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山口謠司『ん 日本語最後の謎に挑む』

☆mediopos3398  2024.3.7

日本語の「ん」の謎

山口謠司の著作についてはこれまでも
mediopos552(2016.5.21)
 『<ひらがな>の誕生』
mediopos484(2016.3.14)
 『日本語を作った男/上田万年とその時代』
mediopos2715(2022.4.23)
 『てんまる 日本語に革命をもたらした句読点』
でとりあげてきたが
「ん」についてはとりあげてないことに気づいたので
今回はその「ん」について

日本語の「ん」は
母音でも子音でもない
清音でも濁音でもない
単語としての意味をもたない
語頭には現れず
かつては表記さえされずにいた

ヘボン式ローマ字では「n」で表記されるが
「子音の「m」「b」「p」が書かれる場合は、
ふつう「n」がその直前に現れることはなく、
「m」で書かれるという原則」をもったローマ字表記では
「n」と「m」の表記には厳然とした書き分けがあるように
日本語の「ん」は一様な音の表記ではない

その「ん」だが
現在の日本語の五十音図は
「あ」から始まって「ん」で終わっている

しかし奈良時代に書かれた
『古事記』『日本書紀』『万葉集』などには
まだ「ん(ン)」にあたる文字は表記されていない

おそらく現在「ん」として表記される音は
さまざまな音が統合されながら
「平安時代が始まる八〇〇年頃から次第に
表記の必要性が感じられるようになり、
民衆の文化が言語として写されるようになる平安時代末期、
音を表すための文字として姿を表した」

現在確認できる「ン」という〈カタカナ〉は
康平元(一〇五八)年の『法華経』の写本で
それは「撥ね」を示す記号「レ」が
〈カタカナ〉の「レ」と混同されないように
区別されて作られた文字だとされているが
それまでは「ニ」や「イ」として表記されてきた

「「ン」を書き表すことができる文字」である
サンスクリット語を持ち帰ったのは空海である

実際には「ン」と書き記すことはなかったが
「「ン」という文字を作るより、もっと本質的な、
「ン」という文字が機能するための根元的な思想を
我が国に植えようとした」のだ

その思想を記した書こそ『吽字義』である

「阿吽」の「吽」とは
空海が目指した悟りの世界を一言で表したもの」

「「阿」で象徴される
「胎蔵界」から発した宇宙の繁栄が、再び種子となって」
「吽」という曼荼羅の「金剛界」となって凝縮する
という思想である

「阿」と「吽」は五十音図では「ア」と「ン」にあたるが
空海の真言密教においては
「「阿」が宇宙の始原を、「吽」がその終焉を表」している

山口謠司『ん 日本語最後の謎に挑む』には
現在の「ん(ン)」に至るまでの謎が
わかりやすく論じられているが
本書を著した著者の意図は
「ん」は「言語としての問題以上に、
より根元的な日本の精神や文化を支える大きな礎石だった」
ということを示唆することにあるという

「ん」は日本語における「清」と「濁」
「情緒」と「システム」を繋ぐものだというのである

「日本語に「ん」がなくなったとしたら、
我々はおそらく日本語のリズムを失い、
日本語が持つ「情緒」と「システム」を繋ぐ糸を断ち切り、
日本のしっとりとして深い文化を、
根底から崩壊させることになるのではあるまいか。」と

ふだんあまり意識しないでいる「ん」だが
日本文化を根底で「繋ぐ」ものでもあり
さらには宇宙的な創造にも関わっている
その存在は思いのほか深い

■山口謠司『ん 日本語最後の謎に挑む』(新潮新書 2010/2)

*(「第一章 「ん」の不思議」より)

