける。ぼくは、露骨だなぁなどと思って聞いている。その男は東銀座あたりで骨董屋をやっているご仁のようだ。若い女性は否定するでもなく、うまくいなしている。
 母親の年齢の女性が、令和の字を書いたのは知り合いの人だと言うと、若いほうが「令和という美しい時代に生きられて幸せ」と言った。思わずその顔を見たが、大まじめである。うさん臭いドンファンは根負けして、二人を置いて店を出て行ったが、ぼくは何だか彼に同情したくなってもいたのだ。

西日の人生

自分がほとほとアホだと思うことがある。あとでは笑い話にするが、当座は絶望の縁に立っている気分になる。
たとえば、日に6本の傘を無くしたとき。あるいは、電車の路線の分岐点の駅に3度も戻ったこと。A方向に行きたいのにどうしてかB方向に乗ってしまい、分岐点の駅に戻るのだがまたBへ行ってしまうのである。
もっと情けないのはガラスでできた醤油瓶を、何も考えない小学生のように振り回して割ったときである。スーパーで2瓶買って、それをスーパーの袋でガチャガチャ振りながら歩き、ときには歩道脇のガードなどにぶつけて、しまいにどっと中身がこぼれて、いちめん醤油の匂いが真夏の暑気のなかに立ち上ったときは、へなへなとへたり込みそうになった。自分のアホらしさに気が抜けたのである。
さらに言えば、ぼくはタンスの棚という棚に自分で絵を付けたワッペンを貼っている。パンツとか靴下の絵が描いてある。ところが、まともに目的の棚を開けられたことがない。死を目前にした、ある恩義のある方の部屋を訪ねたときに、ぼくと同じようにタンスの棚ごとに仕舞ってあるものの名札を貼っているのを見て、粛然とした気持ちがした。
種村季弘は「老成の人」というエッセイで「心が朽ちてからも、西日に照らされて過ごす時間は長い」と名調子で書いている。ぼくはこの文章を空恐ろしい気分で読んだ。ぼくは20代、30代にして心が朽ちていたように思うからである。

桜のこと

サクラのことを書きたい。ぼくのような北海道生まれの人間にとってサクラは微妙な存在である。ぼくの町に桜は数本しかなくて、山の中にポツンと咲いているのが見えるだけ。花見をしようと言い出す人間はいない。
その後、仙台にいたことがあって、桜の季節ともなれば、鍋釜酒をもって楽しくやったものである。青春の鬱屈を抱えていたぼくとすれば、桜が懶惰と咲いて、みごとに散っていくのが爽快で、いつも木の下からその光景を仰ぎ見たものである。
不思議なもので30歳を越えたあたりから、葉桜がきれいだと感じるようになった。再生の息吹を感じたかったのかもしれない。とりたてて疲弊していたわけでもないが。
安吾が桜の下に死体が埋まっていると言ったのはなぜか。T.S.エリオットは4月を残酷な季節と言ったのと符合しているように思う。美は残酷である、と誰が言ったのだったか。
子どもが結婚をしたとき、親族控え室にお茶が用意されていて、それが塩漬けの桜の花びらが入ったものだった。見合いの席ばかりか、こういう縁起物としても使うのか、と感心した。
当日、息子は未来の嫁さんが用意してあったワイシャツを忘れ、あわてて一番近くのスーパーへ買い出しに行った。控え室のまどからは寒々とした人工池が見えた。息子のクルマがあわてて池を回っていくのが見えた。
道産子が桜に親近感がないのと同じように、沖縄の人もきっと同じ疎外感を感じているのではないか。どんどん自分を本土に合わせていくジレンマを感じながらも、いや、たかが桜、とも思うのだ。
冒頭に言った微妙とはそのことである。
スキヤキ、お好み焼き、頻繁な入浴、海水浴、カブトムシ、ゴキブリ、梅雨、などなど北海道人には本州で学習することがたくさんある。もう田舎より東京暮らしが長くなったぼくとしては、ますますデラシネの度を深めているということになるのだろう。
故郷を捨てた人間に、一抹のさみしさがないとは言わない。

