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堀江敏幸『中継地にて-回送電車Ⅵ』/夏目漱石『それから』/幸田露伴『努力論』

☆mediopos3324  2023.12.24

堀江敏幸の十一年ぶりの散文集「回送電車」
第6巻目『中継地にて』から
「なにもしないという哲学」について

ここでとりあげられている
夏目漱石『それから』の代助とは
境遇は正反対のように違うけれど
「遊民」的であるという意味では
ぼくの生き方は代助に似ていたりする
それが面白い

「目的や目標となるものを設定」し
「なにかの「ために」行動すること」を
できるだけ避けるようにして生きてきたからである

あえて努力をしないようにしてきたわけではないが
努力して勉強するとか働くとかいったこととは
生き方のベクトルとして捻れの位置にあった

それは幸田露伴の『努力論』にあるような
「努力している、もしくは努力せんとしている、
ということを忘れていて、我がなせることが
おのずからなる努力」となるようなものでもなかった

とはいえ学校にはそれなりに通ったし
会社でも四〇年以上働きはして
おそらく外見的にはそれぞれの場において
無難なペルソナとして過ごしてはきたのだが
それぞれの場で求められるような
「目的や目標」とはまったく別の方向を向いて生きてきた

そしてそこに「努力」ということは
ことさらなかったように思う
受験勉強をしたことなどほとんどないし
働くことで意図的に他を凌ごうと思うこともなかった

じぶんではそれを「非社会的な生き方」だと
勝手に思っているけれど
それが代助の
「自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた」
ということと通じているのである

そのためまったくというわけではないが
ひとからの「評価」といったことには関心がない
つまり「承認欲求」が希薄なのだ

おそらくそのためもあって
「承認欲求」の過剰なひとを苦手としている
そこには「自由」がないからでもある

しかしながら世の中は
夏目漱石(『草枕』)のいうごとく
「とかくに人の世は住みにくい」ものの
「人が作った人の世が住みにくいからとて」
「人でなしの国へ行く」わけにもいかない

そんななかでなんとか「善く生きる」ことはできないか
とか徒然と思いながらとくに努力などしないで生きている

■堀江敏幸『中継地にて-回送電車Ⅵ 』(中央公論新社 2023/10)
■夏目漱石『それから』(岩波書店 1989/11)
■幸田露伴『努力論』(岩波文庫 2001/7)

(堀江敏幸『中継地にて-回送電車Ⅵ 』〜「なにもしないという哲学」より)

「夏目漱石の『それから』に登場する代助は、働きもせず結婚もせず、ときどき親から生活費をあたりまえのようにもらっているばかりなのに、書生や手伝いの婆やなども置いて暮らしている自身の遊民と称されることもある身分について、少しも引け目を感じていない。なにをしたってお天道様と米の飯はついてまわるといった放蕩とはちがうけれど、あれやこれやと理屈を並べて周囲を煙に巻くところは、落語の登場人物と大差ないように見える。代助は「自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた」。彼自身の言い換えによれば、以下のようになる、

   歩きたいから歩く。すると歩くのが目的となる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩いたり、考へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したも同然である。(『夏目漱石全集』第八巻、岩波書店、一九五六年)

 なにかの「ために」行動することが、彼には許しがたい。名利あるいは功利につながってしまう要素を徹底的に排除していくと、社会生活など成り立たなくなる。にもかかわらず、食うための、養うためにという選択肢は彼には存在しないのだ。そんなわけで彼は働かない。働きたいから働くのであれば、働くことじたいが目的になるとは口が裂けても言わないあたりに、むしろ微笑ましささえ感じられる。
 代助の論法は、ある意味で正しい。活動のすべてに目的や目標となるものを設定し、一時も無駄にせずに生きているような人々を前にすれば、だれだって暑苦しいからだ。目的を置くべき部分とそうでない部分をうまく共存させてはじめて「活動」が立ちあがるのであり、正と負の両面がなければ「世の中」はまわっていかない。おなじことが読書にも言えるだろう。読みたいから読む。すると、読むことじたいが目的となる。それが最も正しい、純粋な喜びをもたらす唯一無二の方法であって、論評したり感想を述べたりすることを、もしくは読んだ冊数を競うことを前提として頁を繰っていたのでは、もはや「堕落」といわざるをえないのである。
 では、いったい、努力とはいかなるものなのか。世に氾濫する啓蒙書を手に取れば、わかりやすい説明がいくらでも手に入るだろう。しかし努力とはなにかを知ってからその定義をなぞることなんて無意味だと難じても、意味がないと述べることじたいに一種の目的化と差別化が生じているのだから、代助の提示した理屈の網は案外強固なのだ。代助はなにもしようとしないことにおいて大いに努力しているかもしれず、少なくとも努力をしない努力の方向性は誤っていない。やってやろうという前のめりの姿勢に息苦しさを感じるのは人間としてふつうのことであり、遊民云々とはまたべつの話なのである。」

「若かった頃、全集版で序の部分だけ読んで膝を叩きながら、本文をたどるのがなぜか怖ろしくて、ずっと避けてきた本がある。(・・・)幸田露伴の『努力論』である。(・・・)カバーには、語例寧にもかつて目に留めたこんな一節が引かれている。

   努力している、もしくは努力せんとしている、ということを忘れていて、我がなせることがおのずからなる努力であってほしい。

 百年前の自己啓発。露伴ほどの人だから、無我夢中で書物の山に触れているうち、それが「おのずからなる」努力へと昇華されていったにちがいない。

(・・・)

 先の引用の手前の部分をこっそり参照すれば、こんなふうになっている。

   努力は好い。しかし人が努力するということは、人としてはなお不純である。自己に服せざるものが何処かに存するのを感じて居て、そして鉄鞭を以てこれを威圧しながら事に従うて居るの景象がある。

 堕落といい不純といい、それだけでかなり威圧感の生じる言葉だ。本格的に読みはじめれば、ところどころ深く頭を垂れながら自分自身の堕落と不純を意識しつづけることになって、「自ら自己存在の目的を破壊したも同然」の憂き目にあうだろう。それが嫌だというわけではないし、さもしい現状の追認が耐えられないわけでもない。ただ、読もうとして読むことが拒まれている以上、その葛藤を遠ざけるには読まないという選択肢しかないのである。だから私は『努力論』を読まない。読もうとしない。読まないよう努力する。そのような姿勢がすでに堕落であることを、百も承知のうえで。」

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