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『閑吟集』/小野恭靖『室町小歌』/谷川健一『うたと日本人』

☆mediopos-3163  2023.7.16

「歌は世に連れ世は歌に連れ」と
流行歌は時代を映し出す鏡でもあるが

その源流は室町時代
高三隆達(たかさぶ・りゅうたつ)が
小歌に節付けして歌った隆達節に溯ることができる

隆達節にも含まれる小歌も収録されている
『閑吟集』が成立したのは永正十五年(一五一八年)

そして高三隆達の亡くなったのが慶長十二年(一六一一年)
(生まれたのは大永七年(一五二七年年)

平安末期には
後白河法皇によってまとめられらた
『梁塵秘抄』があり
その当時「今様」と名づけられた歌謡が
流行していたようだが

隆達節と名づけられているように
それまでは作曲者不詳の小歌だったものが
隆達という個人名がつけられた
個性的で特別な歌謡となったようだが
室町の戦国時代から江戸時代初期にかけて
いわば文化のルネサンス的な時代に
こうした個性がクローズアップされてきたようだ

現代にもつながっている
いわば庶民によって口ずさまれ
その心情や生活感や世界観などを反映した
流行歌謡の源を想像してみるうえでも
こうした『閑吟集』や室町歌謡を
ふりかえってみるのは興味深い

有名な和歌集のように
『閑吟集』には
「真名序」(漢文で書かれている序文)と
「仮名序」(仮名で書かれている序文)があり

「詩は変化して歌謡となり、おおいに人々に歌われる。」

「人は感嘆の声を出しても
まだ十分に気持ちがおさまらないときは、
これを歌うことによって表現し、
歌ってもまだ足らなければ、
ただ夢中になって手を振り足を踏みとどろかすものである」
と記されているが

まさに「歌謡」であり
そこに「踊り」が加わってくる

「人情というものをもっている人間界において、
小歌が生まれたのは当然のこと」なのだという

現代はかつての時代よりも
経済的な効率の重視された
音楽プロモーションの要素が強く
「流行」もメディアやプロダクションによる
意図的なものであることが多いが
それでもそこで表現されている「歌」は
時代を映し出す鏡となっているのは変わらない

エジソンが音を録音・再生するシステムを
発明したのが一八七七年
一八八七年には円盤型の録音盤を利用した
グラモフォンが発明され
音楽が記録され複製される歴史が始まったが
その時代から約一五〇年

今後どんな音楽形態が生まれてくるかはわからないが
(AIに作らせるということも行われはじめているが)

「思ひの種かや 人の情」
「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」と
恋に情に夢に
人が「詩」も「歌」も
失くしてしまうことはないだろう

■『閑吟集』(真鍋昌弘校注 岩波文庫 2023/1)
■小野恭靖『室町小歌/戦国人の青春のメロディー』
 (コレクション日本歌人選064 笠間書院 2019/3)
■谷川健一『うたと日本人』(講談社現代新書1513 2000/7)

(『閑吟集』〜「真名序(二)」より)

「人は感嘆の声を出してもまだ十分に気持ちがおさまらないときは、これを歌うことによって表現し、歌ってもまだ足らなければ、ただ夢中になって手を振り足を踏みとどろかすものである。そもそも世の中がよく治まっている時に、安堵して音楽を楽しむことができるのは、政治が人々の心ととく調和しているからである。乱れた世の音楽が、恨みと怒りの雰囲気をもっているのは、政治が人々の心から離反しているからである。ゆえに政治や人々の善悪を正し、天地や鬼神までも感動せしむるものは、やはり詩より他にはない。詩とはその字からわかるように、志が言葉でもって表現されてゆく心の動きである。」

(『閑吟集』〜「真名序(三)」より)

「詩は変化して歌謡となり、おおいに人々に歌われる。」

(『閑吟集』〜「真名序(五)」より)

