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渡辺 一夫『ヒューマニズム考/人間であること』

☆mediopos2956  2022.12.21

昨日(mediopos2955)の問い
「人間であるとはどのようなことか」は
ユマニスム(ヒューマニズム)的な
「それは人間であることとなんの関係があるのか」
という問いに直結した問いである

ルネサンスの人々のあいだで
「それはキリストとなんの関係があるのか」と
「たいせつなことを見失い、ゆがんでいるものを
そのまま後生大事にしている神学者たちにたいして」
問いかけられた問いは
現代においては「人間」そのものについて
問いかけられる必要がある

渡辺一夫が『ヒューマニズム考/人間であること』を
刊行したのは一九七三年
すでに半世紀前のことだが
このとてもシンプルなメッセージが
シンプルさゆえに
現代のわたしたちに刺さってくる

著者はエラスムス・ラブレー・モンテーニュといった
宗教改革の時代のフランスのユマニストたちを通して
「人間らしく生きようとする心根と、
そのために必要な、時代を見透す眼をもつこと」を
きわめて平易なメッセージとして残し

その刊行時に大江健三郎は著書中に引かれている
セナンクゥールという十八世紀のフランス作家の
〈「人類は所詮滅びるものかもしれない。
しかし、抵抗しながら滅びよう。」
という言葉を見つめながら、
先生はその抵抗の根本の力を明らかにしてゆかれる〉
と本書を評しているが

私たちはどのように「抵抗」し得るだろうか

それは「ユマニスム」のいう「人間らしさ」とは
別の「人間らしさへ」の抵抗であるといえる
しかもそれはみずからがみずからの矛盾に
向き合うことでしかなされ得ないともいえる

つまり「人間であるとはどのようなことか」という
「人間」そのものの深みにあるものを問いなおすこと

他者に対し
それを「狂気と無知と痴愚」とし
それに「抵抗」するというような単純なことではない

「悪」が「時季はずれの善」であるともいえるように
通常とは別の観点からみずからを「善」だとしているものが
きわめて冷静でしかも冷酷なまでの仕方で
「狂気と無知と痴愚」を体現することもあるのだ

宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』のなかに
こんな言葉がでてくる
「ああ、そんなんでなしに
たったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」

おそらくだれもじぶんのなかに
「たったひとりのほんとうのほんとうの神さま」がいて
その視点からの「善」を求めている

それはただ宗教の「神さま」というのではなく
思想や主義などの「神さま」でもある
現代では科学(主義)こそが「神さま」となっている

それは「善意」ゆえの「悪」かもしれず
そうした「善意」を巧妙に利用した「悪意」も行使され
それもまたある観点からの「善意」であるのかもしれない

そしてそれらすべてが
「人間らしさ」の所産なのだ
「ごく平凡な人間らしい心がまえ」は大切だが
それだけが「人間らしさ」ではない

ゆえに「人類は所詮滅びるものかもしれない」のだし
「しかし、抵抗しながら滅びよう」でもある

滅びるか滅びないかは別として
この際そうした
「狂気と無知と痴愚」さえ体現し得る
「人間らしさ」というものを
しっかり見据え得る機会としてみるのも
また「抵抗」のひとつでもあるだろう

■渡辺 一夫『ヒューマニズム考/人間であること』
 (講談社文芸文庫 講談社 2019/11)

「ユマニスムは、別に体系をもった思想というようなぎょうぎょうしいものではけっしてなく、ごく平凡な人間らしい心がまえであるというのがわたしの考えです。そして、どのような人間の行動にも、また思想にも、ユマニスムが付き添っていたほうが好ましいし、人間の社会生活・個人生活の破綻は、かろうじて、それによって延期されたり、回避されたりするかもしれないと思っているのです。さらにまた、人道主義・博愛主義とは訳さないほうがよいユマニスム、あるいはヒューマニズムは、このヨーロッパ語の語源問題からすれば、明らかにヨーロッパのものですけれども、内容的には、おそらくどこの国でも、人間の名に値する人々、心ある人々ならば、当然心得ているはずのご平凡な人間らしい心がまえだとも考えています。
 儒教や仏教の伝統によって築き上げられた東洋文化のなかにも、かならずユマニスムに該当するものが、それ相当のことばによって示され、しかるべき相当の人々によっていだかれているにちがいありません。そして。それは、××主義というような訳語ではぴったりしないと感ぜられるほど、平易な人間の心がまえにほかならないような気がいたします。
 わたしがあえてユマニスム、あるいはヒューマニズムという外国語を用い続けたのは、第一に、これらの外国語がそのまま日本で通用しているからですし、この語に対して、わたし自身がわたし流にでも解釈を下して、将来、この語の意味の決定がなされ、ふさわしい訳語が選ばれるときにために、ささやかな資料を提供できたらうれしいと思ったからなのです。そして第二には、ユマニスム。あるいはヒューマニズムが、はっきりした形で意識され、かつ脈々として流れていることを、事ごとに感じさせ例として、フランス文学、特にルネサンス文学を記述の素材にするのがもっともつごうがよかったからにほかなりません。
 わたしたちは、狂気と無知と痴愚とのために、とんでもないおろかしいことをしますから、この三つは、なんとかして避けなければなりません。しかも、学識の点では衆にぬきんでるような人々が、どうかすると狂人のような考え方で行動することもありうるのですから、狂気と無知と痴愚とを警戒しただけれでは安心なりません。むしろユマニスムという平凡な心がまえのことが、問題になるのです。」

