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ヤマザキマリ『壁とともに生きる: わたしと「安部公房」』 /ヤマザキマリ『安部公房『砂の女』』

☆mediopos2754  2022.6.2

ヤマザキマリは十代の後半
イタリアで安部公房の文学に出会い
大きな影響を受けたという

ぼくが安部公房の作品を
ずいぶん読んだのも十代の後半
悩める自我を抱えた高校の頃だった

最後期の長編小説である『密会』(1977年)や
『方舟さくら丸』(1984年)の刊行された頃で
同時代に居合わせることができたが

ヤマザキマリはぼくよりも
一〇歳くらい年下にあたるので
安部公房の亡くなった頃に
それらの作品に出会ったことになる

安部公房には芥川賞受賞作の『壁』という作品があるが
ヤマザキマリによれば
「「壁」は、安部公房の一貫したテーマであり、
安部文学とはすなわち「壁文学」」だという

壁といえばベルリンの壁のように
自由を拒むように遮るものだというイメージがあるが
壁は「大きな危険と脅威がともなうものから、
自分をプロテクトしてくれる性質」ももっている

壁の外には「欠乏した自由」があるが
壁の中は「充足した独房」ともなるのだ
そこに自由のリスクをとるか
囚われながらの安心をとるかのジレンマが生まれる
管理社会はもちろん壁の中の世界を提供するものだ

『密会』で描かれた病院は
「盗聴による監視システムが張りめぐらされた、
ディストピア的な一つの管理社会」だが
その組織はカネッティのいう「群集」という力の
メタファーとして読みとることもできる
そして安部公房の語っているように
「民主主義的な社会と、独裁社会は
かならずしも別のものじゃない」

『砂の女』の主人公は
砂の壁によって自由を拘束されるが
やがてそこから逃げ出すことができるときになっても
あえてそこから出ていかないことを選ぶ

自由は両義的である
壁の外に自由を求めることもできれば
壁の中に自由を求めることもできる

安心安全ばかりを求める世界は
壁の中の自由を求める世界
あえて壁の外に自由を求めようとすれば
そこにはさまざまなリスクと不条理が待ち構えている

どちらが希望でどちらが絶望か
安部公房は「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるにひとしい」
という魯迅の言葉を好んだという

さてわたしたちは「壁」に直面して
どのように生きようとするだろう
いずれにしても不条理は避けられない

■ヤマザキマリ『壁とともに生きる: わたしと「安部公房」』
 (NHK出版新書 675 NHK出版 2022/5)
■ヤマザキマリ『安部公房『砂の女』』
 (2022年6月 NHKテキスト NHK出版. 2022/5)

(ヤマザキマリ『壁とともに生きる』〜「プロローグ 壁とともに生きる」より)

「安部公房は私の最も敬愛する作家である。
(…)
 十代の後半、私は留学先のイタリアで安部公房の作品に出会って以来、小説から評論・エッセイ、戯曲にいたる彼の文学を、私は貪るように読んで傾倒してきた。もしあの頃、安部公房の文学に出会っていなかったら、私は今とは違う考え方や生き方をしていたかもしれない。」

「安部公房文学は、ぼんやりしながら読める内容の作品ではないかもしれない。かといって、たとえばドストエフスキーみたいに、道徳的・宗教的に、重量級のインパクトをもって読者に迫るというのとも違って、そういった概念を飄々と、不思議なユーモアと客観的で俯瞰的な眼で綴っている。私たち読者はそんな安部公房のテクニックに操られ、いつの間にか人間という複雑怪奇な有様を観察させられるのである。安部公房の作品は、フィクションという体裁をとった、人間社会の生態観察だと私は考えている。」

「コロナ禍は今の我々にとって、明らかに目に見えない「壁」だ。「壁」は、安部公房の一貫したテーマであり、安部文学とはすなわち「壁文学」である、と言ってしまってもいいくらいだ。