「筆者の妻はフランス人である。
(・・・)
 妻がローマ字で書いたメモを持って買い物に行くと、筆者は「えっ」と思うことがある。
 たとえば「あんぱん」を「Ampan」、「がんもどき」を「Gammodoki」と書いてあったりするからだ。
 ヘボン式ローマ字を学校で習った日本人なら、「あんぱん」は「Anpan」、「がんもどき」は「Ganmmodoki」というふうに書くであろう。
 ところが、妻が書いたものはこの「n」で書くはずのところを「m」で書いているのである。
(・・・)
 英語やフランス語、ドイツ語など、ヨーロッパ諸言語の辞書をひもといてみると、この「n」と「m」の表記には厳然とした書き分けがあることが判明する。
 それは、次に子音の「m」「b」「p」が書かれる場合は、ふつう「n」がその直前に現れることはなく、「m」で書かれるという原則である。」

「小さい頃から日本語の環境で育った日本人は、耳から日々大量に入ってくる日本語をどのように文字として書き写すかという処理能力を、五十音図とともに学習する。
(・・・)
 表記する場合には同じく「ん」と書かれるものも、じつは多種多様の音が統合されたものなのである。」

*「奈良時代の文献、たとえば『古事記』や『日本書紀』『万葉集』などの文献には、(・・・)上代特殊仮名遣いによる音のかき分けがあった。
(・・・)
 当時の万葉仮名の表記では「ん」はどのように書かれているのだろうか。
 驚くなかれ、何度読み返しても、これら上代の書物には「ん」を書き表す文字がひとつも使われていないのである。」

*(「第二章 「ん」の起原」より)

「上古の日本人がどのように漢字に振り仮名をつけていたかを調べ、それを唐代の漢字音に照らし合わせれば、あるいは「ン」のつく漢字がどのように読まれていたかがわかるのではないだろうか。
 中国語には上古から現代にいたるまで「ン」で終わる漢字がたくさんある。」

「「n」で終わる舌内撥音はどうだろうか。
 春日政治の『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』によれば、天長七(八三〇)年に奈良の西大寺で書かれた『金光明最勝王経』には、次のように振り仮名が振られている。

 損————ソイ 陣————チイ 隠————オイ 煩————ホイ 難————ナイ

 この資料が書かれた平安初期は、空海や最澄が活躍している時代である。『枕草子』や『源氏物語』が書かれるまでは、まだ百七十年ほど待たなければならない。

(・・・)

 次に「ŋ」で終わる喉内撥音の漢字の振り仮名を見てみよう。
 同じく西大寺本『金光明最勝王経』では、

 痛————ツイ 冥————メイ

 と記され、これらは『広韻』では、

 痛————他貢切 t'nŋ(トゥング) 冥————莫経切 meŋ(ムング)

 と記されている。

(・・・)

 「ん」という仮名がなかった時代、西大寺の僧は、舌内撥音と喉内撥音の「ン」を「イ」で表していたのである。」

「このように「ん(ン)」は平安時代が始まる八〇〇年頃から次第に表記の必要性が感じられるようになり、民衆の文化が言語として写されるようになる平安時代末期、音を表すための文字として姿を表したのである。」

*(「第三章 「ん」と空海」より)

「日本語には上代、「ん(ン)」という文字はなかった。」

「ところが、延暦二十三(八〇四)年、遣唐使で中国へ渡った空海は、サンスクリット語を研究して、インドのサンスクリット語で書かれたオリジナルの仏典を学び、「ン」を書き表すことができる文字を持ち帰ってきたのである。」

「天才と呼ばれる空海とて、時代という制約があった。「ン」と書こうとしても「ニ」としか書くことができなかった。
 しかし、彼は「ン」という文字を作るより、もっと本質的な、「ン」という文字が機能するための根元的な思想を我が国に植えようとしたのだった。
 はたして、空海が四十五、六歳のころに著した『吽字義』という書物こそ、その思想を表明したものである。
(・・・)
 はたせるかな、五十音図は、「ア」からはじまり「ン」で終わる発音の世界を図で示している。」

*(「第四章 天台宗と「ん」」より)

「『源氏物語』が書かれていた当時、人にもっとも読まれていたのは天台宗の根本経典である『法華経』であった。
(・・・)
 空海が伝えて高野山・東寺などを中心に広めた真言密教「東密」に対して、最澄が比叡山延暦寺を拠点に布教した天台密教を「台密」という。
 じつは、この台密があったことによって、我々が使う日本語が発達したと言っても過言ではない。
「ん(ン)」という文字が日本語の表記として現れるためには、空海が説いた真言密教が、天台宗の僧侶たちによって理解され、仏教がより広い人々に受け入れられなければならなったのである。」

