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談 no.128「特集◉オートマティズム…自動のエチカ」/ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』

☆mediopos3277  2023.11.7

「談 no.128」の特集では
シュルレアリスムのオートマティスム(自動記述)が
現代のAIとの関係を踏まえながら論じられている

『シュルレアリスム宣言』を行ったアンドレ・ブルトンは
シュルレアリスムを
「心の純粋な自動現象であり、それを通じて口述、記述、
その他あらゆる方法を用いつつ、
思考の真の働きを表現することを目標」とし
理性による一切の統御をとりのぞき、
審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外で行われる
思考の書き取り」であるとし
それに基づくオートマティスム(自動記述)を試みた

オートマティスムとは実際のところどういうものであり
シュルレアリスムにおけるそれはどんな試みだったのだろう

「談」のチーフ・エディター佐藤真氏によれば
オートマティスムとは
「「私」はもう一人の「私」と対峙することにより、
二重に、三重に重なり合った、
すなわち幾重にも重なり合った
層としての私自身を発見することにな」るように
「「私」のドゥーブル(複製: double)を
「私自身」のなかに見出し、
機械的に生成するプロセスだったのではないか」という

シュルレアリスム研究の鈴木雅雄氏は
「シュルレアリスムの展開には、
「コントロールできないかたちで
何かが向こうからやってくる」という
オートマティックな体験こそが重要だという発想が、
その根本のところにまずあった」としているが

「AIによって生成されたテクストは、
自分がつくったものでも、
他の誰かがつくったものでも」ない
「そういうわからないものと付き合うこと自体、
ひどくシュルレアリスム的な経験ではないか」という

とはいえ言語学の川添愛氏によれば
たとえばブルトンが
オートマティスムによる創作を初めて行った
『溶ける魚』のようなテクストは
AIによる生成での詩作・創作とはどこか異なっている

ひとには「不完全な言葉でコミュニケーション」を
行わざるをえない「人の個性」と言葉の曖昧さがあるため
「もう一人の「私」と対峙する」ことで
生成されてくるものとAIによる生成とは異なるのだ

シュルレアリスム研究の中田健太郎氏によれば
わたしたちは「自動的なシステムやAIの存在感」を前に
「自分の意識によって統御できる領域が小さく」なり
「自分が意識的に伝えたい真意の力、隠喩的な表現の力が
弱まっていくように感じられる」ようにもなるが

別の観点からみるとオートマティスムによって
「それを発した時点では気が付かなかったような意味」を
見出す可能性もそこにはあり
そうしたシュルレアリスム=オートマティックな実験を通じ
「むしろオートマティックなシステムとの関係のなかでこそ、
未来の「人間らしさ」が問われなければならない」のだという

私たちはすべてを自分の意識で統御し
表現を行っているわけではない
私が表現するといっても
私のなかには私の知らない私がいて
オートマティスム的な試みによって
多層をなしている「私自身を発見する」可能性も得られる

AIを信仰するかのように
オートマティスムに依存しまえば
「人間らしさ」は失われてしまうことになるが
人間の潜在能力をひらくものとして活用するときには
そのことで未来の「人間らしさ」を問うこともできる

そこにかつてのシュルレアリスムの試みを
新たに捉え直すことの意味もあるのだろう

■談 no.128「特集◉オートマティズム…自動のエチカ」
 (水曜社 益財団法人たばこ総合研究センター 2023/11/1)
■アンドレ・ブルトン(巖谷國士訳)
 『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(岩波文庫 1992/6)

※「企画趣旨」より

「アンドレ・ブルトンは、『シュルレアリスム宣言』において、シュルレアリスムを次のように定義した。「(シュルレアリスム)は、心の純粋な自動現象であり、それを通じて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の真の働きを表現することを目標とする。理性による一切の統御をとりのぞき、審美的あるいは道徳的な一切の配慮の埒外で行われる思考の書き取り」であると。
ブルトンは、宣言を起草する以前から、オートマティスム(自動記述)による試作を行なっていた。それは眠りながらの口述であり、思考より早い速度で書く試みであった。これは無意識や意識を排した状態を自らに課し、いわば狂気の側に身を委ねることと解釈された。しかし、ブルトンの本当の狙いは、じつはその先にあったのだ。狂気を飼い慣らすこと。つまりただ単に非理性的なものに表現力をもたせるだけでなく、これを生産的、あるいは創造的な行為に転嫁させる知的営為だったのである。自動化の問題系にあえてオートマティスムを召喚させる。理性と非理性の相反する二状態を同時並行的に生きること。それは、自動化それ自体を換骨奪胎することだ。」

