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奈倉有里・逢坂冬馬『文学キョーダイ‼』/【対談】奈倉有里×逢坂冬馬「二人の合言葉は本」

☆mediopos3308  2023.12.8

『夕暮れに夜明けの歌を』のロシア文学者・奈倉有里と
『同志少女よ、敵を撃て』の小説家・逢坂冬馬が
姉弟であることは
「文學界 2023年12月号」での対談を読むまで知らずにいた

ほぼ同じ時期(2021年10月・11月)に著書が刊行され
それがともに大きな評価を受け話題になるまでは
とくに話し合うようなこともなかったそうだ
「不思議な邂逅」である

戦争をはじめとして
政治的なさまざまな問題に翻弄され
それがある極点を迎えているとさえ思えるような
そんな二〇二三年に
『文学キョーダイ‼』という対談本が刊行され
そこで言論統制やファシズムそして戦争の話が
「文学」の視点から語られているが

国家管理統制下のもとで「実学主義」が主とされ
国語教育が「論理国語」と「文学国語」に分断され
「知的に独立した人間を形成するのを憎むかのような、
「人文主義憎し」の風潮が着々と進行してい」るなかで
まさに象徴的な「邂逅」となっている

現状はまさに
「ソ連崩壊以降のロシアとか、
あるいはワイマール共和国の末期に」似て
ファシズムの成立過程に似ている
大正以後の日本の戦争に向かっている時代もそうだ

気づかないうちに政治もメディアも
国民をある種の方向に誘導しようとしている

現在NHKの朝ドラで放送されている「ブギウギ」では
かつての戦争中の統制下における時代が背景に描かれているが
そのありようが過去のものだと思い
それをひとごとのように見ているとしたら
すでにそうした誘導に沿って生きているといえるだろう

NHKそのものが現在コロナ禍報道における
「放送倫理違反」に問われているにもかかわらず
それに対する隠蔽に近い態度を変えていないが
他のさまざまなマスメディアも同様である

「近代ファシズムは、ある日、突然成立することは決してない。
常にファシズムに向かう危険性が、必ずどの国にも存在します。
その萌芽に気づけるかが大事なんですよね。」(逢坂)
という言葉で伝えようとしていることは切実な問題である

ワクチンの問題もマイナカードの問題も
またウクライナ戦争の問題も
一般国民の意識を国家統制下に置くべく
情報の隠蔽や目先のメリット付加を繰り返すばかり
しかもそんな情報統制に加担する者も後をたたない

そんななか同調圧力や空気の力に負けないように
さまざまな考え方や感じ方にじぶんをひらくために
「本を読むことが、
風を吹かせることにつながるのかもしれない」

「本を読むことによって、思考の可能性が開けていく。
あらかじめ用意された回答で満足なんかしていられないぞ、
という思考回路ができてくる。
それが読書の大きな楽しみのひとつなんです。」(奈倉)
ということがいえそうだ

少なくとも「論理国語」なるものに
閉じ込められないためにも
「文学」に目を向けることが重要となる

今や科学論文さえ情報統制下において
利益のための捏造や誘導などが日常化しているなか
稚拙なレベルの「論理国語」しか使えないのは
知らずファシズムに加担することにもなりかねない

現在は闇の帷が落ちようとしているかに見えるが
そんな「夕暮れ」に思えるときにこそ
「夜明けの歌」を可能にする
「文学」の力とその多様性が必要となる

■【対談】奈倉有里×逢坂冬馬「二人の合言葉は本」(文學界 2023年12月号)
■奈倉有里・逢坂冬馬『文学キョーダイ‼』(文藝春秋 2023/9)
■奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス 2021/10)
■逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房 2021/11)

(『文学キョーダイ‼』〜逢坂冬馬「はじめに」より)