「小歌が生まれたのは、人間界に限ったことではない。吹く風の音、雨の降る音は、天地がもたらす小歌である。淙々と流れる水の音、散りゆく落ち葉の音など、自然の万物が歌う小歌である。そればかりではない。龍が吟ずる声、虎が嘯く超え、鶴や鳳の鳴き声、春の鶯、秋のきりぎりすの鳴き声がある。これら禽獣・昆虫の歌すべてが自然界の小歌なのである。だからましてや、人情というものをもっている人間界において、小歌が生まれたのは当然のことである。」

(『閑吟集』〜「仮名序」より)

「ここに一人の世捨て人がいる。富士山を遠望できるこの地に草の庵を結び、かれこれ十余年の歳月を過ごした。軒端に松吹く風の音を聞き、それに和して琴を掻き鳴らし、また一節切(ひとよぎり)の尺八を携えて四季折々に合う曲を吹きながら、小歌の一節を心の慰みとして、はやくも過ぎていってしまった年月を振り返ると、都や田舎での、春は花見の宴、秋は月見の宴に連なり、ともに歌った老人や若人がいたけれども、いまではそうした人々も半ば故人になってしまったその昔が恋しくて、「柳の糸の乱れ心」と歌う小歌をまずはじめに置いて、あるいは早歌、あるいは僧侶が廊下で吟ずる漢詩句、また田楽節、猿楽の近江節・大和節に至るまでの数々を、記念の歌謡集ともなればと考えて、思い出すがままに閑居の座右に記しておくのである。これらを歌いながら毎日を過ごしてゆくと、生活の上でも邪悪な心がおこるということもないので、ここに詩経・三百十一編に倣って数を同じくして、閑吟集と題を付けた。以上のような趣旨を少しく草紙の端に書いたのである。余命にまかせ、折も折、かすかな秋の蛍と語らいながら、月明かりのもとで、以上のように書き記しておくのである。」

(『閑吟集』より)

「1・花の錦の下紐は 解けてなかなかよしや 柳の糸の乱れ心 いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」

「12・それを誰が問へばなう よしなの問はず語りや」

「25・散らであれかし桜花 散れかし口と花心」

「36・さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ」

「49・世間はちろりに過る ちろりちろり」

「53・夢幻や 南無三宝」

「55・何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」

「81・思ひの種かや 人の情」

(『閑吟集』〜真鍋昌弘「解説『閑吟集』の世界」より)

「『閑吟集』は永正十五年(一五一八)八月に成立した中世小歌選集である。仮名序に言うとおり、中国の『詩経』に倣って、所収歌数を三一一と限定したところから、編者の耳目にふれた小歌であっても、おそらく組み込まれないまま消え去ったものも少なからずあったであろうと想像される。したがって、永正十五年以前の、小歌系歌謡を網羅して残そうとした集成ではなく、結果としては編者の文芸的趣向によって纏められた小歌の選集であると見ておくのがよかろう。」

「具体的な編者像について、それを明確にすることは困難である。」

「室町時代は小歌の時代であった。小歌の流行を伝える資料は少なくない。」

(小野恭靖『室町小歌/戦国人の青春のメロディー』〜小野恭靖「「隆達節——戦国人の青春のメロディー」」より)

「和泉国の高三隆達(たかさぶ・りゅうたつ)が節付けして歌った隆達節は、戦国時代から江戸時代初期までの一世を風靡した流行歌謡であった。戦国の世を生きた人々の人生とともにあった大切な心のメロディーだったと言うことができる。隆達節は歌詞を室町小歌から継承している例が多いが、その淵源をさかのぼれば、永正十五年(一五一八)の『閑吟集』にたどり着く。隆達節にはその『閑吟集』所収歌とまったく同じ歌詞の歌や、一部分が異なるだけのほぼ同一歌詞の歌が多数確認できる。隆達節は実に一世紀近くも前の集成となる。つまり、室町小歌の歌詞は一世紀にもわたって人々の心を捉え続けたと言えるであろう。また、隆達節とほの同時代の成立と考えられる室町小歌集に『宗安小歌集』『美楊君歌集』があり、隆達節はこれらの歌集に収録された小歌とも歌詞の上で密接な関連を持っている。」

