「正しい」に乗れなくなった時、反動に行かないための杉田俊介(あるいは反動するためのトドメとしての)

政治的、社会的に正しいことがある。人権、平等、再分配、合理的配慮etc...。

当然、正しいのは分かっているし、推進しなければならないに。日本社会の仕組みで苦しんでいる人の話を識者あるいは当事者から見聞きし、私が日本において無自覚な特権を有しているのだと痛感する場面には何度遭遇しただろうか。

けれどたまに思う時もある。
私、辛い。
ニュースで人権問題や社会正義がリベラルな人々によって語られる時、私は同意すると同時に、何で私は配慮されないんだ。何で私ばかり加害者扱いなんだ。と、思ってしまう時が、たまにある。

具体的に言えば、女性の貧困や自殺率が上がっているという話を、識者が深刻に取り上げていた時、「男は初めから水準がずっと高いんだけど...」と思ってしまう。
あるいは、暴力的なニュースが起きた時、海外ルーツ、あるいは日本に住む外国人の方が言われなき差別に逢う危険性を識者が警鐘する時、
「その通りなんだけど、その背後の犯人の置かれた状況とか、そういうのは...」となる。

こういうモヤモヤ(それはある種、考えなくても良いという特権を有しているからこそ思えるものである)を、自分が苦しい時に抱えてしまう。その時、自分が反動的な考えに陥ってしまう気がして、グッと堪える。いや、「堪える」という言葉はおこがましいのだが。

私はおそらく、自分の先行きの見えない将来(就活への不安)や、この社会で育まれてきた恋愛イデオロギーへの劣等感(モテない)、そして自らの個性によるところも大きい孤独感(友達がいない)を抱える、所謂インセルなんだろう。

そんな自分が、リベラルな話題を見聞きする度に抱える、私の事も気にして欲しい、私も辛いという疎外感が、いつかバックラッシュに陥るのでは無いかと思う時があるし、こう考える時点でバックラッシュなのかもしれない。

その時に、杉田俊介は救いになった。彼は自らをインセルになる恐れがあると語り、そうならないために、自らの「男性性」と「弱さ」に向き合い、「男が辛い」と叫んでも良いのだと言う。もうひとつ、人生とは元々つまらないもので、自らの「弱者性」を、ただじっと耐え忍ぶ(雨ニモマケズのようだ)ことを誇りとしてただ生きると。
これは余りにもざっくりとした説明で、杉田俊介に関する大切なものがポロポロとこぼれているのだが。

私は、この考えのおかげで、バックラッシュに、反LGBTQ、アンチフェミニスト、ヘイトスピーチを垂れ流す人間、にならないでいられる、と思っている。

私が辛いのだ。モテたい、つまり自己の受け入れを女性に求める自分が馬鹿らしくて辛い。男らしく、合理的に物事を考え、仕事をするのが難しく感じるのが嫌だ。性欲があるのが嫌だ。女性、男性問わず話しかけられないのが辛い。何歳なんだからこうしなければ、と思う自分と出来ない自分のギャップが辛い。顔が悪いのが嫌だ。矯正が必要なほど歯並びが悪いのが嫌だ。脚が短いのが嫌だ。人と話せなくて、質問も浮かばないのが嫌だ。要領が悪いのが嫌だ。顔が怖いのが嫌だ。

自らの「嫌さ」を、果たしてこれは男であるが故の弱さなのか、自分のせいなのか分からないが、とにかく嫌なのだということを、嫌に向かわせた社会に小さく言う。ガス抜きなんだろうか。分からない。でも、男じゃなければ、日本じゃなければ、悩みの種類はまた違ったのかもしれない。かもしれない。

自らの「嫌さ」を「嫌さ」として抱えながら、じっと諦め、嘆き、しかし他者にも自分にも攻撃することなく、ただ生きる。限界になれば、どこか、社会に伝われと何かを発する。ただ生きることが素晴らしいと思わず生きる。なんて禁欲的な。しかし、まぁ、どこか、それもアリかとも思えなくもない。しかし、うん、本当にそうか?分からない。うーん。
こうしているうちに人生は終わる。下らない人生だった。そうして生きることを肯定する本があるのなら、それも上から目線でなく(本当に上からでないのか、彼はそもそも大学院卒のインテリで、インセルと言いつつ妻子がいて、そもそも文筆家、名声のある職業人だぞ)、同じ目線にいるなら、まぁ良いのかもしれない。

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