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人間はおもしろい

状況は非常に良い状態である。
何事においても策を練るからこそ、様々な対応ができるのだ。
今日はそんな話を一つ。

唐突だが最近、非常におもしろいゲームを思い付いた。

『フルスイングで無視』

予め説明しておくと、急にイジメっこになって無差別にイジメでやっている嫌味な奴になる訳では無いのでご理解頂けると幸いかと。
フルスイングで無視をする対象は、自分の事を下に見て馬鹿にして来る人や、自分に対して攻撃を仕掛けて来る人が対象である。
簡単に言えば、攻撃してくる人を相手にしないとか気にしない以上にイジメをしている人のような露骨な無視をするのだ。

例えば、陰口を叩く人とか露骨に自分に対して無視をしたり、何かしら嫌がらせをしてくる人が居るとする。
陰口を同じように叩くと同じレベルになるから、とにかく露骨に嫌な顔をして無視をするのだ。
とにかく挨拶もしないし露骨に避ける。
イジメをする人は大概他人の気持ちが分からないから、逆にやってやるのだ。
攻撃をされるよりも一番しんどいのは恐らく無視されて放置される事である。

※ただ、会社や学校の、同調圧力的な数でマウント取られると四面楚歌になっているので、その際は尻尾巻いて逃げましょう。

その場に居座るメリットは無いので、安全な場所にとにかく逃げて下さい。
あくまでも現状では対一人みたいなシチュエーションが多いので、自分のハートが続く限り意識をし続けるようにしている。
あらゆる攻撃を無視する我慢比べみたいなところである。
※勿論、最後に本当にキレたらぶん殴る気持ちである。

無視されているだけありがたいと思って頂きたいものだ。

まず、一つの仮説を立てた。
基本的に他人に対してイジメ行為をする人は、他人に依存している人が傾向として多い気がするのだ。
実はめちゃくちゃ構って欲しい構ってちゃんなのだ。
構って欲しいから、どんな形でも構われていると非常に嬉しいのだ。
その表現方法を誤るから攻撃的になっているに過ぎないと思っている。
つまり誤った方法で人から認めてもらいたいのだ。
他人を攻撃する事により、自分の方が優れた人間だと自分自身で認めたいし、他人からも賛同を得たいのだ。
だからこそ、自分が行っている事は正しいと、正当化をしたいのだ。
劣等感が非常に強すぎるが故の構ってちゃんに過ぎないのだ。
褒められたくて仕方が無くて自分より格下だと決めた人間を攻撃して、優劣を付けて賛同されたいだけなのだ。

とくにイジメの主導者的な人は劣等感の塊でしかないのだろう。
プライドやメンツを大切にして、それ以外には何も無い空っぽな存在でもあるのだ。
非常に生きづらそうな気がするが、それは本人が選んだ道なので致し方ない。
しかし、いつまでも腹が減って、枯渇した状態が続くからこっちが喰らったとしたらたまったもんじゃない。

全ては自信の無さから来ていて、他責であって自責の念は一ミリも無い。
逆に自信があれば、他人に対して時間を使うだろうか。
他人の弱点を探して粗探しと揚げ足取りをするだろうか。
他人を否定して自分がすごいと自分では決して言わない。
自分の評価を自分でする事程、滑稽なものは無い。

しかも、面倒事は他人に任せると言うよりも、投げて押し付ける。
そして、安全な場所から文句を言い、何かよく分からないものにすがり付いているのである。
とくに40歳を超えてからそんな事してる人が居れば、もはや愚の骨頂である。
人と比べてしまうのは仕方が無い。
他人からの評価や、他人と共存しなければ人間は生きる事は基本的にはできないからだ。
人からどう思われているかを気にするからこそ、洋服に気を使ったりメイクをしたり、SNSで一口で食い終わりそうなケーキとかパスタの写真を載せるのだ。
評価されたいと思う自己承認欲求があるのは当然だし、仕方が無いのだ。

『認知されたいのだ。』
好きでも嫌いでもどちらでも良くて、人間は認知されたい生き物なのだ。
これは何千時間にも及ぶ緻密なデータ蓄積により導き出した答えであり、この仮説が正しいと信じて実行中である。
長きに渡るデータ蓄積はまさに戦いであったし、メンタル崩壊寸前まで行った。