(佐藤真「editor's note 宙吊り状態は、今も続いている」〜「未来にだけ窓を開く」より)

「ブルトンは『シュルレアリスム宣言』(1924年)のなかでシュルレアリスムの定義付けをしています。それによれば、「シュルレアリスム、男性名詞。それを通じて人が、口述、記述、その他あらゆる方法を用い、思考の真の働きを表現しようとする、心の純粋な自動現象オートマティスム。理性によるどんな制約もうけず、美学上ないし道徳上のどんな先入主からもはなれた、思考の書き取り」と定義されますが、それはそのままオートマティスムの定義にもあてはまりそうです。事実訳者の巖谷國士氏は、『シュルレアリスム宣言』とは、『溶ける魚』(初めてのオートマティスムによる創作)の序論に過ぎなかったのではなかろうか、と述べています。
 ブルトンは、また同書で「超現実的言語の諸形態でいちばんよく適合するのは、やはり対話においてである」と言っています。ただ、巖谷氏はその言明に納得しながらも、次のように付記します。「フィリップ・スーポーとブルトンとが向かい合って、あの自動記述の最初の実験であった『磁場』(1919年)の原稿を口述している有様を思い浮かべがちであり、事実またこの本のなかで両者の言葉のやりとりは大きな役割を占めているのだが、しかし、そういう実際的局面をはなれて、もっと本質的な対話、つまり、私のなかのもうひとりの〈私〉との対話という見地を、ここに加味しておく必要があるのではなかろうか」と。通常対話とは、自己と他者あるいは他者と他者の間で行われるものです。しかし、ブルトンは『宣言』において、それとは異なる対話の位相を提示しています。「私」が「私自身」と対話するというのです。
 フランスの批評家ミシェル・カルージュは、ブルトンとのディスカッションのなかで、オートマティスムの体験とは次のようなものだと述べています。「それは独白であるよりもむしろ、意識的人間と、その反対に秘密裡に全宇宙と交流している彼自身の失われた部分とのあいだの対話に他ならない」。もとより問題は、領域の区分ではない以上、ここまで図式化するのは適当ではないかもしれません。「オートマティスムの実践というものが、〈私〉との対話、一種の存在論的ディアローグの体験であったことは、明らかである。それも何かしら空漠とした、たとえばジョルジョ・デ・キリコの(絵画のなかの)街角のような、あるいはゴシック・ロマンスの城の広間のようなひとけのない場所で 、谺こだまのような尾をひいてひびきあう、多くははかばかしい手ごたえのない、自分自身とのはてしない対峙とも言うべき体験だ」というのです 。
 「オートマティスムとは、少なくともその原則において、予定された何かを書くことへの拒否であったと言えるだろう。しかもなおそれが何かを書いてしまうのだとすれば、それはいわば、書くいう行為自体をこそ書いてしまっているのだ、と言える場合があるのではなかろうか」。たとえば、シュルリアリストの画家イヴ・タンギーの絵が、予兆そのものと化した元素たちの風景をとおして、何か営々として描く行為自体を描いているように見えるのと同様に、ブルトンの詩にもまた、しばしば、こういう言い方を比喩以上のものと思わせるような傾向が見て取れそうだと言い、こう結論付けます。
 オートマティスムとは、「要するに、〈私〉を容器として開け放ち、何らかの客観的な〈私〉をそこに呼び込む行為なのだとすれば、ブルトンの作品がともするとひとけのない城、町、森のような空間を擁し、〈期待〉をこそその主たる情緒としていたのも当然であろう。これを一種の普遍的意識、客観的意識の介入にそなえるありかたと考えて、たとえばランボーの、〈誰かが私において考えるOn me pense〉の方法をそこに見ることができるだろうか。いやこの場合、そうした〈誰か〉の正体そのものよりも、私と不可分なその〈誰か〉と私自身との葛藤、あるいはその〈誰か〉の介在による、私と私とのあいだの葛藤の方が重要なのだ」というのです。
 「こうして二分されてしまった私と私とのあいだの、ときには悲劇的な、ときには滑稽な、ときにはグロテスクなものですらある対話、私の中の主役と敵役との、シテとワキとの鎬しのぎをけずるやりとりとしての対話————それをまさに言語の場としての発生の現場でとらえ、直接的な人生の舞台の上でくりひろげてゆく、いやむしろ、自らが演者でも観客でもあるようなかたちで、それを体験してゆく」というのが、いわばオートマティスムという方法の極限的状態だったのではないか。そして、おそらくその状況下において、「私」はもう一人の「私」と対峙することにより、二重に、三重に重なり合った、すなわち幾重にも重なり合った層としての私自身を発見することになるのです。あたかもミルフィーユのような「私自身」という「私」の実相に。オートマティスムとは、多少の言い過ぎを許してもらうとすれば、「私」のドゥーブル(複製: double)を「私自身」のなかに見出し、機械的に生成するプロセスだったのではないか、と思われるのです。」

