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三村尚央『記憶と人文学』/中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』/ベルクソン『物質と記憶』/沢耕太郎『写真とことば』/ロラン・バルト『明るい部屋』/ソンタグ『写真論』/ベンヤミン『写真小史』/ゼーバルト『アウステルリッツ』

☆mediopos3451  2024.4.29

三村尚央『記憶と人文学』第一章
「写真と記憶、記憶の写真」から

すでに本書は吉田健一『時間』とあわせ
mediopos2397(2021.6.9)でとりあげているが
今回は写真との関係における「記憶」について
ベルクソンをガイドに・・・

「写真は一体何を写し出しているのか?」

写真が誕生して以来
繰り返されてきている問いである

一葉の写真には
「被写体」「撮影者」「鑑賞者」が
多様な関係で結ばれている

たとえば過去の記憶と向きあう現代的な例として
タイムスリップ写真というのがある

昔に撮った写真と同じ場所・似た服装・
似たポーズで撮影するもので
二〇一〇年代の終わり頃にSNS等でも話題となったが

それは「時間の不可逆性に真剣に挑む姿」であり
そこにあるのは
「被写体の人物たちにとっては、
もとの写真に写された「過去」は
決して取り戻すことができないという厳然とした事実」である

写真論の古典となっている感のある
ロラン・バルトの『明るい部屋』では
「写真が写し出している過去はたしかに実在した
(「《それは=かつて=あった》」が、
いまはもうそれが存在していない、という
実在と不在のあいだの宙吊り状態にあること」が
議論の核の一つとなっている

「現在と過去のあいだでの遠近法の中での二重視」によって
「それを観る者の情緒的イメージなども
その薄い表層に複合的に重ね合わせられている」のである

一葉の写真はただの過去の記録ではなく
その「表層」にさまざまな「記憶」が
「重ね合わせられている」

スーザン・ソンタグの『写真論』では
そうした「イメージの複層性」において
「記録写真がもつ「真実らしさ」には
それを撮った撮影者の意図や解釈」が
「つねに伴っていること」が示唆されている

ベンヤミン『写真小史』では
写真には「人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、
無意識が織りこまれた空間」が立ち現れるという

それは「衝動における無意識的なものが、
精神分析によってはじめて知られるのと同様」の
魔術的な技術なのである

萩原朔太郎は写真を趣味としていて
フランス製のステレオ・スコープを愛用していたが
そのエッセイ「僕の寫眞機」(一九三九年)にあるように
「僕はその機械の工学的な作用をかりて、
自然の風物のなかに反映されてる、
自分の心の郷愁が写したいのだ」と
写真によって「郷愁(ノスタルジア)」という
懐古的感情を喚起しようとした

ゼーバルトの小説『アウステルリッツ』(二〇〇一年)は
「小さな頃の一枚の写真」から
長い時間をかけて自分のルーツを探しながら
過去を再構成していく話だが
その核にあるのは「記憶の再構築性」である

そのように「写真」は
「時間とは過去から現在へと流れてゆき、
遠く過ぎ去ったものはもう取り戻せないのだという
観念にとらわれた近代人であることの証左」でもあり
「過去を事実のままに、丸ごと保存できる
近代的な技術が進歩すればするほど」
その「記憶」へのノスタルジー
そして「再構築」への思いは強まってくる・・・

ベルクソンの『物質と記憶』は
そうした「記憶」について考える導きとなるが

それについては
中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』から

もしわたしたちに「記憶」がないとしたら
時間は流れない
あるのは瞬間だけだが
瞬間という状態も存在できず
「だただそのつどの存在があるだけ」である

知覚と記憶は融合している

「知覚が成立するためには、
かならず一定の持続が必要であり、
もし持続するのであれば、
そこで記憶が介在しなければならない。」

つまり「知覚において、
対象が対象として成立するためには、
どうしても記憶力のはたらきが不可欠」で
知覚はすでに記憶であるといえる

そうして認識されたものを
ベルクソンは「イマージュ」とよんでいる

しかしわたしたちは
「眼の前の対象そのものを知覚することはできない」
「過去は、記憶というあり方で、
「純粋現在」に進入し、未来へと時をはこぶ」
つまり「純粋な現在というのは存在しない」