・QRコードでSNS発信
・能面を付ける
・アラビア語でSNS発信
・ブロック解除やミュートを掛ける
・鍵アカウントにする

他にも色々な事を実践した気がするし、様々な対策を行って来たが、どうしても巻き込み事故も多くてそれ以上に対処できない事も多かった。
ただ、せめて自分の好きな友人達には迷惑を掛けたくないと思って、そこだけは慎重に慎重にやって来たつもりだ。
人間関係の精査に精査を重ねて、人生で一番戦って来た。
誰に対するとかでは無く、自分に対してもだ。
自分の一番の味方は自分だし、一番の敵は自分でもあるのだ。

そんな紆余曲折を乗り越えて逆に『人の心理』について、非常に興味が出てしまった。
なぜ、他人を攻撃したり、最悪は殺めたりするのだろう。
個と個で争い合い、優劣を付けたがるのだろう。
ハラスメントが起きたり、気を病んで命を自分で絶つ人が増えて行くのだろう。
その反対に、サイコパスやソシオパスのように他人の事を考えない人も多いのだ。
自分さえ良ければ良い奴なんて鬼程沢山居る訳だ。

綺麗事言ってる奴程、心の中は邪悪で本当に信用なんてできやしない。
様々な疑問が浮かぶし、自問自答も多くした。
何が正解で何が答えなんて無いだろうし、様々な対策をしようともメンタルは崩れる一方である。
そんなある日、心がスッと落ち着いた瞬間があったのだ。

腑に落ちたと言うよりも、自分の中のロジックを発見したのだ。
それが、フル無視だ。
案外シンプルなところに答えが転がっていて正直とても拍子抜けした。
事の発端を話したいところだが、人間関係の悪化なんていつなん時、何をきっかけとして起きてもおかしくはない。
マイナス・ネガティブと、言うのは元々人間はとても引っ張られやすいものである。
だからこそ、引っ張られないようにするには元々何も無かった状態にリセットをするのが大事だと感じた。
これについては何度か話をしている事だが、『すれ違う人間と同じ状態』になる事は非常に重要である。

ただ、このゲームをやるにあたって様々な準備が必要である。
下地を作るからこそ勝つ要素が沢山生まれるのであって、ただ相手にしないだけでは攻撃にはならないし、攻撃の手が強まる恐れがあるのだ。
まず相手の弱点をフルで掴んでおく事である。

勿論、直接フィジカル面・メンタル面で攻撃をしてくる相手に関しては非常に危険なので、逃げる事が大事である。
元々動物とは危険を察知したら逃げるものである。
逃げないと、植え付けられているのは人間のみである。

なぜ、このシンプルなロジックに気づいて、ゲームとして行っているかと言えば簡単だ。
自分がサブカルヲタクなあんちくしょうなだけである。
ヲタクを舐めるなよ。
突き詰める力だけはその辺の奴よりはしつこい位にある。
どんな人間かを分析する能力がある。
物事を解決するときは、分析に分析を重ねてデータを取る必要があるのだ。

性格がひねくれて歪んでしつこいだけである_(┐「ε:)_
恐らくこねくり回されて幼い頃の原型は留めては無いだろう。

そんなものは分かっているんだが、角が立たないように相手にアピールをするにはこれしか方法が無いのだ。
一応大人だからはんなりモラル位は持っている訳で、気遣い位はする。
最大限の気遣いが無視。
2022年〜2023年は人生でブチギレシーンが一番多かったので、それを通り越して今こうなっているだけである。
良い人生勉強ができてこうして文章に起こす事もできて光栄である。
今後に繋がるし、幾分か人付き合いも楽になって、大切な仲間が沢山増えたし味方してくれてて嬉しいもんだ。

元々、仏教と兵法を基軸に生きているので、戦わない事が大前提なのだ。
その上で、この二つのメリットは防御力は最高に素晴らしいのだ。
しかし、デメリットとして攻撃力が弱い。
自衛の為の攻撃としても、何か武器が不足した状態に陥ってしまっている気がするのだ。

攻撃されて防御だけだと、腹立つこっちの気持ちが消化不良も良い所である。
かと言って、同じような事をしてもそれはそれで人としてみっともない訳である。
その場がスッキリするだけである。
目には目をじゃないが、本当の意味で相手にしないで気にしないでこの世に居ないものとして見る事が最大限の防御であり攻撃だと思うのだ。
当人の事を考える事すらも止め、全ての情報を遮断し、自分から相手には見せないようにして、どれだけ探ろうとも出ないようにするのだ。
全てをブロックするのだ。
そして、同じ環境で出会う場合は完璧に露骨に無視をして、本当に居ない人として視界に居れないようにする事が大切である。