「室町小歌の歌詞が扱うテーマは恋愛が圧倒的多数を占めている。隆達節の歌詞も同様の傾向を持っている。今日明らかになっている隆達節の歌詞は全部で五二〇首余りを数えるが、そのうち恋歌は実に七割以上を占めている。しかし、この傾向は流行歌謡としては当然のことであろう。流行歌謡に恋歌が多いのはいつの時代にあっても同じで、現代においても何ら変わりがない。」

「隆達節の歌詞に見られる恋愛以外のテーマで、特徴的なものは無常観と人生観、さらには人間観である。」

「隆達節の歌詞のうちの一部には安土桃山時代から江戸時代初期の近世的新感覚による語がみられる・「異なもの」「わざくれ」「あたた」などがそれに当たる。また、心の中のつぶやきをそのまま歌詞にしたような独白調の歌や、相手に向かって訴えかける科白調の歌も散見する。これらは『閑吟集』以来の室町好哉の歌詞の特徴を継承したものである。」

「隆達節の最大の特徴はそれまでの作曲者不詳の小歌と異なり、隆達という節回しの達人が確立した個性的で特別な歌謡であったことが挙げられる。つまり、隆達節は歌詞については前時代からのものを踏襲しつつ、曲節上は後代の歌謡を切り開く先進性を持っていたと考えられるのである。もっとも隆達節の一部には歌詞の上からも際立った独創性と高い抒情性が認められる歌もある。実に、隆達節は日本歌謡史上に屹立する存在と言ってよいのである。」

(小野恭靖『室町小歌/戦国人の青春のメロディー』より)

「07 色々の草の名は多けれど 何ぞ忘れ草はの」

「10 思ひ出すとは忘るるか、思ひ出さずや、忘れねば」

「12 つれなかれかし、なかなかに、つれなかれかし」

「13 あれ何ともなの、うき世やの」

「16 あたたうき世にあればこそ、人に恨みも、人の恨みも」

「18 逢ひみての後の別れを思へばの、辛き心も情かの」

「19 雨の降る夜の独り寝は、いづれ雨とも涙とも」

「20 いかにせん、いかにせんとぞ言はれける、もの思ふ時の独り言には」

「25 生まるるも育ちも知らぬ人の子を、いとほぢいのは何の因果ぞの」

「30 君が代は千代に八千代に、さざれ石の巌となりて苔のむすまで」

「40 ただ遊べ、帰らぬ道は誰も同じ、柳は緑、花は紅」

(谷川健一『うたと日本人』〜「序」より)

「柳田は歌は唱和するものであり、口によって詠み、耳で味わうのが本来であると考えていた。したがって、振りがな(ルビ)を見なければ分からない俳句や歌を嫌悪した。」

「柳田国男は和歌を国民の「おもやひ(共有財産)」と見なしたが、長谷川如是閑の「国民的教養」という言葉もそれと重なり合っている。」

「柳田が芭蕉の恋の句にただならぬ共感を示したのは、芭蕉がもののあわれを上流社会の独占物にしなかったことが大きいと思う。
 私はこの小著において「うたと日本人」の関係を、庶民の世界から離れることなく考察してみたいと考えている。いきおい、平安期以降の閉鎖的な宮廷社会の歌人たちの世界の外側に流れる歌(謡)の伝統を重視することにした。俳諧や俳句もまた最も大きく、最も深い意味では歌であり。歌の変種であるという立場をとった。
 日本人の心の深奥からほとばしる叫びが韻律の形をとった点では、和歌、連歌、俳諧のいずれも変わりはなく、またその血脈をたどれば一つの源泉にたどりつく歴史を有しているからである。」

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