「ただより高いものは無い」の文化人類学的な意味―使用価値が高すぎるものは交換価値をもたない
超絶面白いねたを見付けたのでメモっときます。いまサーリンズの『石器時代の経済学』[原著初版は1974年]を読んでおり、それにかぶれてます。マイブームがしばらく続きそうです。
前置き
日本語の諺で、「ただより高いものはない」というのがある。まずは通常の意味を確認しておく。
少しでも文化人類学をかじったことがある人なら、真っ先に「互酬(reciprocity)」を思い付くであろう。小難しい言い方だけれども、要は「贈り物をもらったらお返しをする」ということだ。「互いに酬(むく)いる」ということである。
贈与を受けた相手は「返礼しなければ」という負い目を感じる。この負い目はしかるべき返礼を済ませるまで解かれない。ただで何かを得ることは、この負い目を解消することができないわけだから、上述のデジタル大辞泉(コトバンク)のような事態になるわけだ。
余談だが、毎日新聞にこの諺と互酬を結び付けた記事があった。
ちなみにモースは有名な『贈与論』[1925]のなかで、この「負い目」を呪力や霊と呼んだ。上の記事もおそらく贈与論を念頭に置いて書かれたのであろう。しかしサーリンズは『石器時代の経済学』[1974]のなかで、「未開人が、贈り物に呪力や霊が宿ると考えていると解釈するのは、行き過ぎではないか」という趣旨のことを述べている。控えめに「負い目」と考えておけば穏当であろう。
前置きが長くなったが、この諺にはさらに面白い意味がある(と理屈を付けることもできる)。
ほんとに言いたいこと―使用価値が高すぎるものは交換価値をもたない
未開の諸部族を観察すると、どうやら使用価値が高すぎるものは交換価値をもたない、ということである。
「使用価値」とは、要するに使いみちである。水は飲むため、肉や野菜は食べるため、宝石は身を飾るために使われる。ある財の使用価値は、その財に特有な価値であり、他の財の使用価値と比較することはできない。肉は水の代わりにはならないし、水は宝石の代わりにならない。同じ値段の醤油と生クリームがあるとして、同じ価値だからといってスコーンに醤油をかける人はかなり変わっている。これが、他の財の使用価値と比較することはできないということである。
「交換価値」とは、ものすごく簡単に言えば「値段」で表現される価値である。もう少し正確に言えば、ある財を他の財と交換する際の価値である(値段は、交換価値を表わす尺度の一つに過ぎない)。たとえば小さな子供がお父さんに上げる、全然似ていない似顔絵やらは、若い父親にとってはとても嬉しいものである(たぶん)。しかし赤の他人にとっては、たいてい何の価値もない。
さて、サーリンズの『石器時代の経済学』から2つの例を挙げておく。「食物が重大な関心事であるところ」(p265)、つまり食料が十分には無いところでは、食物は貨幣や他の財とは交換されない。
同書に、この事態を端的に解説している箇所があるので、少し長いが貼っておく。
食物が潤沢に手に入らないところでは、食物が損得勘定の商取引の対象になってしまうと、個人と共同体全体の生死に係わる。まずこの生理的な理由によって、食物と他の財の交換は禁止されているほうが、共同体の存続にとっておそらく有利である。
さらに、食物が他の財と交換できるとなると、食物と他の財の価値を比較することが可能になる。これは、食物の贈与によって生まれる、人々の間の絆を薄めてしまう。「お隣さんから肉を××グラムもらったから、あとで××円くらいのものを返せばちゃらだな」などと考える事が可能になるからである。
例証としての英語の諺
「ただより高い物はない」を英語では次のように言うらしい。
「lunch」が引き合いに出されているところに、古代英語圏にもポモ族やトゥニトゥニ族のような習慣があったのだろうか、と想像をたくましくしたくなる。
使用価値が高すぎるものは交換価値をもたない――しばらく意味をかみしめたい言葉だと思いました。
この記事が面白い、役に立った、と思った方はサポートをお願いします。