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仲野徹「こんな座右の銘は好かん!第14回あきらめない」(Web「みんなのミシマガジン」)

☆mediopos-3139  2023.6.22

「みんなのミシマガジン」で連載されている
仲野徹「こんな座右の銘は好かん!」の
第14回目にとりあげられているのは
「あきらめない」

(mediopos-3019(2023.2.22)で
第1回〜第10回までとりあげたことがある)

「あまたある「座右の銘」問題のうち、
わたしにとって今回のは最大かつ永遠のテーマ」だという

なんでもすぐにあきらめてしまう
というのは問題だけれど
「あきらめない」というのと
(好きな人をあきらめきれないように)
あきらめることが難しいという
「あきらめられない」というのとは少し違う

しかも「あきらめる」のもともとの意味は
「明らめる」であって
「事情などをはっきりさせる」こと

このエッセイではあえて説明されていないが
いうまでもなく仏教で「四諦」というのは
四つの真理(諦)ということである

第一の真理(諦)は
一切は苦であるという現状認識
第二の真理(諦)は
その苦は飽くなき欲望から生ずるという原因究明
第三の真理(諦)は
その欲望の滅した境涯が悟りであること
第四の真理(諦)は
悟りを得るための正しい八つの方法(八正道)

つまり「あきらめる」というのは
執着しないように
真理を明らかにするということである

しかし悟りを得る得ないというのは
宗教的なレベルの話にもなるので
ふつうはそんなおおげさなことではない

あらためて「あきらめない」「あきらめる」の難易度を
本エッセイで語られていることをもとに敷衍しておくと
こんな感じになるだろうか

なんでもすぐにあきらめてしまう(意志の欠如の問題)

あきらめきれないで執着する(執着の問題)

あきらめないでがんばってみる(意志の問題)

あきらめる(判断力と知恵の問題)
(運命を受け入れてベストを尽くす)

本エッセイはこんなふうに着地している

「あきらめない」を座右の銘にするのはまぁよろしい。
けど、それを金科玉条のごとく守るのはいかがなものか。」

とはいえ
その見極めがむずかしいのはたしかで
じぶんでは真摯にあきらめないでいるつもりが
ただのベタな執着になっていることに
気づけないでいるということもある
問題はやはり「執着」云々の問題である

あきらめないということは
足枷をつけることでもある

足枷を外して自由になり
みずからを明らめてはじめて
じぶんはそこでなにをしたいのか
どうすればじぶんを自由にできるのかが
(なにかをしないということでもあるが)
見えてくるのではないか

■仲野徹「こんな座右の銘は好かん!
     第14回 あきらめない」(2023.06.20)
 (Web「みんなのミシマガジン」ミシマ社)

「あまたある「座右の銘」問題のうち、わたしにとって今回のは最大かつ永遠のテーマです。たいそうなと思われるかもしらんけど、ホンマにそう思ってるからいたしかたなし。それは「あきらめない」ということについてであります。

 人生、何事もすぐにあきらめる、というのはさすがにあかんでしょう。だから、あきらめない系の言葉がたくさんあります。それは、まぁ、よろし。しかし、であります。あきらめない状態をいつまでも続けるのが正しいかどうか。

 これまでに「努力は人を裏切らない」とか「石の上にも三年」とか、努力系の座右の銘をとりあげてはきました。似てはいるけど、あきらめない系は、ちょっとベクトルというか次元というかが違うように思うのです。」

「長い間、大学で研究の指導をしてきた。実際に手を動かす人の主体性にお任せしながら研究の方向を指導するというスタンスだった。うまくいくはずと思って進めていても、にっちもさっちもいかなくなることがある。これはもう誰が考えても、時間的にも労力的にも資金的にも止めるべき段階を迎えたとしよう。もちろん、やめた方がええで、と指導する。それでも、納得できない人がいる。