 「壁」は、生きることに対する意義や意味、希望や理想、そして幸福になりたいという願望を抱き、人生を正当化しようとする意識から生まれてくる、精神性を備えた人間という生物らしい概念だ。他の生物、たとえば昆虫には乗り越えるべき壁などという考え方はもともとない。(…)

 『砂の女』の男は、そそり立つ砂の壁によって完全に自由を拘束され、ある意味刑務所よりもずっと過酷と言える、まったく思い通りにいかない状況に置かれてしまう。けれども実はそれこそが、人間の生きている社会そのものの実態なのだと、安部公房は定義しているのではないだろうか。」

「作家の石川淳は、安部公房の初期作品である『壁』(一九五一年)に寄せた有名な序文で、こう書いている。

 「このとき、安部公房君が椅子から立ちあがって、チョークをとって、壁に画をかいたのです」

(…)

 「安部くんの手にしたがって、壁に世界がひらかれる。(略)ここから人間の生活がはじまるのだということを、諸君は承認させられる。諸君がつれ出されて行くさきは、諸君みずからの生活の可能です」」

「壁は自由を拒むものとは限らない。自由という一見素晴らしいもののように思えて、実は大きな危険と脅威がともなうものから、自分をプロテクトしてくれる性質もある。壁の中で守られていれば、人間は生命を保証されるし、余計なエネルギーを使わなくても済む。要するに、壁に守られていれば怠惰も許されるということだ。壁の外へ出てゆけば、そこには「欠乏した自由」があるが、壁の中にいれば、そこには「充足した独房」となる。」

「疫病や不穏な世界情勢に対して漠然とした不安に覆われ、価値観の甚大な変化に否応なく曝されている今、私たちは急に仕切りの壁を作られて、ひとりずつ透明な壁に囲まれているような状況に陥っている。いつもなら見たくもないものは見ないでやり過ごせていたのに、今はもうそんな状況など許されなくなってきている。安部公房はかつて自らが得た過去の多様な不条理かつ理不尽な経験と、そこから芽生える深い人間洞察によって、こんな時代に生きる私たちは素晴らしい書籍をいくつも残してくれた。彼が自らの作品の中に描いてきた様々な壁画を正面からじっくり見つめるのに、今ほど相応しい時代はないだろうと私は思う。」

(ヤマザキマリ『壁とともに生きる』〜「第一章 「自由」の壁——『砂の女』」より)

「自分が自由な人間であることを認められるということは、同時に社会から絡めとられることでもある。承認とはけっきょくそういうものだ。自分が表現したことが認められることによって、それが自分自身を縛ることにもなる。自由の獲得とは、何にもすがれず、頼ることもできない、心許ない生きづらさを痛感することを意味している。人間のアイデンティティとは、どこまで行っても不条理なのだ。

(…)

 壁の外に自由を求めるのか、それとも壁の中の自由なのか。そもそもなぜ人間は己の特異性にこわだり、解放と自由を欲するのか、『砂の女』には、そんな問いを一貫して問い続けた安部公房文学の神髄が、きわめて鮮明な形で、シンプルに浮かび上がっているといえるだろう。」

(ヤマザキマリ『壁とともに生きる』〜「第二章 「世間」の壁——『壁』」より)

「壁というものを予定調和的な、人間が全体に同化し一切の個人的な思想を持つことのできない、物理的な人間の扱いのこととして捉えてみる。すると同時に、社会的な圧力を壁という物質に照らし出しているようにも感じられるのである。

 人間が壁そのもになること、あるいは『デンドロカカリヤ』のように植物になることは、そのような物理的現象と化すことによって、生きる葛藤から逃れられる、ということでもある。それは自分のアイデンティティを消し、同時に自由を放棄することにもなる。

 社会はいつも人民に対して、壁の中にいることを求める。「みんながバラバラでいるよりも、壁の中にいてくれたほうが守れるから」という名目はそういう体制を、よき配慮として民衆に提示する。私たち人間は当然危険な冒険をするより安全な壁の中にいたいと願うから、社会制度に従属して生きていこうと思うわけだ。会社に就職するのも、結婚するのも、社会から何らかの生活の保障を得ることも、壁というしがらみの中で生きて行く、という意味にもなるだろう。