「天台宗門の源信から法華一乗の思想を発展させた日蓮の日蓮宗、法然の浄土宗、そして親鸞の浄土真宗へと繋がっていくこうした仏教の庶民への浸透は、同時に、それまで貴族たちが独占していた日本語を根底からくつがえすような勢いで、書物の中に現れてくるようになる。
 その代表的なものが「法談」あるいは「説経」と呼ばれる日蓮宗、浄土宗などの教説本や仏教説話を多く用いた『今昔物語』『古今著文集』などの説話であり。また琵琶の弾き語りによって伝えられた『平家物語』であうr。
 和歌文学などのように美しく洗練された言葉によって書かれたものとは違って、これらの書物はうずれも短文で、歯切れのよい言葉が躍り出ている。それもそのはず、これらの書物には濁音や撥音便の「ん(ン)」がいたるところに現れる。
「ん(ン)」はこの時期から日本語になくてはならない「表記」としてその地位を確立した。」

*(「第五章 サンスクリット語から庶民の言語へ」より)

「安然(八四一頃〜没年不詳)という僧は、(・・・)最澄亡き後、比叡山に登り、円仁の弟子となって台密を研究した(・・・)。
 元慶四(八八〇)年、ついに彼は『悉曇蔵』という画期的な書物を書き上げる。
(・・・)
 研究を行うなかで、安然は、サンスクリット語では二語以上が合成されて一語となる場合、「サンディ(連声/れんじょう)」と呼ばれる音韻変化が起こることに着目する。」

「中国語には現れず、サンスクリット語や日本語にだけ起こるこのような「連声」という現象(「噛む」は「噛んで」となり、「因(イン)と「縁(エン)」が合成されると「インネン」となるような現象)をさらに見つけることに成功したのは、五十音図のもとを作ることになった明覚(一〇五六〜没年不詳)であった
(・・・)
「彼は『悉曇要訣』の中で、ある種の二つの音が連続したり、ある種の音の前後では、日本語に「ん」という音が現れてくることを発見して次のような例を挙げる。

 阿弥陀仏  アミダブツ→アミダブン
 左手  ヒダリノテ→ヒダンノテ
 乗馬  マニノリテ→マンノリテ

 現代、日本語学では、二つの音が連続する時に起こる音の変化は「連声」と呼ばれ、フランス語の「リエゾン」に相当するとされている。これを安然や明覚は「大空の音」と表現した。「大空」とは、もともと真言密教の言葉で、十方の世界に本来的な方向や場所などの相がないことをいう。つまり、存在はしているのに、どこから現れどこに行くのかわからないもののことである。おそらく安然にしても明覚にしても「ン」の存在をそうしたものと捉えたに違いない。」

*(「第六章 声に出してきた「ん」」より)

「和歌はオノマトペをそのままの形で言葉として使うことを嫌う。とくに濁音を使うことが和歌に少ないのは、オノマトペのようなものは言語としての洗練という点において、いまだその域に達していないからである。
 同様に、和歌の世界では「ん」という表記やそうした音が現れる漢語などを使うことが嫌われる。これは、「ん」という音が濁音に属する下卑た音であることを意識していたことを示唆するものであろう。」

「鎌倉時代も後期になれば。こうした音韻変化を言葉遊びとして楽しみ、それを文字として書きのこす時代ににもなってくる。」

「平安時代までは書くことさえできなかった「ん」は、それから約六百年後の江戸時代にはこうした遊びに取り入れられるようになるまで、日本語には不可欠の音と表記となって現れてきていた。」

*(「第八章 「ん」の文字はどこから現れたか」より)