しかし「過去が、細かく多様な記憶というかたちで
つぎつぎと押し寄せてきて、時を推進させていく」

ベルクソンは記憶が侵入することなく知覚することを
「純粋知覚」と呼んでいるが通常はそれはありえず
成立するのは「直観」が可能な場合のみだという

その純粋知覚についてはさておき
写真と記憶の話に戻ると

写真を見るということは
(撮るということも含まれるが)
その写真のなかで
記憶を再構築するということにほかならない

その記憶には
「被写体」「撮影者」「鑑賞者」の意図や解釈
無意識そしてノスタルジーなどが
さまざまな関係で重ね合わされている

記憶は知覚と融合しているがゆえに
同じとされる対象についても
だれにとっても同じイマージュとしてはあらわれない

「写真は一体何を写し出しているのか?」

それはまさに「記憶」である
「記憶」はわたしたちの知覚の奥行きにあって
さまざまなかたちで「イマージュ」を喚起している

■三村尚央『記憶と人文学 忘却から身体・場所・もの語り、そして再構築へ』
 (小鳥遊書房 2021/5)
■中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ2014/1)
■アンリ・ベルクソン(合田正人・松本力訳)『物質と記憶』(ちくま学芸文庫2007/2)
■飯沢耕太郎『写真とことば————写真家二十五人、かく語りき』(集英社新書 2003/1)
■ロラン・バルト(花輪光訳)『明るい部屋 写真についての覚書』(みすず書房 1985/6)
■スーザン・ソンタグ(近藤耕人訳)『写真論』(晶文社 2018/4)
■ヴァルター・ベンヤミン(久保哲司訳)『写真小史』(ちくま学芸文庫 1998/4)
■W・G・ゼーバルト(鈴木仁子訳)『アウステルリッツ』(白水社 2020/2)

**(三村尚央『記憶と人文学』〜「第一章 写真と記憶、記憶の写真」〜「写真の隔たり」より)

*「写真という装置は一九世紀はじめのヨーロッパでの誕生以来、多くの著述家を刺激してきた。それらの思索は「写真は一体何を写し出しているのか?」という問いに関わるものだとも思える。すなわち、印刷されている(と限らないのは現代の場合であるが)一葉の「写真」が、そこに写された「被写体」、それを撮った「撮影者」、およびその写真を観る「鑑賞者」と結ぶ多様な関係である。たとえばタイムスリップ写真では、写真に写る被写体と、それを観る鑑賞者との関係に焦点が当てられる。もとになる写真を模して、年月を経た後にもう一枚の「不完全な複製」を作成することが意味するのは、被写体の人物たちにとっては、もとの写真に写された「過去」は決して取り戻すことができないという厳然とした事実である。そして、並べられた似て非なる二枚の写真を鑑賞する私たちにとっても同様で、過ぎ去った今だからこそその大切さが強く実感されて、その時期に近づこうと時間の不可逆性に真剣に挑む姿が私たちの心を動かす。」

・ロラン・バルトの『明るい部屋』
*「写真と記憶との関係をより明確にするため。現代におけるタイムスリップ写真とも関連するものとして、写真論の古典の一つである、二〇世紀フランスの文化批評家ロラン・バルトの『明るい部屋』を取り上げよう。洒脱な語りで写真の本質に鋭く切り込むバルトのこの写真論は、写真が写し出している過去はたしかに実在した(「《それは=かつて=あった》」が、いまはもうそれが存在していない、という実在と不在のあいだの宙吊り状態にあることを議論の核の一つとしている。繊細な薄い一枚の紙(あるいはスクリーン)に写し出される画像は過去を当時のままに鮮明に写しだしてくれるが、私たちがそれに深く見入ってしまうのはその明晰さだけでなく、それがじつは過去に存在したものの「痕跡」にすぎず、その対象はすでに不在なのだよいう冷徹な事実のためである。」

「母を失った後に彼女の少女時代の写真と出会って「時間を溯る」ことで、現在と過去のあいだでの遠近法の中での二重視によって、彼はどこに「母のあるがままの姿を見出した」(八六)のだということもできる。(・・・)このエピソードは、写真が写し出すのはプリントされた視覚イメージだけでなく、それを観る者の情緒的イメージなどもその薄い表層に複合的に重ね合わせられているのだということをよく伝えてくれる。つまり、その鮮明な映像イメージがそれと関わる記憶を受け止める容器となっているのである。」

