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工藤顕太『ラカンと哲学者たち』/ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』

☆mediopos3265  2023.10.26

工藤顕太『ラカンと哲学者たち』によれば
ジャック・ラカンは
デカルト・ヘーゲル・カント・ソクラテス
といった哲学者たちと対決することで
精神分析を再創造しようとした

その「対決」とは
それらの哲学者を「分析主体」(患者)の位置に置き
ラカン「自身が哲学の症状の担い手となり、
哲学のアイデンティティをかたちづくる物語を
浮かび上がらせる」ことで

「精神分析に新たな課題を突きつけ、
精神分析的思考の深化を、
さらには刷新をもたらす」ことだという

ラカンにとって精神分析家の使命とは
「症状を引き受けること、つまり分析主体とともに
その症状の担い手となること」である

その意味でラカンは
哲学者の「症状を引き受け」ようと試みる

「精神分析において
症状は主体の本質をなす一部」であり
「この本質は、症状が分析家/分析主体という
特異な二者関係に置き換えられることで、
つまり転移が成立することで、はじめて姿を現す」

「転移」とは
患者と分析家の二者関係における
恋愛感情ともなる感情の強い結びつきのことで
精神分析の実践においては不可避であるとともに
(そこにはさまざまな問題が生じるが)
それそのものが手法となってさえいる

「分析家はみずから、主体の症状の半身となる」
つまり「主体が無意識のなかに保持している
固有の物語のなかに、
分析家が自身を書き入れるということである」

しかしいうまでもなく
あくまでも患者が主体であって
分析家はそれにとって代わることも
患者の「内的現実」に直接働きかけることはできない

ラカンの分析は
「夢⇒原光景⇒心的現実⇒幻想⇒
現実界(=主体の起原としてのトラウマ)」
というプロセスとして図式化できるだろうが

その「現実界」は外的現実ではなく
患者の「内的現実」のことである
そこに「主体の起原としてのトラウマ」がある

精神分析をつうじて
患者である主体は
「みずからが無意識のなかに秘めていた
トラウマと向きあうことができる」が
それを受け入れることができるのは
常に「事後的」である

「自分を決定づけた出来事」は
「ありとあらゆることを話すという作業をつうじ」
「物事が終わってしまった地点からすべてを見渡す」
という形でしか起こらないのである

そのようにしてラカンは
みずからが「哲学の症状の担い手」となり
哲学者が「無意識のなかで作り上げている
物語を浮き彫りにし、
その物語から主体自身を引き離」し
つまり物語の外に出て
「本当の意味で自分を知る」という
「精神分析家の欲望」を見いだそうとする

東畑開人は本書を評して
「哲学と精神分析の根源には「恋」があった」
としているが

その「恋」は
「汝自身を知れ」という
古代ギリシアの賢人によって
デルフォイのアポロン神殿に奉納された箴言のように
魂の飛翔をはかろうとする
終わりなき格闘でもあるのかもしれない

■工藤顕太『ラカンと哲学者たち』(亜紀書房 2021/12)
■ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』(岩波文庫 2020/8・10)
 (ジャック=アラン・ミレール 編/小出浩之・新宮一成・鈴木國文 ・小川豊昭訳)

(工藤顕太『ラカンと哲学者たち』〜「まえがき」より)

「ラカンは、フロイト的な意味での無意識、つまり個人の欲望を方向づけ、決定していながら、本人には知られていない心の領域を、逆説的にも、ひとつの「知」と定義し直した。それは知られていない、というよりも知り尽くされることのない「知」、それにもかかわらずつねに活動状態にある「知」なのだ。無意識とは、いかなる支配者のコントロールも及ばない「知」、端的にいえば支配者のいない「知」にほかならない。

 ラカンの考えでは、哲学はこのようなタイプの知について十分に問うてこなかった。だらこそ、知への愛としての哲学は、例えばそれが「絶対者」であれ「自我」であれ、あらゆる知を蓄積し、やがては普遍的な知を手中に収める者を執拗に探求してきた。だが、もっと突き詰めていえば、哲学的思弁のなかで幅を利かせる大仰な抽象概念の数々は、ともそれば偶像崇拝の、あるいはフェティッシュの対象のごとき代物に転化していないだろうか。ラカンの言葉でいえば、こうした概念を頂点とした知の帝国こそが、哲学の「永遠の夢」だということになる。「反哲学」は、精神分析と哲学における知のあり方の根本的な違いに根ざしているのだ。」