「ローマ人のあいだで、本末を転倒した議論に対して、
「それはメルクリウスとなんの関係があるのか。」
と問いかけたように、ルネサンスの人々のあいだでは、たいせつなことを見失い、ゆがんでいるものをそのまま後生大事にしている神学者たちにたいして。
「それはキリストとなんの関係があるのか」
と呼びかけたのでした。そして、この問いかけ・呼びかけは、ルネサンス期に見られたキリスト教を中心とする問題がいちおう片づいた近代・現代にいたっても、なお問いかけられ、呼びかけられるようなことが、人間世界に続々と生まれてきている以上、ローマ時代やルネサンス時代のあの問いは、おそらく絶えることはないでしょうし、また絶やしてはならないでしょう。そして、このばあいは、明らかに、
「それは人間であることとなんの関係があるのか。」
という形でなされ続けなければなりますまい。これはすでに、モンテーニュについて触れたばあい、ルネサンス期にも考えられたともいえるのです。」

「現代は、あなたもご存じのように、機械文明が発達し、科学万能の夢が十九世紀以上に人々をとらえ、人間の集団生活の方針が険しく対立する二つの制度に分かれ、あらゆるところに、「人間不在」「人間疎外」の現象が見られます。
それゆえにこそ、
「それは人間であることとなんの関係があるのか。」
という問いが、とくに強く発し続けられなければならないと、わたしは思うのです。人類そのものの大きな破綻を避けるためにも、また、それをすこしでも延期するためにも——。
 昔も今も変わりはありますまいが、わたしたち人間は、わたしたち自身が、利便のために、よかれと思ってつくったもの(機械・思想・制度など)をりっぱに使ってこそ、それらをつくりだした目的も達せられますのに、ともすれば、わたしたちは、自分のつくったものに使われ、その機械となり、奴隷となっているばあいがあるように思います。それに類した例を、今までの記述のなかから拾ってみますと、エラスムスやラブレーに風刺された神学者や修道士たちのばあいが、まさにそうでした。
 かれらは、キリスト教(旧教)の神学や制度のために機械じかけになり、たいせつなキリストの教えを忘れ去っていたからです。」

「わたしたちがそれによって生きている制度や思想のゆがみに対してまったく盲目になり、そのゆがみを直そうともせずに、その制度や思想の歯車になってはいないでしょうか。さまざまな報道手段や宣伝手段をつくったわたしたちは、知らず知らずのうちに、これらの手段に使われたり、「洗脳」されたり、画一化されたりする危険はないでしょうか。
 また、わたしどもは、自分らの甲府K樹で健康で便利な生活のためにと思ってつくりだし、考えだしたさまざまなものの奴隷になりやすいのではないでしょうか。
(…)
「狂人に刃物」というたとえがありますが、科学文明・機械文明の産んだものは、まさに「刃物」かもしれず、もしその「刃物」を人類の幸福のために用いることを忘れて、むやみと振り回すようなことになったら、人類はまさに「狂人」にほかならないといってもよいでしょう。そうなったとき、人類は、自分のつくったものに使われて破滅しかねないということにもなるのでしょう。」

「何人もの文明批評家は、人類が自らつくった文明や文化のために弱体化し、あるいは破滅するおそれのあることを指摘していますし、多くの生物学者は、人間のつくったもの——たとえば薬物——のために、自然界・生物界のバランスがくずされ、思いがけない事態が起こり得るということを警告しています。
 ここで6章で触れたセバスチャン=カステリヨンの小さなことばを、もう一度かみしめたいと思います。
「我々が光明を知ったのちに、このような暗闇にふたたび陥らねばならなくなったことを、後世の人々は理解できないだろう。」
 また、セナンクゥールという十八世紀のフランス作家(…)のつぎのことばも、考えてみましょう。
「人類は所詮滅びるものかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びよう」
 この「抵抗」はなにによってできるのでしょうか。少なくとも、金力だけでも権力だけでも完全に行われるものではありますまい。むしろ、
「それは人間であることとなんの関係があるのか。」
と問いかける人間の心根——この平凡で、無力らしく思われる心がまえが中心とならなければならないかと思われます。
 この心根、心がまえを、あえて、ユマニスム、あるいはヒューマニズムと呼んではいかかであろうかと、わたしは考えております。(1964,mars)」

(野崎歓 解説「地下水の流れを絶やさないために」より)

「なかんずく、情報社会とAI技術の急速な進展は、万人の想像力をはるかに超えている。数十年後には一部のAIエリートが世界に君臨し、その他は「無用者階級」に転落すると恐ろしい予言をする世界的ベストセラーになっている。戦慄を覚えずにはいられない。
 そうした近未来のヴィジョンに向かってこそ、本書の説くところを対置すべきだろう。ポストヒューマンの時代の到来は押しとどめようもないと、だれかが考えがちないま、「無用なつぶやき」としてのヒューマニズム=ユマニスムをわれわれのうちで目覚めさせなければならない。その「無力らしく思われる心がまえ」に立ち帰らないならば、人間の居場所はもはや決定的に失われかねない。そうなってしまわないためにもっとも大切なメッセージを、本書は「あなた」に向けて発し続けている。」

【目次】

1 ヒューマニズムということば
2 ユマニスムの発生
3 宗教改革とユマニスム
4 ラブレーとカルヴァン(一)
5 ラブレーとカルヴァン(二)
6 ユマニスムとカルヴィニスム
7 宗教戦争とモンテーニュ
8 新大陸発見とモンテーニュ
9 現代人とユマニスム

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