少年

新宿で飲んで、バスで池袋に向かう。いつものバス停に行くと、半ズボンの少年がいた。カバンも何も持っていない。聞くと、早稲田から友達の家にゲームをやりに来た、という。「ぼくは草*番だけど、おじさんは池で帰るんだね。ぼくのバスのほうが早く来る」とはきはきとした口調である。でも、あわてて、「違う。間違えた。今日は土曜だから、おじさんが先だ」バスが来て乗り込んで、発車する。見ると、バス停の標識を回り込んで、ぼくに向かって手を振っている。それも真剣に、身体を使って手を振ってくれるのだ。

住まいの1階からエレベーターに乗ろうとしたら、半ズボンの少年が先に乗っていた。「おじさん、乗る?」と聞くので、「うん」と頷いた。何階ですかと聞くので、階数を言い、行き先を足してくれた。彼がしゃべりだす。「ぼく、今日、学校で怪我しちゃった」「学校でかい?」「体育ですり剥いちゃったんです。もう痛くはないんです。お母さんはエレベーターは使ってはだめと言うんだけどね」彼は2階で降りていった。きっとズルをしたのをぼくに見つかった気持ちだったのだろう。それを言い訳したかったのだろうと思う。

ぼくらは日々、生きる希望のようなものを失っていく。知らぬ間に空気が抜ける風船のようなものだ。気落ちし、気持ちがささくれてくる。正直に言おう、ぼくはこの少年たちに会って、おおげさだが生きる喜びさえ感じたのである。少年のよさは、そのはちきれんばかりの誠実さにある。だから、ここに心を込めて彼らのことを書き残しておきたい。