「二〇〇二年に姉、奈倉有里さんは単身ロシアへ渡り、二年後に私は日本で大学に通いはじめ、以降二人はまったく違う生き方をしてきました。帰国後、果たして今なにをしているのか、と気になることはあれど、直接連作を取り合うということもなく、近況は互いに人づてに聞いていました。
 変化が訪れたのは、二〇二一年になってからでした。姉はロシア留学の時期を主な対象とした初の単著、『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアへ行く』を上梓し、一か月余後、私の小説家としてのデビュー作であり、独ソ戦を素材とした小説、『同志少女よ、敵を撃て』が出版されました。それは、全く異なる生き方、全く異なる探求をしていた両者が思わぬ地点で再会する、不思議な瞬間でした。
 別にアピールすることでもあるまいと思っていたため、当初は特に僕らが姉弟である旨は公言していませんでしたが、結構な数の人がこの二作にそれぞれ関心を持ち、その後姉と弟だと知って驚いた、と仰るのを聞いていましたし、ありがたいことにわれわれ姉弟の著作はそれぞれ有名な賞を頂いたり、メディアでご紹介いただくといった機会を得ました。その後は対談等で我々が姉と弟であるということも(たまに)言及するようになてので、「どういう家庭なんだろう」と興味を持たれた方もいるかも知れません。しかし、実のところ、我々姉弟自身が、このようにして互いの思い出を語り合ったり、会わないでいた長らくの間それぞれに何を見聞きしていたかについて話し合うようなこともなかったのです。本書は世界という巨大な島を両岸から航行して観測し、文学岬ロシア港で再会した二隻の船の航海日誌であり、船乗り同士の語り合いでもあります。」

(『文学キョーダイ‼』〜逢坂冬馬「PART3 私と誰かが生きている、この世界について World」より)

「逢坂/戦争をする国家がなぜ、どのように原論を統制するのかっていうことも大事だよね。

 奈倉/まず「人を殺すかもしれない」「自分も死ぬかもしれない」というのは、普通に考えて絶対に嫌なはずのこと。それにもかかわらず人を戦争に駆り立てるのは、すごく無理があるはずなんだよね。だから、死ぬのは恐いし人を殺したくない、というごく当たり前の感情、これを吐露できないようなぐらいにしなきゃいけない。だからものすごい統制が必要なわけですよね。(・・・)最初は一般の人たちが富裕に持っている「正義感」みたいなものを利用するところ。メディアが些末な例をさかんに取りあげて、「こんな許せないことをする少年がいるんだぞ。法で規制しなきゃいけないだろう」とバッシングを煽るようなことをやり始めるんです。自分は特になにも関係ないだろうと思っている人たちが、たとえ最初は「そんなことで目くじらを立てなくても」と思っていても。まるでバッシングしない人には良心がないとでもいいたげなほど煽る。それで「これは許せない、これは許せない」と言いだす人が出てくると、じゃあそれを法令で禁止しましょうということになって、言論の自由の首を絞めるような法律がどんどんできていく。その人たちは正義感で動いたつもりでも、気がつけば自分たちがなにも言えない状況になっている。こういうとき、国の思惑はいかに多数を操るかみたいなところに出てくるからね。

 逢坂/そうですね。

 奈倉/言論を取り締まる法律が動き始めると、それに対して「いや待て。そこには注意が必要なんだぞ」ということすら言いにくくなっっていく。それに加えて管理だちね。国がすべての情報を握っていく。ベラルーシの例もそうだけど、監視カメラが街じゅうにどんどん増えて、携帯の電話の位置情報まで国が握って、平和なデモをしていた場所に位置情報があった人が、たとえ買い物客でも逮捕される。ありとあらゆる行為が、国の握るデータに紐づけられていく。日本でもマイナンバーが図書館カードに紐づけられるという、まったく必然性もなければ便利ですらない、問題しかない案がありましたけど。

 逢坂/図書館って、そもそも秘密が守られなきゃいけないという観念が非常に強かったはずなんですけれども、利便性の名のもとに、その観念はあっさり浸食されてゆく。医療もそうなんですけど、とにかく秘密が重要であらねばならない領域については、国が管理しやすくしようとしている。ずいぶんわかりやすくディストピア的な発想だとなとは思う。」

「奈倉/ありとあらゆるカリカチュアで描かれていたことが、どんどん「えっ、嘘でしょ」という間に現実になっていく。(・・・)