**(三村尚央『記憶と人文学』〜「第一章 写真と記憶、記憶の写真」〜「写真と記憶の真実らしさ」より)

・スーザン・ソンタグ『写真論』
*「写真が具えるそのようなイメージの複層性は、過去の事実の「証拠」として写真が用いられる場合にはより一層の注意が必要である。一瞬で過去の一場面を切り取る写真の明晰な客観性は、思い違いを含む記憶の主観的なあいまいさとは対照的に映る。たしかにカメラは肉眼で見ていたときには見落としていた些細な記憶もしのぐほどに冷酷でさえある。だが私たちがよく知るように、過去の証拠として提示される図像が切り取られるプロセスはおよそ客観的なものとは言いがたい。思想家スーザン・ソンタグは『写真論』のある一節を「写真は証拠になる」という言葉で始め、記録写真がもつ「真実らしさ」にはそれを撮った撮影者の意図や解釈(そして「趣味や良心が銘ずる無言の声」)がつねに伴っていることに私たちの注意を向ける。

 そのような意図や解釈に沿うように世界が切り取られ、ときにはそれに適うまで撮り直されることもある写真は、本書で何度も触れることになる記憶の「(再)構築性」にも通じるものだと言える。この点で写真は、絵画や散文によるデッサンと対立するものではなく、それらと同様に「芸術」と「真実」のあいだでのやりとりを通じて自身がまとう「メッセージ」を立ち上げているのである。そして一見どれほど無謬のものであっても、写真はそれを観るものに伝えてくるメッセージがこうした構築性を背景としていることをソンタグは写真の「攻撃性」と呼び、カメラで写真を撮る行為を表す“shoot”が「撃つ」を意味することにも私たちの注意を喚起している。」

**(三村尚央『記憶と人文学』〜「第一章 写真と記憶、記憶の写真」〜「写真の写実性(リアリズム)と魔術性(マジック)に見せられた作家たち」より)

*「写真技術が登場間もない頃には、過去の一瞬を「見たまま」にとらえるだけでなく、肉眼ではとらえられないものを写し取ることも期待されていた。それは(・・・)現代からみれば肘科学的な過剰さを帯びることもあったが、過去に実在した一時点をただとらえるだけではない働きへの期待は、記憶も含めた当時の人間の精神構造のモデル構築に大きく寄与していた可能性がある。」

・ベンヤミン『写真小史』
*「写真論のもう一つの古典である『写真小史』でドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、その機能の特質を「視覚における無意識」をとらえることと表現した。彼は「カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは異なる」ものだという独特の言い回しで両者を区別しつつ結びつけて、「人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間」(ベンヤミン『写真小史』)がカメラを通じて立ち現れるのだと表現した。彼によれば、肉眼による視覚からこぼれおちて見えないもの、すなわち「視覚における無意識的なもの」が写真に写しだされる現象は、「衝動における無意識的なものが、精神分析によってはじめて知られるのと同様」なのである。それはつまり、当時は見ることができなかったものを、写真によって「あのとき、たしかにそこに在ったのだ」と後から「思いだす」という不思議な行為だということもできるだろう。それはまさしく魔術的な技術であった。」

・萩原朔太郎「僕の寫眞機」
*「いままで見たことのなかった眺めを「懐かしい」と感じることもある。明治から昭和にかけて日本の近代化のなかを生きた萩原朔太郎(一八八六 − 一九四二)は写真を趣味にしていて、なかでもフランス製のステレオ・スコープを愛用していたことが知られている。興味深いことに朔太郎が写真という技術に魅了されたのは、この技術の新しさよりもそれが喚起する「郷愁(ノスタルジア)」という懐古的感情であった。彼は一九三九年のエッセイ「僕の寫眞機」で、自分が写真を撮るのは「記録写真のメモリィを作るためでもなく、また所謂藝術写真を写すためでもない」と述べ、「僕はその機械の工学的な作用をかりて、自然の風物のなかに反映されてる、自分の心の郷愁が写したいのだ」と強調する。それはすなわち、写真を通じて、目の前の風景に自分の過去についての記憶を重ね合わせる行為であり、それを表すには通常のカメラによる撮影ではなく、ステレオ写真やパノラマ写真が適しているのだと述べる。彼は「特殊なパノラマ的情愁」について、「パノラマといふものは、不思議に郷愁的の侘しい感じがするものである」と述べ、「僕の郷愁を写すためには、ステレオの立体写真にまさるものがない」と断言する。」