「現在のところ、「ン」という〈カタカナ〉が使われたもっとも古い写本は、(・・・)龍光院に所蔵される、康平元(一〇五八)年の『法華経』だとされている。」

「一般には、この「ン」という文字は、撥ねを示すための記号である「レ」が、〈カタカナ〉の「レ」と混同されないように区別されて作られた文字だと言われている。」

「「吽」は空海が目指した悟りの世界を一言で表したものである。
 そして同時に「吽」は曼荼羅でいう「金剛界」、すなわち「阿」で象徴される「胎蔵界」から発した宇宙の繁栄が、再び種子となって凝縮する様を表すものであるという。
 ところで、我々が習う五十音図は「ア」からはじまって「ン」で終わる図である。はたしてこれは空海が言う「阿」と「吽」と一致する。これは偶然なのだろうか。

(・・・)

 空海は『吽字義』で具体的な音を表そうとしているわけではない。もっと深い宗教性と密教の独自性を主張しようとしているのである。」

「後にサンスクリット語を研究した安然や明覚が三種類の撥音を、まったくとらえどころのない幻のようなものという意味で、「大空の音」と呼んだのも理由のないことではなかった。あるいは空海は、後に「ん」や「ン」で書かれる文字を、発明しようとしていたのではないか。」

*(「第十章 「ん」が支える日本の文化」より)

「「清」を光の世界であるとすれば、「濁」は影や闇の世界だとも言いかえることができるだろう。我々はものの存在をこの光と影によって認識している。影はものの深さをとらえ輪郭を描くのである。
「ん」は、清濁の区別からすれば、本居宣長が言うように伝統的には「濁」の方に考えられてきた。「ん」は、日本語のなかでは、語頭につく言葉がなく、前の音の鼻音化によって次に来る音との間で繋ぐ働きをするからである。
 しかし、同時にこの清音と濁音の間にある「ん」は、薄明の世界をも意味している。これは、日本の文化が、「イエス」と「ノー」との区別をはっきりしない世界で培われてきたということとも深い関係があるのではないだろうか。
 我々は人の言葉に相槌を打ちながら、あるいは考え事をしながら「んー」と声にならない音を出す。これは「イエス」でもない、「ノー」でもない「保留」を意味するものである。
「保留」には「清」や「濁」の区別はない。むしろ、それは「清」と「濁」を繋ぐ役割をしているように思われる。
「ん」は、平安時代に生まれて以来、こうした周縁への広がりとの関わりを受け止める言葉であった。
 筆者は先に、拙著『日本語の奇跡〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書)で、日本語の〈アイウエオ〉で示される〈カタカナ〉がシステムを形成し、そして〈いろは〉で示される〈ひらがな〉が情緒を維持する役目を果たして来たと想定したことがある。
 明治時代以降、特に第二次世界大戦後の国語教育は、西洋文化を吸収するこよに急であったこともあり、システムの方を優先した。こうして次第に〈いろは〉に読み込まれた日本情緒は忘れられた。はたしてこの新しい日本を創り出していくことを要求された明治、大正、昭和の時代に「ん」の実体が国語学的、言語学的に明らかにされ、五十音図に「ん」が組み込まれたのは、システムと同時に「ん」という、「清」と「濁」をつなぎながら、薄明のなかにある深さを忘れてはならないとする無意識の意識が働いたためではないかと考えるのである。」

「二人の呼吸がピッタリとあっていることを、「阿吽の呼吸」といったり「あのひとたちは阿吽の仲」と言ったりする。(・・・)
 「阿」とはサンスクリット語では口を開いて最初に出す音であり、「吽」は口を閉じて最後に出す音とされる。(・・・)
 この「阿」と「吽」は、こうした言語の音としてではなく、じつは空海が伝える真言密教では、「阿」が宇宙の始原を、「吽」がその終焉を表すという思想を意味するのである。

「もしも、日本語に「ん」がなくなったとしたら、我々はおそらく日本語のリズムを失い、日本語が持つ「情緒」と「システム」を繋ぐ糸を断ち切り、日本のしっとりとして深い文化を、根底から崩壊させることになるのではあるまいか。
「ん」は、じつは言語としての問題以上に、より根元的な日本の精神や文化を支える大きな礎石だったのである。」

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