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伊藤潤一郎「投壜通信」(新連載) (『群像 2022年2月号 講談社 所収)

☆mediopos2620 2022.1.18

ほかならぬ「私」に宛てられた言葉を
岸辺で手紙の入った壜を拾い上げるように受けとる

壜の中に入っている手紙は
「誰でもよい誰か」という不特定の人へではなく
「誰でもよいあなた」という
不定性の二人称へと宛てられ投ぜられたものだ

「誰でもよい」といっても
その手紙の言葉は
ほかならない「あなた」へと宛てられている

「誰にでも同じ意味をもつ言葉というイデオロギー」を
象徴する「論理国語」の言葉ではなく
「あなた」だけに届けられる特別な言葉

伊藤潤一郎は
「みんなが右を向いたときには、
左をよく見るくらいのことはしてください」
という高校の卒業アルバムに書かれていたであろう
教師が卒業生に送ったメッセージを思い出す

ここでいう右と左は
イデオロギー的に書かれていたのかもしれないが
そうではなくここでは
右を「「誰にでも同じ意味をもつ言葉」
左を「誰でもよいあなた」への言葉として
とらえるのがリルケのいう「詩」に近しいだろう

リルケの言う「詩」とは
「一生かかって」「やっと最後に、おそらく
わずか一〇行」書くことができるような詩のことだ
それほどに「詩はいつまでも根気よく待たねばならぬ」

そしてその「詩」の宛先こそが
「誰でもよいあなた」であり
ひとはときにそんな
「岸辺を歩きながら手紙の入った壜を拾い上げる」
という「偶然」に出会えるまで
「待つ」ことができなければならない

こうして日々書き綴っている言葉も
特定の誰かにでも
誰でもよい誰かにでもなく
「誰でもよいあなた」へと向けられている

ひょっとしたらずっとずっと遠く
やがて生まれ直してくるであろう
じぶんへと壜を投じているのかもしれない

できるならば
ずっとずっと先に
「誰でもよいあなた」へと
「一生かかって」
「やっと最後に、おそらくわずか一〇行」でも
なにがしかの言葉を送ることができますように

■伊藤潤一郎「投壜通信」(新連載)
(『群像 2022年2月号 講談社 所収)

「「みんなが右を向いたときには、左をよく見るくらいのことはしてください」
 最近ふと、この言葉を思い出すときがある。たしか高校の卒業アルバムに書かれていた、教師が卒業生に送るメッセージのひとつだったのだが、どういうわけか近頃この言葉を思い出すようになった。実際に現物をたしかめに行っていないので、本当にこんな言葉が載っていたかは定かではない。それに、なぜみんなが向いているのは「右」なのだろうか。なぜ「左」を見ろと言われているのか。いま考えると、その含みがわからないでもないが、いずれにしても、高校卒業後一〇年以上の時を経てこの小さな小さな言葉はやっと私のもとに届いたようなのだ。おそらく、それを書いた当人も予想しなかった事態にちがいない。
 けれども、こうしたことは言葉ではよく起こるのではないだろうか。自分のなかに澱のように沈んでいた言葉がふとした瞬間に想起され、言葉が新たな相貌を魅せるという経験は、誰しも一度ならず心当たりがあるだろう。いわばそれは、言葉が人間うちでいつのまにか発酵していくような経験である。そうしたプロセスにおいては、言葉はもはや人間の意識的なコントロール下には置かれておらず、言葉の生成変化がどこかでひっそりと進行している。驚きをもたらすような言葉の変化は、言葉自体を時間の流れにまかせるところからはじまるのである。リルケはこうした事態を「待つ」という言葉を用いながら印象的に述べている。

  詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。ひとは一生かかって、しかもできれば七〇年あるいは八〇年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしたやっと最後に、おそらくわずか一〇行の立派な詩が書けるだろう。詩はひとの考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。[・・・]追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして、再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。

 詩人が紡ぐ言葉は、忘却という時間をかいくぐった言葉でなければならない。それと動揺に、いつかどこかで読んだり聞いたりした言葉が、ある日どこかで新たな意味をともなって私のもとへと届くためには、忘却とう時間が欠かせない。このような経験は、非人称的なものと人称的なものが絡み合うことではじめて生じるといえるだろう。言葉が寝かされて、熟成されていくプロセスが、人間の意志が介入しえないという意味でまさに非人称的なものである。ひとに驚きを与え思考を駆動させるような言葉は、一度人間の権能の外に置かれなければならないということだ。しかし、言葉が何かをきっかけとして私の意識に浮かび上がってくるという点では、その言葉はほかならぬ私という一人称へと宛てられたものとして届いている。言葉がいつ想起され、何をきっかけとして思い出されるかは誰にも予想することができないにもかかわらず、想起された言葉が届くときの宛先はつねに私なのである。非人称的な言葉の沈殿過程から浮かび上がってきた言葉は、ほかの誰でもない私という一人称にとって意味を持つ言葉になる。
 しかし、こうした事態はなにも想起される言葉に限られたことではない。またしても詩の話になるが、詩人たちが語ってきたいわゆる投壜通信のモチーフは、まさに私へと言葉が宛てられているという事態をいわんとするものだった。」