「カメラの眼を通した視覚的無意識が見慣れていたはずのものの異貌を暴き出す働きにも通じる病者は、彼の短篇「猫町」 にも見て取ることができる。」

・記憶と写真
*「私たちが目にする、一見過去の瞬間的な事実をそのまま切り取っているかのような写真の画像(イメージ)も、その前段階には似ても似つかないネガ過程があり、つねに加工や調整を経ているのだよいう認識は、記憶の構造について考察する本書においても記憶の「再構築性」あるいは創造性も含めた「可塑性」についての有益な視点を示してくれる。記憶も写真と同様、過去の断片であるがゆえに、現在において結ばれるそのイメージは必ずしも当時のものとは一致せず、両者のあいだのつながりが維持されながらも、その隔たりは際立つことになる。」

**(三村尚央『記憶と人文学』〜「第一章 写真と記憶、記憶の写真」〜「写真のポストメモリー」より)

・ゼーバルト『アウステルリッツ』
*「小説などの作品でも記憶の再構築性はしばしば主題となっている。その一つにドイツ系のイギリス作家W・G・ゼーバルトの『アウステルリッツ』(原著は二〇〇一年)がある。一九四九年英国ウェールズでイライアスという姓の牧師夫妻のもとで育てられていた少年は一五歳のとき、じつは自分が彼らの本当の子どもではないく、本当の名前は「ジャック・アウステルリッツ」なのだと知らされる。彼は突然告げられた事実と本名に違和感を覚え、それに慣れることができなかったが、それ以降長い時間をかけて自分のルーツを探す決心をする。その後の調査で、自分が幼いときにプラハから引き取られてきたことを知ったアウステルリッツは、プラハに飛び、自分の珍しい名字を手がかりにして、当時の自分の家の隣に住んでいて乳母のように彼をかわいがってくれた女性と再会する。そこで彼女から彼の小さな頃の一枚の写真をみせられる(そこに記された日付は一九三九年二月、ジャックが五歳のときのもの)。彼にはまったく覚えがないものであったが、それを一つのステップとして、アウステルリッツは自分と両親、そして当時のプラハについての過去を再構成していく。」

*「本章では現代のタイムリップ写真が典型的に喚起する過去へのノスタルジアからはじめて、一九世紀から始まった写真というモチーフに含まれる、過去の一時点を切り取って、焼き付ける写実性と、肉眼では観られないものを感知する魔術的な超現実性が、近代的な精神構造モデルの構築に翁影響を与えている可能性について検討してきた。その観念(アイデア)は、現代において私たちがタイムスリップ写真を見て、この似て非なる二枚の写真のあいだに時間の流れを感じて情動をかき立てられることにも通じている。そしてそれが、良かれ悪しかれ私たちは、時間とは過去から現在へと流れてゆき、遠く過ぎ去ったものはもう取り戻せないのだという観念にとらわれた近代人であることの証左でもある。

 それが写し出しているものが「今はもうない」と頭では理解はしていても、それでも想像的に(または創造的に)その過去を再訪したいという不可能な欲求と、私たちとが決定的に隔たっていることを示している。当時をありありと切り取ったものであればあるほど、私たちは時を経てその頃の記憶と再開しながら、その過去にはもう戻れないのだという、痛切なノスタルジアを感じる。そして本書でも形を変えながら何度も戻ってくるように、過去を事実のままに、丸ごと保存できる近代的な技術が進歩すればするほど、その痛切さは解消されるどころかますます強まってゆくのである。」

**(中村昇『ベルクソン=時間と空間の哲学』〜「第一章 ベルクソンの哲学 6.記憶」より)

*「もしわれわれに記憶がなければ、その瞬間だけがつぎつぎとあらわれては消えさり、時間はけっして流れない。瞬間以外のものがないのだから、瞬間そのものも存在しない。ただただそのつどの存在があるだけということになるだろう。時間が流れるためにはどうしても記憶が必要であり、その記憶のなかだけに時間は存在する。大雑把ないい方だが、「時間は記憶」なのだ。記憶力をもたない存在者にとっては、時間はまったく流れていない。」