孤独とは、絶望であり、『個』でしか考えられない人間の行く末は必ず孤立してしまうのだ。
だからこそ、『全』として捉えてその一部に過ぎないと考える事が必要なのだ。
自分の願望を叶えたりのであれば、他人を気にする必要は無い。
自分を棚に上げて他人を卑下してもそこに1ミリも生産性は無い。

自分の生活がつまらないで退屈だと、つい他人と比較して気に入らない事があれば攻撃する人は多いのだ。
とくに現代はSNSで可視化された世界線に住んで居るからこそ、悪目立ちしてしまうのだ。

能書きを垂れて来たが、これは仕事中の12時間以上、毎日欠かさずに怪談話や人怖や洒落怖を擦りに擦って思い付いたのだ。
前途したように、人は忘れ去られるのが中々ヘビーな恐怖なのだ。
色々なYouTubeを漁ってて思うのが、怖い話のジャンルでも、幾つか共通点があるのだ。
幽霊は人間の身体が無い、器の無い中身の状態で、この世に彷徨っているのは浮遊霊と言われている。
浮遊霊は霊感がある人には見えても、その大半の人は気づく事すら無い。

これは非常に幽霊本人からしたらしんどいかもしれない。
世の中全てが振動していて、その振動が共鳴しあって自分に合う振動のものが引き寄せられて来ると言われている。
この振動が合わない人こそが、生きている人間で言えば一生会う事の無い人の事だ。
恐らくそれは亡くなってからも一緒の状態なのだろう。
幽霊同士でも、その波動が違うのであれば、見える事は無いのだ。
人が死んだら幽霊がいきなり見えるようになるかと言えば、そうではないのだろう。

死んだことが無いし、霊感がある訳じゃないから自分が明確には分からないが、器が無くなって解放されただけであって、つまりは生きている間とあまり差は無くて、心自体に変化がある事は無いのかもしれない。
人は生きて経験をした物差しでしか測る事ができないのだから、簡単に考えたら亡くなってからも一緒の状態だと思えるのだ。

だからこそ、霊感が無いのであれば亡くなってからも見えないままだろう。
住む次元が違うとはまさにこの事なのだ。
生きてようが死んでようが、恐らく変わらないだろう。

たまたま波動が同じレベルになった時、見えてしまうのが亡き者の霊体なのかもしれない。
霊感とは霊体を感じる力だとすれば、そもそも全員が搭載されているものであって、見る為の守備範囲が狭ければ見える事は無い。
守備範囲が広い人こそが所謂一般的な霊感持ちだと思う。

それによれば、陰気臭い暗いところよりも、人ゴミの雑踏の中の方が比較的幽霊は多いと聞く。
やはり、気づいて欲しいのだ。
亡くなった人も気づいて欲しいし、話を聞いて欲しいし、構って欲しいのだ。
それをしっかりと今の自分を受け入れる時間が四十九日あるのだろう。
多分自分で気づいて、受け入れる迄は永遠とも言える時間の無い孤独の世界で彷徨い続けるのだろう。
背後霊として人に憑いても気づかれる事も無いし、乗っ取ろうとしても恐らく本人が拒絶反応を起こして精神異常になって終わり込むのでは無いかと。

この世に未練のある幽霊の状況を人工的に作れるとしたら、結果としてどうなるだろう。
自分の中である日、こうした気持ちが生まれた。
無に帰す事を敢えてされたら、どんな気持ちになるだろう。
勿論自分から誰かに対してやったりはせずに、あくまでも自衛である。

認知されていた場所から一切の存在価値が無くなるとは、中々酷だと思うのだ。
気にしないのであれば、それでも良いんだが、少なくとも攻撃が自分に食らう事は比較的少ない気がする。