「難破しかけた船から海へと投げ込まれた壜は、砂浜でそれを拾い上げた人を宛先としている。おそらく、投げたほうは拾った者のことを知らないだろうし、たまたま拾ったほうもなぜそれが私を名宛て人としているのか明確に答えることはできないだろう。にもかかわらず、壜を拾った者はその手紙がほかならぬ私へと呼びかけていることを感じとってしまう。まさに私が読まなければならない手紙として壜は拾われるものである。とはいえ、このような事態は波打ち際を歩かなくとも多くの人が経験していることだろう。詩や小説を読んだときに、それがまさに自分に宛てられていると思ってしまうとしたら、その言葉は私宛ての投壜通信にほかならない。」

「壜を海へ投げるとき、投げ手はその手紙がどこかのあなたへと届くことを信じている。投げ手の心のなかには届いてほしい具体的な誰かがいるのかもしれないが、実際にそのひとへと届く確率はゼロに近いだろう。それでも遭難した船から壜が海へと投じられるのは、その手紙を誰かが拾ってくれるという「信」が投げ手にあるからだ。その誰かをツェランは鉤括弧を付して「あなた」と述べる。海に投げ込まれた手紙の宛先は、誰でもよい誰かではなく、「あなた」という二人称関係のなかにあるひとだというのである。(・・・)ツェランが語ろうとしている「あなた」とは、いわば対面関係にないような二人称なのだ。同じ時間と空間を共有することなく、投げ手と受け手のあいだにあらんかぎりの隔たりが開かれつつも、それでもなお成立しうるような二人称関係。それこそツェランがわざわざ鉤括弧を付して語っている「あなた」なのである。この「あなた」とは「誰でもよいあなた」なのだといってもいいだろう。壜の投げ手はそれを受け取る人を知らないがゆえに、この「あなた」には誰でもよいという不定性が不可分なかたちで結びついている。ここで問われている二人称とは、あえて耳慣れない言葉を用いるならば不定の二人称なのである。
 このような「誰でもよいあなた」は、けっして「誰でもよい誰か」と混同されてはならない。投壜通信は「誰でもよい誰か」へと向けて投げられるのではなく。「誰でもよいあなた」へと宛てられている。まったき不定性ではなく、不定性の二人称という限定が加わることによって、言葉は切迫感を帯び、ツェランが語るようにそこに投げ手の「信」が宿るのだ。そのような言葉であるからこそ、漂着した壜を拾い上げた人は、それをほかならぬ「私」宛の手紙として読むことができるだろう。」

「「誰でもよいあなた」へ宛てられた言葉のあり方とはどのようなものなのだろうか。ここでは、先に引いた『マルテの手記』でも語られていた「待つ」ということに注目してみたい。ただし、いま問いたいのは、詩人という人間が待つことではなく、言葉そのものの「待つ」という様態である。
 言葉を主体とする「待つ」を問うときに欠かせないのが、「ながら」というあり方である。「待つ」と「ながら」。言うまでもなく、ベケットの『ゴドーを待ちながら』がすぐに思い浮かぶところだろう。(・・・)『ゴドーを待ちながら』は、ゴドーという対象ではなく、「待つ」という行為そのものを問い直す作品として読むことができる。」
「「待ちながら」という翻訳から明かなように、二つの行為の同時性を示すものとして用いられている。(・・・)つまり、『ゴドーを待ちながら』は、ただ待つことではなく、待ちながら何かをするという二つの行為の同時性を延々と描きつづける作品なのである。」

「投壜通信もまたこのような「待ちながら」というあり方をしていると考えられる。それも、「誰でもよいあなたを待ちながら」というかたちで、不定の二人称を待ちながら存在している言葉は、大多数のひとにとっては一般的な意味として受け取られる数多ある言葉のうちのひとつでしかないだろうが、どこかの「あなた」にとっては一般化しえない意味(「意味の外の意味」とでも呼べるようなもの)を持つ特殊な言葉なのである。投壜通信としての言葉には、誰にでもほぼ同じ意味として読みとられる一般性の側面と、「誰でもよいあなた」へと宛てられた「待ちながら」という側面が同時に存在しているということだ。しかし、現代においては、とかく前者の側面だけが言葉の機能であるかのような様相を呈している。鷲田清一は『「待つ」ということ』において、現代を「待たなくてよい社会」や「待つことができない社会」と特徴づけたが、社会や人間だけでなく言葉においても「待つ」ということがなくなっているのかもしれない。
 誰にでも同じ意味をもつ言葉というイデオロギーが蔓延するこの世界で(「論理国語」を思い出したい)、私にとって特異な意味をもつような言葉は既存の秩序をはみ出す力をもっている。」

「もしかすると、「誰でもよいあなた」を待ちながらも、誰にとっても同じ意味へと切り詰められた言葉はこの世界にはたくさんあるのかもしれない。この連載では、そのような言葉を、「誰でもよいあなた」を待つ言葉として読んでいきたい。投壜通信としてテクストを読むとき、そこには閉塞した現状の外に通じる突破口が開かれていることだろう。「みんなが右を向いたときには、左をよく見るくらいのことはしてください」。右を向いている言葉のなかで左を見ること。それは、岸辺を歩きながら手紙の入った壜を拾い上げることなのである。」

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