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郊外の鳥たち(監督:チウ・ション/2018年)

中国の地方都市。地盤沈下のため地質調査に訪れた青年は、廃校となった教室に残された日記を手にする。そこでは同じ名前の少年が生き生きと街で暮らしていた。それはかつての青年なのか、それとも単なる偶然なのか、映画はその問いに答えようともしないまま進んでいく。

数年の時を隔てているとはいえ、大まかには二つの物語が語られているだけのはずなのに、そもそも二つの物語は一つのものであったのか判然としないのはなぜだろう。睡眠中に見る夢のような、と言っても良い。夢というものは、起きてから思い出そうとしてもそもそも辻褄が合っていないので語ることはできず、しかしそれを見ていたことだけは憶えていて、夢のなかではたしかにその物語を生きていた余韻だけが残っているものである。

その物語の不確かさは、あの画面とカメラワークによるためかもしれない。

昨今の映画館はスクリーン・カーテンがないので、そうと知らずに見はじめた私には、スタンダード・サイズ(4:3)の画面は横長のスクリーンの中央にのぞき穴が現れように思われた。実際、測量器のスコープごしの風景は否応なく中心を見ることを強いるために、一瞬映画館の広々としたスクリーンに相対していることを忘れてしまい、片眼でのぞき込んでいるように力が入ってしまう。

実際、この映画において、スコープや双眼鏡_筒状の両端にレンズをはめ込んだ道具_は繰り返し現れ、のぞいた先から世界を見ることがルールとされているかのようである。広大な場所が舞台のはずなのに、彼らが/私たちが見ている先はとても限られた視界で、どこか現実味を欠いているくらい距離がある。時には過去や未来ほど遠いところまで見えてしまう。その上、カットを割るのではなく、狭い視界のまま対象を追っていったり、ズームアップを多用するカメラワークによって(ズームアップと言えば今日必ず思い出されるホン・サンス監督のそれより荒々しい)、観客は画面の隅々を落ち着いて見る間を与えられないまま、まるで気の向くままに動く子どもの視点につき合うように目の前の光景を受け入れるしかない。

加えて、そのカメラは周囲の音を聞いていないのではないかと思われた。音に反応して動いているのではなく、あくまで動きに追従してカメラを向けているのではないかと(後で読んだパンフレットのインタビューによると、実際カメラマンは役者の声を聞こえない状態で撮影させられたらしい)。だからカメラが被写体を中心に据えたとき、被写体が測量のロッド(標尺)を持って立ちつくす人間でもない限りは、すでに被写体は動き出した少し後になる。文字通りはしゃぎまわる子どもを追う親のように、目を離すことができないものの、その無邪気さに翻弄される視線。

ちなみに、映画全体はそもそも無邪気な空気を漂わせているわけではない。無軌道に開発され本来確かなはずの地盤が緩んだ街では、大人たちの陽気さはカラ元気に過ぎず、一人また一人と消えている子どもたちの人生にはそれぞれ影が差している。そこに重なる音響的な映画音楽は、むしろ不穏さを醸し出すために働いているようでもある。

映画を見て数日を経ても、ほとんどの場面を思い出せるほど印象深いのにストーリーを語ることができない。これは睡眠中の夢を忠実に再現しようとした映画なのだろうか。それとも、本来映画というものは、バラバラの場面と音がつなぎ合わされ、あたかも連続しているかのように見せかけたものであるという真実を告げているのだろうか。映画館のなかでたしかにその物語を生きていた余韻だけが残っている。


(公式サイト)
https://www.reallylikefilms.com/kogai


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