 逢坂/その兆候のひとつとして思い浮かぶのが、放送法をめぐる国会の支離滅裂な状況。高市早苗のあまりにも道化じみた言動がバカバカしすぎて、そちらに注目が集まっていましたけれども、あれは官邸周辺が法律を恣意的に運用するために、国会議員に誘導的な質問をさせていたんですよ。放送法が定める「政治的公平」を番組全体を見て判断するのではなく、一回の番組のみでも判断できる法解釈に変えようという、すごい出来事が起こっていたわけです。
 さらに恐ろしいにはメディアがそれをほとんど報じなかった。実家に帰るとたまにテレビをつけるようになったんだけど、こないだビックリしたのは、野球の世界大会(MBC)の話ばかりしているの。これはこれが実は一番怖いことなんですよ。放送局の自律の危機について、当のメディアがそれにひたすら目を背けている。(・・・)
 近代以降、ファシズムが完成する時って、歴史上、圧倒的な独裁者が突如として君臨することはまずないんです。独裁者に対する異論を許さない体制ができあがるまでの過程で、やはりファシズムに迎合する市民層が確実に存在するんです。歴史を振り返った時にいまの日本がどこに位置づけられるのかといったら、ソ連崩壊以降のロシアとか、あるいはワイマール共和国の末期にもすごく似ていると思う。せっかく自由は成立しかけていたのに、社会に仕掛けられたバックドアを利用して、強大な指導者に対する幻想た、統一された国家に対する幻想に国民が焚きつけられていく。そしてそれを政治家が一生懸命あおっている。ファシズムの成立過程を学ぶことは、いま、すごく必要とされていると思います。」

「逢坂/新しい世才の作家がさまざまな意見を発信することによって、文化は変わっていけると僕も思う。いま発信している作家も、意図的にやっているわけですよ。「そういうことを言うな」という流れに負けちゃ駄目だという姿勢を示すために。

 奈倉/いまの日本にはいろんなところにいろんなことを言う人がいるので、まだ少し希望がある。もっと状況が悪くなると、袋のネズミみたいに一カ所に追いつめられて、一気につぶされるみたいなことが起こりえるので。
(・・・)
 本を読むことが、風を吹かせることにつながるのかもしれない。いつのまにか社会のなかにできあがっていた暗黙の了解が心にのしかかってきて、頭がうまくまわらないようなとき、いまはあんまり言っちゃいけないと思われていることとか、深く考えないとわからないことに、本の力を借りるとたどり着けることがある。本を読むことによって、思考の可能性が開けていく。あらかじめ用意された回答で満足なんかしていられないぞ、という思考回路ができてくる。それが読書の大きな楽しみのひとつなんです。」

(『文学キョーダイ‼』〜奈倉有里「おわりに」より)

「またいつかこんな機会があったら、今度はもう少し平和な話ができる世の中になっていたらいいな、と思う。
 おっと違った、私たちはそれぞれに、その社会に向かって歩いているんだった。
 閉塞感に苦しむ人の心が少しでも和らぐような、世界の人たちが少しでも協力して平和な社会を築いていこうと思えるような、風を吹かせていこう。」

(「二人の合言葉は本」〜「自分の足元を見つめなおす」より)

「奈倉/知ることと考えることができれば、たとえば人権を制限するまずい法案が出てきたときに、気づくことができる。「これはおかしい」と判断できるのは、その人の大切な能力なんです。それだけで充分、魅力ではないんです。

 逢坂/本当のその通りです。近代ファシズムは、ある日、突然成立することは決してない。常にファシズムに向かう危険性が、必ずどの国にも存在します。その萌芽に気づけるかが大事なんですよね。抗議の声すらあげられなくなってから気づいても遅いんです。」

(「二人の合言葉は本」〜「文学教育の意義」より)

「奈倉/そういえば『文学キョーダイ‼』の中で、逢坂さんが人文系の大学教育についていいことを言っていましたよね。

 逢坂/そもそも人文教育の根本は、国家から独立した、知的に自立した人間を作るという発想から始まった、という話ですね。西欧で国家による一元管理から逃れていくため、近代国家を問い直すための自主学習に大学の起原がある。各国の目指す教育の目的を見ると、その国の置かれている現状がよくわかります。
 日本の歴史を辿ってみるとわかりやすいですよね。明治期に近代的な教育機関というものが成立してから終戦まで、教育の目的は「臣民の育成と国力の増大」だった。戦後にそれが終焉を迎え、学問の自由が憲法により保障され、本来の人文教育の模索がはじまったはずなのに、それが熟成する前に実学主義にとってかわられてしまったのが現在です。実学主義と同時に、そもそも知的に独立した人間を形成するのを憎むかのような、「人文主義憎し」の風潮が着々と進行していますね。」

◇『文学キョーダイ‼』目次
はじめに――逢坂冬馬
PART1 「出世しなさい」がない家 Family
PART2 作家という仕事 Literature
PART3 私と誰かが生きている、この世界について World
おわりに――奈倉有里

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