(工藤顕太『ラカンと哲学者たち』〜「結びに代えて」より)

「ラカンと哲学者たちの対話の核心には、つねに「精神分析とは何か」という根本的な問いがある。ラカンをフロイト以来の伝統から分かつのは、その精神分析の哲学化とでもいうべき試みにほかならないが、この試みは、逆説的にも、精神分析という営みそのものの原理を探求するためにこそなされたものだった。ラカンは、フロイトの実践をみずから引き継ぐために、フロイトとはまったく異なる方法を選んだ。この方法こそが哲学だったのだ。」

「「哲学にとってラカンとは何者か」という観点に立ってみよう。デカルトの「欺く神」に〈他者〉の欲望の謎を見いだすとき、あるいはカントの定言命法を享楽へと突き進む欲望としてとらえなおすとき、さらにはソクラテスの常軌を逸した振る舞いと精神分析家の欲望とを重ね合わせるとき、ラカンはいったい何をしているのだろうか?

 重要なのは、哲学にかんするラカンの読みが、もとのテクストのなかでは必ずしも中心的とはいえないような部分を糸口として、その哲学の、それまで見えていなかった特徴を露わにしていることだ。(・・・)哲学へのラカンの介入は、その哲学の隠された本質を浮かび上がらせる————ちょうど精神分析家の解釈が、分析主体に、自分の話していることの本当の意味を発見させるのと同じように。

 ラカンにふさわしい肩書きはただひとつ精神分析家である。そしてそれは彼が哲学と対決するときも変わらない。では、精神分析家の使命とは何だろうか。それは症状を引き受けること、つまり分析主体とともにその症状の担い手となることである。フロイトがいうように、精神分析において症状は主体の本質をなす一部とみなされなくてはならない。そしてこの本質は、症状が分析家/分析主体という特異な二者関係に置き換えられることで、つまり転移が成立することで、はじめて姿を現す。いいかえれば、分析家はみずから、主体の症状の半身となるのだ。これは、主体が無意識のなかに保持している固有の物語のなかに、分析家が自身を書き入れるということである。

 ラカンの哲学への取り組みも、まさにこのようなものだったのではないだろうか。

 本書の議論から見えてくるのは、自身が哲学の症状の担い手となり、哲学のアイデンティティをかたちづくる物語を浮かび上がらせるラカンの技法である。精神分析家として、あくまでも哲学にとっての他者でありながら、哲学の内奥に肉薄し、その本質をつかみ取ろうとするラカンのスタンスを思い切って一般化するならば、私たちはこう考えることができる————精神分析は哲学の症状としての価値を持つ、と。ラカンの実践は、哲学にとっていわば最も親密な異物なのだ。裏を返せば、ラカンにとって哲学は、(・・・)精神分析に新たな課題を突きつけ、精神分析的思考の深化を、さらには刷新をもたらすようなパートナーだったということである。

 フロイトが教えているのは、互いに異質な二者の創り上げる特異な関係が、その一方の(つまり分析主体の)内的な真理に触れるために不可欠である、ということだ。ここまで議論を進めてきた私たちは、いまやそのようなパートナーシップを、精神分析と哲学のあいだにも認めることができるだろう。もちろん、これもまたフロイトが述べるとおり、肝心なのは、このパートナーシップから、未来にとって価値のあるものを引き出すことである。」

(工藤顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第1部 デカルトを読むラカン/第6章 科学にとって神とは何者か————精神分析の始まりと終わり」より)

「「転移」とは、一言でいうと、強い感情的な結びつきのことである。フロイトによれば、転移は親密な人間関係にきまって現れ、精神分析の実践に限らず広く一般に見られる。例えば、はっきりとした性的要求を伴う恋愛のようなあからさまなものもあれば、尊敬や信頼といった、表面上はより整序されたものもあり、そのかたちは様々である。(・・・)

 いずれにせよ、感情的な高まりと他者への強い結びつきが転移現象の核となる。ところで、精神分析の実践はこの現象と切っても切れない。それは、治療者と患者のあいだではつねに転移が見いだされる、という臨床的事実のみによるのではない。そうではなく、より積極的に、転移を原動力にする技法として、フロイトは精神分析を発明したのだ。(・・・)

