Flat Jurnal 2【20年前に通った塾の意味】
小学4年生の時、公文式を辞めた。便秘の奥にあったゆるゆるの内容物がスカッと排出されたときのように開放的だった。
それからしばらくすると、進学塾に通うことになった。
カラッポの胃袋はいつの日も短命だ。
胃腸薬を飲んだ状態で、コンビニのフライヤー商品をガツガツ食い締めた後の胃袋みたいに、うんともすんとも。なんだかずんとした気持ちになった。
自分を守るために辞めたのに。次なる砲弾が飛んでくるとは。同時に、親に反発できなかった自分もいた。
そもそも当時は、進学校・国公立・正社員の3バカ路線が親のためになると、本気で思っていたのだから仕方がない。
愛のこもったプラレールは、いずれ脆くも崩れ去ることになるのだが。
ともかく、あのピリピリとした空気がセロリだった。
熱血教師みたいな塾講師に、空き教室で叱られた時など、英会話スクールで中国語を習わされているのかと思ったくらいだ。
そんな塾にも通い慣れた、中学2年のある日のことだった。
休み時間に友達と筆箱の取り合いをしていた。
「ほれ、こっち!!」
「返せ―!!」
鉄骨の建物の2階は、ねずみ色のタイルカーペットが敷き詰めてあるものの、足音はガンガンと響く。
やがて友達2人と隣の教室を行ったり来たりして走り回るうちに、授業の時間になった。
一転、静まり返る教室。左前方にある、講師控室のドアが開く。
先生が出てきた。
先生は身長170㎝後半くらいに見えた。紺色のスラックスに、薄茶のワイシャツ。
髪は短めで少しだけ茶色い。ゆるくカールしているくせ毛が、広い額を少し隠している。目は大きく聡明な印象だが、口ひげと彫りの深さから、欧米人のような顔立ちにも見えた。
体型はスリムで、スラックスはダボついて見える。先生が歩くといつも、タバコの臭いがしていた。
大人になって思い返すと、あれはアメリカンスピリットか、ラッキーストライクだ。いずれにしても濃い。
鼻の穴に煙の塊をグッと押し込まれるような感じだ。
先生はひょうきんという言葉が似合う人だった。小学生の頃の授業では、コメディアンみたいに見えた。
その先生が、ドアを閉めるなり口を開いた。
「おい」
明らかに声色が違う。テキストを出して下さいとは、とても言いそうにない。
「今走り回ってたやつ。手挙げろ」
友人を含め、3人が恐る恐る手を挙げた。
「来い」
喫煙組の講師が使っている、煙臭い控室に呼ばれ、ドアが閉められた。
斜めになっている壁沿いに立たされるやいなや、ビンタが飛んできた。
一番前の友達から順に、金八先生かと思うほどに。
先生がこちらに移動してくるのが見えた。
同時に、そのパーの右手がピシャン!!と左頬をハジいた。
「塾は遊ぶところじゃねえんじゃ!!」
叩き終えた先生は正論を吐き捨てた。分かっちゃいるが叩くことはなかろうと思う。
「戻れ」
仕方なく、ジンジンする左頬と、こっそり涙目を下げて教室の自分の席に戻ると、何事もなかったかのように数学の授業が開始された。
それから1年も経たずにその塾も辞めた。
受験生になってから辞めた。別に叩かれたから辞めたわけではない。
そのピリピリとした空気は、やはりセロリだったのだ。
胃袋の巾着がキュッと閉まったまま、送迎バスを待つ子ども心を、今なら親心でくるんでやれる気がする。
しかし残念ながら、高校受験に失敗するには遅すぎたのだ。叩き込まれた基礎学力が私を回し合格で第一志望校へ押し込んでしまった。
右肩下がりに学力は落ちていった。
中学生になる前はスカイツリーのてっぺん。
高校に入るときには、東京タワーの真ん中。
高校を出るときには、小高い丘の中腹。
右肩下がりに下降を続けた学力グラフは、国公立大学の夜学の上スレスレで、低空飛行を続けた。
留年し、下がっていく高度。2度留年し、さらに下がる高度。
6年目、私は一人の女性と出会った。
現在の妻である。
積み込まれたエンジンは、スバル車の水平型のそれのように強靭で頑丈だった。
重低音の唸り声を上げながら、それでもたくさんの荷物を抱えて。
20年の時を経た今、一姫二太郎の父となった。
そして今、子どもたちにとって、何がベストなのかが分からないでいる。
いつか、分かる日が来るのだろうと予測しながら。
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