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ロールキャベツのジレンマ。

子供の頃、ロールキャベツってそんなに好きじゃなかったのだけれど、結婚してから作るようになって好きになった。

キャベツを丁寧に一枚づつめくって、茹でて、冷まして、柔らかくなったキャベツが切れてしまわないようにタネを包んで干瓢で大切な贈り物のように結って先っちょちょん切って、コンソメスープでじっくり煮る。という一連の過程は、時間に追われたときにはできないので、それなりのご馳走なのだということに気づいたのも、最近のこと。子供の頃は、好きか嫌いかだけで、手間暇もわからなかったし、わかったとしても「へぇー」しか出てこなかっただろう。とにかく、手のかかるロールキャベツ作りは、めんどくさいと思ったらできるものではなく、作りたい!今日は仲良くロールキャベツを食べよう!という自らの意思で作る料理だということが素敵だと思う。それから、「お母さんありがとう」と作るたびいつも思う。子供の頃、せっかく作ってくれたお皿を前に「えー、ロールキャベツー?」とか平気で言っていたもの。母は心の中できっと泣いていたに違いない。いくら家族で子供でも、やっぱりそういうのってちょっと切ない。それも、わかるようになった。年を取るということは、感謝できるようになるとか、喜んでもらえることにありがたみを覚えるということなのかもしれない。と、今日も大好きな音楽を聴きながら、下ごしらえをしていると、ほんの数年前の、全てに疲れてしまったガサガサの私がブワッと蘇った。完全に自分自身を見失ってしまい、だからと言って死にたくない、生きていたいと必死に思っていた時だった。今思えば、どうしてあの時の私は、生に、あんなにもくらいついたのだろう。死んだほうが楽だとはこれっぽっちも思わなかった自分を今、抱きしめて褒めてあげたい。そして、そんな時、生きていて初めて「夢」を持ったような気がする。小さい頃に描いたような「ピアノの先生になりたい」とか「オリンピックに出たい」とかじゃない「夢」とか「希望」。私はその時初めてその言葉の深さを知ったんだ。タモリさんとか、「夢なんか持つな」と言うけれど、持とうとしなくても切実に湧き上がってくるということもあるんだ。だから私はそんな言葉たちをもう、バカにはできない。信じているよ。

そんな時に『新月の日に、紙に実現化したいことを書いて客観的に眺めて意識するとすぐに叶う』と読んで、お月様カレンダーを見てその日を待ちわびながら、お願いをしても届かないと言われている「ボイドタイム」とかいう時間もきちんと守って避けて、毎月、毎月、夜空を眺めながら紙に夢をしたためていた。頼れるものが何もないような気持ちになって、宇宙にすがっていた時期だった。月の満ち欠けてゆく空が、お布団みたいにあたたかかった。思いつくままにガサガサと書き綴ったその言葉たちを見ていると、ある時気づいた。愛でもお金でも仕事でもなく、私が欲しいのはただの「生活」だった。朝起きて、おはようといってカーテンを開ける。コーヒーを丁寧に淹れてあげる、パンを焼いたりして、ちょっと忙しくしながら身支度をして、今日やるべきことをする。気づいたら外は少し暗くなっていて、スーパーに寄ってうちに帰る。疲れたなあと思いながらも見栄えの良い、手抜き料理を毎日ちゃんと作る。特別な日にはケーキを買ってくる。鍋敷きを敷いてオーブン焼きの熱いお皿を乗せてそれぞれのお皿に取り分ける。どーでもいいテレビを見ながらどーでもいい話をして、ご飯を食べて、疲れを忘れる。週末は何しようかねと話し合って、ベッドに入って、寝る。これは、世間では「結婚」というのかもしれないけれど、しっくりこない。不思議なことに、紙に書いて数ヶ月後に、その夢は夫に出会って叶えられた。表向きは結婚という安泰に見えるかもしれないけれど、そうじゃないんだ。お月様は、宇宙は、私というちっぽけな存在も見捨てはしなかった。

生きるとは、やらなければならないことがある毎日で、生活とは、心遣いなのだと思う。そして、人はいつか優しさに戻りたい生き物なのだと思う。



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