 最大の理由は「これまでの努力が無駄になる」からだ。気持ちはわかる。しかし、続けたとしても「これまでの努力」だけでなく、さらに「これからの努力」が無駄になるだけではないか。そんな時、何度、「コンコルドの誤謬」の話をしたかわからない。コンコルドの誤謬、ご存じだろうか? 行動経済学でいうところの「サンクコスト(埋没費用)」、取り返しのつかない金銭的、時間的、労力的なコストについての逸話である。

(・・・)

 人間は易きに流れる。その流れに抗わなければ、自然とあきらめる方に流れいく。だから、あきらめることをわざわざ座右の銘にすることもない。一方、あきらめずにがんばるのはつらいことも多い。だから、励ますような座右の銘が多くある。きわめてまっとうだ。だが、もうすこし考えを広げてみたい。コンコルドの誤謬のような場合は、あきらめない、ではなくて、あきらめられない、あるいは、あきらめきれない、ではないのか。ここに永遠のテーマ、あきらめない vs あきらめられない問題が発生する。

 思うに、あきらめずにがんばるというのは意志の問題だ。それに対し、たとえば相手にしてもらえないのに異性のことをあきらめられない場合とかを考えると、あきらめられないというのは、むしろ本能的な問題ではないか。それだけに、あきらめない以上に、あきらめるのが難しいことがある。難易度でいうと「あきらめられない > あきらめない >> あきらめる」といったところだ。はて、どうすればいいのか、というのが長年の疑問なのである。」

「この問題は迷宮入りかと、お蔵入りにしていた。だが、あきらめることの重要性について書いてある本が送られてきた。立命館アジア太平洋大学学長・出口治明さんの本『逆境を生き抜くための教養』である。稀代の読書家である出口さんは、脳出血で半身麻痺・言語障害になりながらもリハビリに励み、学長職に復帰された。

 「あきらめる」には「諦める」だけではなく「明らめる」という表記もあって、後者が原義で、元々は「事情などをはっきりさせる」ことに由来するらしい。知らなんだ。それをうけて、「僕にとっては『あきらめる』は、『運命を受け入れてベストを尽くす』ことと同義語です。 ―中略― それは精神論ではなく、最も合理的な、逆境の乗り越え方なのです」と結論づけておられる。さすが、心から尊敬する出口さん、ええこと言わはるやん。って、ちょっと上から目線か。

 運命というのは、後になってからしかわからないものなのだから、早い段階で運命を受け入れるというのは難しいかもしれない。しかし、吉野さんの話とあわせて考えると、どの段階かで、これは受け入れるべき運命なのかどうかを判断することが肝要だ。」

「人間というのは勘違いしがちなもんで、あきらめないでがんばってるつもりでも、単に慣性力にながされてるだけかもしれません。で、気がついたら、歳だけとってしもて、どうしようもなくなってしもてる可能性も大ありですわ。それに、あきらめられない人であふれてたら、どろどろしててえらくきつそう。そんな世の中って息苦しすぎませんかね。で、結論。

 「あきらめない」を座右の銘にするのはまぁよろしい。けど、それを金科玉条のごとく守るのはいかがなものか。まずは、さまざまなことを合理的に考えて、あきらめないで続けるべきであるかどうかを判断することが大事なんとちゃいますやろか。「あきらめない」につづけて「ただし、あきらめが肝心と言うことも常に忘れない」くらいの注意書きが必要ですやろな。中途半端やなぁ、って思われるかもしらんけど。」

○仲野 徹(なかの・とおる)
1957年大阪生まれ。大阪大学医学部医学科卒業後、内科医から研究の道へ。ドイツ留学、京都大学・医学部講師、大阪大学・微生物病研究所教授を経て、2004年から大阪大学大学院・医学系研究科・病理学の教授。2022年3月に定年を迎えてからは「隠居」として生活中。2012年には日本医師会医学賞を受賞。著書に、『エピジェネティクス』(岩波新書)、『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)、『仲野教授の そろそろ大阪の話をしよう』(ちいさいミシマ社)、『考える、書く、伝える 生きぬくための科学的思考法』(講談社+α新書)など。

■仲野徹「こんな座右の銘は好かん!
     第14回 あきらめない」(2023.06.20)
 (Web「みんなのミシマガジン」ミシマ社)


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