要するに戦わずして勝つ方法を見つけ出す事が重要なのだ。
兵法とは敵を知り、その上で戦う必要がなければ不戦勝で良いのだ。
これほど楽な勝利は無い。

因みに仏教上の「無視」とは、自分の中ではこの解釈である。

つまり、何が起きようともどうでも良いし、興味が無い状態に持って行く事が大事なのだ。
実はこれは難しく、厄介でもある。
怨恨・嫉妬は付きものだからだし、攻撃をされたら反撃を考えたり、相手の失敗を笑うに決まっている。
ただ、一連の伝えて来た事は別に自分の勝利宣言がしたい訳では無いのだ。

本当に自分がやりたい事や、自分の理想の環境を作りたければ、自分で行動をして作るしかないのだ。
それには勿論周りの人間の支えや助けが必要だ。
その位置に自分が行くには、同時進行で精査を繰り返しながら自分がやりたい事をやらなければならないのだ。
そんな事をしていれば、自然と自分の時間しか作る事ができなくなるだろう。
他人の弱点を見つけようと粗探しをして揚げ足取って批判してる時間なんてたった一度の人生で無いのだ。

ハッキリ言って時間の無駄なのだ。
そんな事ばかりしている人間と一緒に居るのも時間の無駄だし、正直すごい疲れる。
考え方が手前過ぎて浅はかなのか、自分を見失い過ぎて居る。
所詮は嫌いな人や苦手な人なので、その後どうなろうが知ったこっちゃ無いが、決まって誰も助けてもくれない自滅の道を辿っているのがおもしろい。
自分の事しか考えて無い人が多いのだから、そうなるのは当然である。

最近、本当に人間っておもしれーなって思う。
分析をすればするほど面白い。
あまりにも面白過ぎて最近は猟奇殺人を行った犯人の背景を調べたり等、多角的に人間とはなんぞやと調べている。
他人の気持ちに立てずに、他人を傷つける人はどんな気持ちなのだろうと、心から興味がそそられてしまうのだ。
ストーカーでもなんでもだが、なぜか自分の事だけを考える傾向にある。

事を起こそうとする人間はほとんどが自分の都合しか考えて居ないのだ。
とにかく構ってちゃんが多いのだ。
人によっては欲しいモノをくれるまで求めて来る奴もいる。
ここまで来ると手に負えない。
そして決まって構ってほしいから事を荒げるのだ。
ゴシップだったりなんだったりと、とにかく理由はなんでも良いから波風を立てるのだ。
病的な嘘吐きで自意識過剰だが、慢心して見失っているに過ぎないのだ。

そうなった時に巻き込まれても困るから、早めに対処する必要である。
今やっているゲームは恐らく正解を導き出せる気がするのだ。

波風を立てて来る人間に対しては、波をスルーするか、同じだけの波風を立てて波を打ち消すしかない。


もうこの2種類の方法のどちらかを使用するしかないのだ。

さて、以前の記事でも取り上げた、自分がなりたくない人間ランキング堂々1位に輝いている『北九州一家監禁殺人事件』の主犯の松永大死刑囚の供述書の一部を最後にお届けしよう。
自分が無視している人間はこのパターンの人間である。


私はこれまでに起こったことは全て他人のせいにしてきました。
私自身は手を下さないのです。
なぜなら、決断をすると責任を取らされます。
仮に計画がうまくいっても、成功というのは長続きするものではありません。
私の人生のポリシーに、『自分が責任を取らされる』というのはないのです。
私は提案と助言だけをして、うまみを食い尽くしてきました。
責任を問われる時代になっても私は決断をしていないので責任を取らされないですし、もし取らされそうになったらトンズラすれば良いのです。
常に展開に応じて起承転結を考えていました。
『人を使うことで責任をとらなくて良い』ので、一石二鳥なんです。

バッキバキに胸糞の悪さがフルスロットルである。
世の中にはサイコパスのような人間は多く存在している。
こうした本質的な性根の悪さは、情勢が悪くなればウジのように沸いて出て来るのだ。
そして、抵抗も反抗もできないような『良い人・優しい人』が犠牲となるのだ。

自分はそうはなりたくないし、他人に無駄な時間を取られる事が心の底から嫌なので、無視をする。
これからもやりたい事をやり続けて、自由意思を確保する為に、無秩序の自由とは戦い続けなくてはならない。
そして、一緒に楽しんでくれる人達と一緒に遊び笑いあって生きて行くのだ。
何事もうまく対処して、楽しむしかない。
ライフイズビューティフル。
そしてシンプルイズベストで良いし、複雑化させる必要は無い。

やっぱり人間って面白!!by デューク

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