 反対にフリーランスで生きるとか、私みたいに漫画家という水商売だったら、明日の生活がどうなるかなんて全くわからない。壁はないかのように見えて、実はそこには生きるか死ぬかの壁がある。つまるところ、生きることの不条理さこそが壁なのである。だからやはり壁は安部公房にとって、実存の定義すべてを表しているのだ。壁と人間はいつだってセットなのである。」


(ヤマザキマリ『壁とともに生きる』〜「第三章 「革命」の壁——『飢餓同盟』」より)

「壁を乗り越えようとすること、そして壁の向こう側に行けば、今の苦しい状況から解放されるんじゃないかと思うのは、普遍的なことだろう。

(…)

 それでももっと自由な、もっと自分が生きていることを尊重してくれる社会はこの世界にあるんじゃないか。そんな理想や希望が、また別の壁を作ってしまう。この小説に描かたような「革命」の壁も同じだ。」

(ヤマザキマリ『壁とともに生きる』〜「第四」章 「生存」の壁——『けものたちは故郷をめざす』」より)

「人間は生きていれば、必ずどこかで自由を欲する。ヒトという生き物が群棲であるにもかかわらず、「ことば」という開かれたプログラムによって、自分という個人を尊重して生きていきたいと思う瞬間が誰にもくるだおる。ただ、個人という意識を保持し続けていくには、久三が体験してきたような荒波に揉まれる覚悟も、どこかでしなければならない。人間が強靱な生物だから、不条理や理不尽な展開と向き合っても、なんとかそれを乗り越えていく。安部公房文学全体に通底しているのは、まさにこの人間という生物のしたたかさと忍耐力の顕示であり、だからこそ予定調和の許されない人生を歩む実態ばかりを、滑稽かつエネルギッシュに描き出し続けてきたのだろう。

 安部公房の文学は、自由や個人という言葉に翻弄され、傷つきながらも必死で人生を突き進んでいく人間の心を支えてくれる、励みと諦観の文学とも言える。自由という言葉のまやかしを暴きつつも、そんな自由の狂気に取り憑かれる人間の心理を、情けを潜ませた筆致で象っていく。」

(ヤマザキマリ『壁とともに生きる』〜「第五章 「他人」の壁——『他人の顔』」より)

「『密会』の病院は、盗聴による監視システムが張りめぐらされた、ディストピア的な一つの管理社会でもある。インタビュー「都市への回路」(一九七八年)では『密会』をめぐって、「民主主義的な社会と、独裁社会はかならずしも別のものじゃない。民主主義的なエネルギーの中に独裁を再生産するエネルギーが内包されてもいるんだ。その自己矛盾ということを深く考えてみないと、単に対立現象として〝独裁か民主主義か〟と言ったんじゃ、話が単純素朴になり過ぎる」と語っている。
(…)
 『密会』で描かれた病院という組織はまさに、カネッティの捉える群集という力のメタファーとして読みとれる。「平均化され、体制の中に組み込まれやすい者がむしろ強者であって、はみ出し者は弱者とみなされる」。これは「他人との関係」というテーマを極限まで追求しようとした安部公房が到達した、一つの根源的な回答として捉えていいのかもしれない。」

(ヤマザキマリ『壁とともに生きる』〜「第六章 「国家」の壁——『方舟さくら丸』」より)

「読者はそこに安易な希望や、わかりやすい絶望を求めてはいけない。「絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるにひとしい」という魯迅の言葉を、安部公房は好んだ。『第四間氷期』の「あとがき」にも、こう書いている。

 「この小説から希望を読みとるか、絶望を読みとるかは、むろん読者の自由である。しかしいずれにしても、未来の残酷さとの対決はさけられまい。この試練をさけては、たとえ未来に希望をもつ思想に立つにしても、その希望は単なる願望の域を出るものではないのだ。(略)さて、本から目をあげれば、そこにあなたの現実がひろがっている……」

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