 フロイトによれば、転移とは、症状が分析関係のなかに移されたものである。」

「転移をめぐるフロイトの洞察から引き出されるのは、精神分析は、症状が展開していくそのプロセスと同じ方向を向いて進む、という原則である。精神分析とは、それ自体が、患者と分析家の二者関係によって代理された症状なのだ。」

「精神分析の主体とデカルト的コギトは、〈他者〉に知を想定するという出発点を共有している。しかし、デカルトが真理の決定を〈他者〉に委ねたままそれを問い直すことがないのに対して、ラカンは真逆の立場を取る。主体は〈他者〉を問いに付すところまで、つまり自身の出発点にあった仮説をひっくり返すところまで進まなくてはならない。真理は、もはや〈他者〉が不在となった地点で、主体が自己決定を行うことではじめて創り出される。それはどこまでいっても主体自身の問題(アフェア)である。」

(工藤顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第2部 精神分析的現実のほうへ/第9章 目覚めるとはどういうことか————現実の再定義としての夢解釈」より)

「享楽とは、快適さを保つための閾(快原理)の外に私たちを引きずり出す引力のようなものだ。わたしたちを衝き動かす欲望が快/深いという軸に収まらないのは、まさにこの享楽ゆえである。逆にいえば、もし享楽がなかったとしたら、欲望は機械的なプログラムとなんら変わらないということになってしまうだろう。その意味で、享楽は人間的な生の条件でもある。

 ところで、『精神分析の倫理』のセミネール以来、ラカンは享楽を「現実界(le réel)と結びつけている。(・・・)

 現実界とは、一言でいえば、私たちにとって最も根源的な現実、私たちを一番深いところで決定づけている現実のことである。ここで問題になるのは、個人の無意識の奥深くにある現実であって、客観的に観察したり検証したりできるものごと(要するに日常的な意味でいわれる「現実」ではない。ここでは、ラカンいう現実界を「内的現実」、客観的なものごとの世界を「外的現実」と呼んでおこう。

 この区別はいったいどんな意味を持つのか。それを教えてくれるのは、精神分析においてはつねにそうであるように、夢という経験だ。『精神分析の四根本概念』のなかでラカンが着目しているのは、夢から目覚めるという経験である。夢を見て、夢から目覚める。これは、別の言い方をすれば、外的現実(覚醒状態で私たちが経験する世界)から夢へと赴き、再び外的現実に帰ってくるということだ。では、内的現実(現実界)はどこに位置づけられるのか。もちろん、夢のなかである。夢の奥底に、あるいは夢の映像の向こう側にあるもうひとつの現実。それは目覚める一歩手前で私たちをとらえ、目覚めたときには決定的に失われている現実である。」

「精神分析は夢をたんに都合よく仕立てられたフィクションとは考えないし、ましてやそれを、現実に対して二次的なものとみなすことはしない。そこには、夢というかたちを取ることでのみかろうじて接近できる、もうひとつの現実があるからだ。このもうひとつの現実を真剣に受け取ろうとするとき、なんの必然性もなく私たちの身にふりかかったように思われた出来事は、その意味をがらりと変えてしまうことになる。この変化、あるいはそれが引き寄せるかもしれない私たち自身の変化こそが、精神分析がもたらすことのできる「目覚め」である。」

(工藤顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第2部 精神分析的現実のほうへ/第11章 フロイトという症例————トラウマとしての現実界(2)」より)」

「ラカンの試みを図式化するとすれば、「夢⇒原光景⇒心的現実⇒幻想⇒現実界(=主体の起原としてのトラウマ)」となる。こうしたラカンの論理において、精神分析が取り扱うべき現実の最終根拠はどこにあるのか。それは。歴史以前の実証不可能な事実ではなく、分析主体の記憶(思い出すこと)と言語(話すこと)の限界地点である。(・・・)心的現実が「現実」であることの根拠は、なによりも主体の話す言葉に、あるいは話すという行為そのものにある。そして、その言葉の連鎖が辿り着くひとつの突き当たりこそが現実界だ。それゆえに、ラカンは現実界を言語にとっての「不可能」と定義する。それは。いわば心的現実の核である。心的現実をたんなる絵空事から隔てるのは、それを前にしてどうしようもなく言葉が立ち止まる、この硬い核なのだ。」