(佐藤真「editor's note 宙吊り状態は、今も続いている」〜「人間機械論の隘路」より)

「今号は、シュルレアリスム=オートマティスムを取り上げます。ここで、自動化は超自動化へと生成変化します。
 20世紀のさまざまな文化運動のなかでのシュルレアリスムの特異性は、「作品」や「理論」の内容以上に、あらゆる種類の呼びかけに応じようとする執拗な身振りのうちにあったのではないかというのは、早稲田大学文学部教授の鈴木雅雄氏です。アンドレ・ブルトンとポール・エリュアールによって著された詩篇『処女懐胎』は、精神障碍者の言説の偽装実験だったことはよく知られています。精神障碍者の言葉を到達不可能なものとして聖別するのではなく、しかしそこから何らかの要素や方法を抽出して利用するのでもなく、それを一つの呼びかけとして受け取り、いわばそれにシンクロすることで応じようとする実験だったというのです。偽装されるものと偽装の結果との間に生じるさざ波のような何か。この呼びかけと応答のプロセスそれ自体がシュルレアリスムの運動だったと論じる鈴木雅雄氏にシュルレアリスムとオートマティスムの関係についてお聞きします。
 機械学習の基本的な方法は、機械にやらせたい仕事を人間が定義するところから始まります。それに合わせてデータを集め、機械に翻訳の仕方や音声・画像認識の仕方などを学習させる。この方法は、人間が定義できて、かつデータが集まりやすい仕事であれば非常にうまくいきます。今後も発達していくことが見込まれます。しかし、「笑わせよう」とか「泣かせよう」とする意志や欲求、感情をAIにもたせるのは、機械学習の方法では限界がありそうです。そもそも何ができれば「意志」をもつことになり、何ができれば、「欲求」や「感情」をもったことになるのか。肝心の定義が難しい。ましてや自動記述など夢のまた夢のように思えます。シュルレアリスムの詩的実践である『溶ける魚』をAIは書くことができるでしょうか。作家で自然言語処理を研究する川添愛氏にお聞きします。
 詩作や芸術制作におけるオートマティスムの働きにかんして、何らかの事前の意味の存在を前提とする考え方と、意味はオートマティスムの作用を通じて事後的に生成するとする考え方の両方がブルトンのなかに認められる、というのは静岡文化芸術大学文化政策学部国際文化学科講師の中田健太郎氏です。前者の考えに従う場合、「意味」が由来するさまざまな場所が想定されることに中田氏は着目し、初期のブルトンが、オートマティスムを作者が属する経験的世界の「外部」から届けられる「声」と関連付けて語る一方で、それとは正反対に、超自然的な「外部」を排除して、あくまで主体の内面にその由来を求めることもあったというのです。そして、この両義的姿勢にブルトンの特徴を見出せるのではないかというのです。「意味」をめぐるこの二つの考え方を、言語学者ロマーン・ヤーコブソンの二分法にしたがい、「隠喩的」なそれと、「換喩的」なそれと中田氏は名付けます。そして、精神分析の自由連想法に由来する「隠喩的な解釈可能性」と心理学・精神医学における「換喩的な言語の増殖」のいずれもがオートマティスムのなかに散見でき、換喩から隠喩への移行こそがオートマティスムの特徴だというのです。オートマティスムの誕生とその変遷について、オートマティスムの多義性という観点から捉え直します。」