*「『物質と記憶』における記憶についてのベルクソンの考えをみてみよう。(・・・)『物質と記憶』は、わたしの身体を中心にすえ、身体と外界の接点である知覚を蝶番にして、記憶(ひいては精神)と物質とが地続きであることを示した書だ。そのさい、知覚の現場に記憶がはいりこんでいるというのが、その「地続き」であることをささえている。」

「知覚と記憶が融合しているということは、われわれの内的な状態(記憶)が、外界である対象に浸透しているということになるだろう。われわれは、通常外界の対象を、その対象のもともとのあり方でとらえているとかんがえる。常識的には、だれがみても、おなじ一本のボールペンは、おなじようにみえるし、バイクがだしている騒音は、おなじ騒音としてきこえるとおもう。しかし、ベルクソンがいうように、記憶が知覚の現場に混入しているのであれば、それぞれの人がもつボールペンにかんする記憶や、バイクの音の記憶はことなっているにちがいない。だから、「おなじ」ものとしてみたりきいたりしてはいないはずだ。」

「知覚が成立するためには、かならず一定の持続が必要であり、もし持続するのであれば、そこで記憶が介在しなければならない。なぜなら、持続のうちで、ある特定の知覚像がなりたつには、それをまとめあげる基盤がいるからだ。一瞬間だけの知覚は、知覚像としてもなりたたない。短い時間であれ像が固定されなければならない。瞬時に知覚されたものが連続して「おなじボールペン」として固定される必要がある。こうかんがえると、知覚において、対象が対象として成立するためには、どうしても記憶力のはたらきが不可欠ということになるだろう。」

「ベルクソンは、記憶力をもつ人間であれば、どれほど意識しても、眼の前の対象そのものを知覚することはできないといっているのだ。自らのうちに蓄積されている記憶が、知覚している対象をかならず覆ってしまい、みているままのきいているままの姿はあらわれない。だからこそ、「あらゆる知覚はすでにして記憶なの」だ。過去は、記憶というあり方で、「純粋現在」に進入し、未来へと時をはこぶ、ようするに、純粋な現在というのは存在しないことになる。

 ここには、とても不思議な構造がある。ベルクソンの「時間」のなかには、現在は存在していない。過去が、細かく多様な記憶というかたちでつぎつぎと押し寄せてきて、時を推進させていく。過去の連続が、未来をつくっていくという構造だ。たしかに〈いまここ〉の対象を、記憶の進入なしに知覚することを「純粋知覚」とベルクソンはよぶ。しかし、この純粋知覚は、権利としてだけ存在するものであって、実際にはありえない知覚なのである。」

「われわれ人間の能力は、行為するためにそなわっている。そのために、この世界のありさまを直接認識するのは容易ではない。外界の事物を認識するさいにも、行為しやすいように、そこに記憶をかぶせていく。そのようにして認識されたものを、ベルクソンは「イマージュ」とよぶ。人間から独立した客観的なものでもなく、だからといって、こちら側の意識や精神によってつくりあげられたものでもないものだ。精神と物質の中間地帯が、「イマージュ」とうことになるだろう。その領域は(・・・)「知覚」と「記憶」が混合した領域である。かならず記憶をともなって知覚されるこの、それがイマージュということになるだろう。だからこそ、「知覚はすでにして記憶なの」だ。」

*「(ベルクソンによれば)純粋知覚というのが、もし成立するとすれば。われわれは自分自身の外部に存在し、「直観」という方法のもっとも直接的なあり方で、対象の実在の触れることができるというのだ。これは、まさに対象と合一している状態をいっているのだろう。

 われわれは、記憶という能力をもっているために、この世界が進行している、あるいは持続していると認識することができる。べつのいい方をすれば、われわれに記憶力という特殊な能力がなければ、この世界に時間なるものは存在しない。つねに瞬間的に生成生滅していく世界が、進行しないかたちで「ある」だけになる。そこにあるのは、デカルトやレヴィナスのいう「瞬間創造」の世界だ。」

「この記憶を媒介とした物質界との浸透関係の基底に流れているのが、「持続」というあり方であり、持続の緊張そして弛緩という程度の差によって、精神と物質とが区別できるのだ。ここでやっと、われわれは「持続」という概念にたどりついたことになる。」

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