それとは対照的な少年がいたことも記しておきたい。わが棘となって記憶に刺さり続けるからである。
夜の7時くらいに映画を借りに近くのゲオまで歩いていった。2本借りて(市川雷蔵主演「薄桜記」、コロンバイン高校乱射事件をモチーフにした「エレファント」)、外に出たようとしたところ、小さな男の子が「おじさん、駅を知ってる?」と聞いてきた。知ってると答えると、連れて行ってくれ、と言う。迷子になったのかと聞くと、駅にお母さんがいる、と言う。ちょっと変な気がしたのだが、連れて行くことにした。
秋も深まった時期に、ジャンパーも着ないで、少し汚れた感じの子である。手を握って歩き出した。何度か「寒くないか」と聞いても、大丈夫という返事が返ってくる。
 やや歩いたところで、変なことを言い出した。
「保育所の先生に見つかりたくない」
「おじさんと歩けば大丈夫だよ。君はどこの保育所?」
「第1保育所」
「どこにあるの、それ?」
「お肉屋さんの近く」
「おじさんは第6保育所なら知ってるよ」
「ぼくはいつも第6とは遊んでいるよ」
少し声が弾んできた。第6はうちの子が小さいときに通った保育所である。彼の小さな手を握っていると、僕の手が少し汗ばんできた。子どもの体温が高いことを思い出した。
彼はいつかどこかで保育所の人につかまって小言を食らったか、あるいは親から何か注意をもらっているのかもしれないな、と思った。
ところで、本当にお母さんは駅で待っているのか。駅のどこにいる? 階段のとこ? と尋ねると、実はパチンコをやっている、と言う。「お父さんは?」と聞くと、「お父さんは偉いけど、お父さんもパチンコをやっている」10時にならないと止めない、とも言う。彼は保育所を出たあと、いつも両親のパチンコが終わるのを待っているらしい。
 突然、その子が別のことを言い出した。
「おじさん、ぼくねお年玉貰えなかったんだ」
「おじさんだって貰ってないよ」
「いつもだよ。ぼく、欲しいのに」
 僕のなかに少し同情心が湧いてきた。
「お腹、空いてないか」
「空いてる」
「あそこにフライドチキンがあるけど、何か食べるかい」
「うん、食べる」
店に入ると、あれもこれも欲しいと大騒ぎが始まった。「そんなに食べられないよ」と言っても、「チャーハンをたくさん食べられるから大丈夫」との返事。結局、小さなナゲットと小さなトウモロコシのサラダ、それにクリームソースのパイ包みに決めた。
席に着いてすぐに食べ始めようとするので、手を洗うように言った。何度か言って、やっと渋々洗いに行った。結構、頑固な性格のようだ。
遠回しに素行調査を始めた。彼は6歳、きょうだいは10人いて、自分の下に1人いると言う。家に部屋は10個あり、自分の部屋にはお化けが出るので帰りたくないのだ、と奇妙なことを言う。名前を聞くと、「ない」との返事。彼は6歳にして、すでに大人とはまともに向き合わない子に育っている。
パイ包みを食べているうちに、「残していいか」と言い出した。僕は少しきつい言い方で「全部食べなさい、君が食べられると言ったから頼んだんだぞ」と叱った。彼は仕方なさそうにトウモロコシサラダの入れ物を手に取り、かっこみ始めた。その瞬間、バシャッと床に落とした。ぼくにはそれがわざとやったように見えた。
「お姉さんを呼んでおいで」
 お店の人に片づけてもらい、僕はパイ包みを指して言った。
「これは全部、食べなよ」
彼はぼくの口調が厳しくなったのが分かったらしく、言われたとおり全部食べ終わった。そして、「あとはいい?」と聞く。もうこの子は付き合いきれないと思ったので、残りは持ち帰るように言った。ポテトとナゲットを一緒の箱に入れたところ、
「おじさんと一緒のとこお母さんに見られたら叱られるから、ぼく、行くよ」
 とさっと逃げるようにしていなくなった。
僕は彼にお年玉でもあげようかと考えていたのだが、6歳にして彼はもう、かなりしたたかな人間になってしまっている。変な同情はしないほうがよかったかもしれない、と外に出て寒風に巻き上げられながら思った。
少し歩くと、パチンコの景品取り替え所に何人か、人が並んでいるのが見えた。あの子がいるかとも思ったのだが、それらしい姿はなかった。

どこで何が間違ってしまったのだろう。彼はこれからどんな人生を送っていくのだろう。息子の友達には罪を負って責任を取った者もいるし、故郷にいられなくなって行き先が杳として知れない子もいる。彼らはよくうちに来て、夕食をたらふく食べていった。長じてからも、その恩義を思い出したのか、まちでぼくを見かけると、「また飯食いに行きますよ」と声をかけてきた。恐いお兄いさんみたいな風体になっていた。そのときはもう息子は他郷へ行ってしまって、地元にはいなかったのだが。
一人息子だったので、家をオープンにすることを考えた。彼が友達を家に呼びたいときは、どんな急なことでも、いくら多人数でも受け入れる、と宣言していた。それに、子どもの舌は大人に比べて格段にいいので、できうるかぎりの食材で、一生懸命になって料理を作った。ただ、食事のマナーだけはうるさく言った。
息子がクラスの女の子の誕生会に出かけて、すぐに戻ってきたことがあった。呼ばれていなかったというので返されたと言う。ぼくはその理不尽に怒り、彼の誕生日にはだれを呼んでもいい、数も問わない。前の小さな公園で遊んでいる子でもいい、と言った。
それで、当日40~50人の子がやってきたのではないだろうか。次から次とやってくる子たちに、大車輪でドイツ風のポテト重ね焼きを振る舞った。部屋を一杯にした子たちには新宿の専門店で買ってきたアニメグッズを上げた。
きっとほんのささいなことなんじゃないか、と思う。一緒に食事をしたり、風呂に入ったりするだけで、子どもの心はすなおに伸びていくのではないか。虐待で死んだ子の遺した文章には、鬼のような親をそれでも信じた言葉が記されている。
 


 


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