(工藤顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第2部 精神分析的現実のほうへ/第12章 ヘーゲルに抗するラカン————精神分析的時間の発明」より)」

「精神分析をつうじて、主体は事後的に、みずからが無意識のなかに秘めていたトラウマと向きあうことができる。だが、それは完全な自己知に至ることはない。自分を決定づけた出来事と、それに遅れてやってくる言葉の断絶に身を置くという固有の経験をつうじて主体が学ぶのは、言語そのものが構造的に含んでいる不可能性という、根源的な事実である。この事実は、ありとあらゆることを話すという作業をつうじて、やはり事後的に、浮き彫りになる。それを受け入れることは、物事が終わってしまった地点からすべてを見渡す、という夢との訣別である。

 だが、この不可能性を自分にしかできないやり方で引き受け直し、区切りをつけることさえできたならば、主体は再び結末の知れない現実へと復帰し、歩んでいくだろう。夢というかたちで、やはりみずからの知が決して及ぶことのない過去を、折に触れて思い出しながら。」

(工藤顕太『ラカンと哲学者たち』〜「第3部 ソクラテスの欲望をめぐって/第18章 物語の外に出る————精神分析家の欲望とは何か」より)

「ラカンのいう「精神分析家の欲望」とは、ソクラテスがアルキビアデスにしたように、分析主体は無意識のなかで作り上げている物語を浮き彫りにし、その物語から主体自身を引き離すような欲望である。それがうまくいったときにはじめて、分析主体は自分の欲望を発見する。それは本当の意味で自分を知るということだ。その限りで精神分析は、「自身の魂に怠りなく配慮せよ」というソクラテス哲学の根本命題の、ひとつの実践形態だといえるかもしれない。

 ソクラテスからすれば、アルキビアデスの幻想につけ込むことで、つまりアルキビアデスの自我理想の座を自分が占め続けることで、この美貌の青年を服従させ、支配することなど容易かっただろう。しかし、ソクラテスがその種の支配欲に身を委ねることはなかった。なぜなら、彼はもっと強力な欲望に絶えず衝き動かされていたからだ————刑死という極限的な結末を、みずから進んで引き受けてしまうほど狂気じみや欲望に、もちろんそれは、哲学者の欲望、いや、哲学という欲望にほかならない。」

○工藤顕太『ラカンと哲学者たち』【目次】
・まえがき

第1部 デカルトを読むラカン
・第1章 哲学は狂気をどう考えるか――ラカンの「デカルトへの回帰」
・第2章 失われた現実を求めて――フロイトと精神の考古学
・第3章 疑わしさの向こう側――デカルト的経験としての無意識
・第4章 哲学者の夢――コギトの裏面、欺く神の仮説
・第5章 言葉と欲望――フーコー/デリダ論争の傍らで
・第6章 科学にとって神とは何者か――精神分析の始まりと終わり

第2部 精神分析的現実のほうへ
・第7章 恋愛は存在しない?――「転移性恋愛についての見解」再読
・第8章 道徳か情欲か――カントともうひとつのアンチノミー
・第9章 目覚めるとはどういうことか――現実の再定義としての夢解釈
・第10章 狼の夢の秘密――トラウマとしての現実界(1)
・第11章 フロイトという症例――トラウマとしての現実界(2)
・第12章 ヘーゲルに抗するラカン――精神分析的時間の発明

第3部 ソクラテスの欲望をめぐって
・第13章 起源の誘惑――フロイトとソクラテス
・第14章 愛とメタファー――少年愛から神々のほうへ
・第15章 永遠の愛の裏面――止まらないしゃっくりの謎
・第16章 あなたは愛を知らない――分裂するソクラテス
・第17章 とり憑かれた哲学者――美のイデアと死の欲望
・第18章 物語の外に出る――精神分析家の欲望とは何か

■結びに代えて
■あとがき
■注

○工藤 顕太(くどう・けんた)
1989年東京都生まれ。専門は精神分析、哲学を中心とした思想史。早稲田大学文学部フランス語フランス文学コース卒業。
日本学術振興会特別研究員DC1、パリ高等師範学校留学などを経て、2019年2月に早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在は日本学術振興会特別研究員PD(京都大学人文科学研究所)。早稲田大学、群馬県立女子大学にて非常勤講師。
著書に『精神分析の再発明 フロイトの神話、ラカンの闘争』(岩波書店、2021年)。

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