(鈴木雅雄「呼びかけに応じる、しかし、何の?」より)

「シュルレアリスムの展開には、
「コントロールできないかたちで何かが向こうからやってくる」という
オートマティックな体験こそが重要だという発想が、
その根本のところにまずあった。
それを「書く」ことから「日常生活」へ、
「社会」へとどんどん広げていった、と、図式的にはそんなふうに捉えられると思います。」

「20世紀のさまざまな文化運動のなかでのシュルレアリスムの特異性は、「作品」や「理論」の内容以上に、あらゆる種類の呼びかけに応じようとする執拗な身振りのうちにあるものだったと鈴木氏はいう。シュルレアリストのアンドレ・ブルトンとポール・エリュアールによって著された詩篇『処女懐胎』は、精神障碍者の言説の偽装実験だったことはよく知られている。精神障碍者の言葉を到達不可能なものとして聖別するのではなく、しかしそこから何らかの要素や方法を抽出して利用するのでもなく、それを一つの呼びかけとして受け取り、いわばそれにシンクロすることで応じようとする実験だった。偽装されるものと偽装の結果との間に生じるさざなみのような何か、この呼びかけと応答のプロセスそれ自体がシュルレアリスムの運動そのものだったのだ。」

「シュルレアリスムのオートマティスムは、「自分のなかから出てきているけれども、自分にとって他者のようなものとして現れる」というものですが、たとえばコンピュータによって可能になる自動性は、私たちにとってどのように現れるでしょうか。今流行りのAIによって生成されたテクストは、自分がつくったものでも、他の誰かがつくったものでもありません。でもメチャクチャではなく、あるプロトコル、ある論理にしたがってつくられている。しかしそれがどんな論理によるものかは、私たちは、本当はよくわかっていない。だからそれは、今日お話してきたようなオートマティスムとはまったく違うようでもあるけてど、他方ではそういうわからないものと付き合うこと自体、ひどくシュルレアリスム的な経験ではないかとも感じます。
 それは将来的に、私たち人類がロボットとどう付き合うか、といった問題にもつながってくると思います。」

○鈴木雅雄(すずき・まさお)
1962年東京生まれ。早稲田大学文学部教授。専門はシュルレアリスム研究、イメージ文化史、近現代フランス文学。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程満期退学。パリ第7大学文学部博士課程修了(文学博士)。著書に『火星人にさよなら:異星人表象のアルケオロジー』(水声社 2022)、『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(平凡社 2007 )、編著に『シュルレアリスムの射程:言語・無意識・複数性』(せりか書房 1998)他。

(川添愛「生成AIは「溶ける魚」を書けるだろうか」より)

「もしかしたら他人に役割を課すこと自体が、
人をAI化したいと思うことにつながるのではないでしょうか。
会社や組織のなかで、人に「あなたはこれをして」「あなたはこれをして」と役割を振る時は、
構成員が組織に一体化して完璧に仕事を遂行することが期待されますよね。
それは、その人の機械的な面に期待していることになると思うんです。」

「機械学習の基本的な方法は、機械にやらせたい仕事を人間が定義するところから始まる。それに合わせてデータを集め、機械に翻訳の仕方や音声・画像認識の仕方などを学習させる。この方法では、人間が定義できて、かつデータが集まりやすい仕事であれば非常にうまくいく可能性が高く、今後も発達していくことが見込まれる。しかし、「笑わせよう」とか「泣かせよう」とする意志や欲求、感情をAIにもたせるのは、機械学習の方法では、到底無理である。そもそも何ができれば「意志」をもつことになり、何ができれは、「欲求」や「感情」をもったことになるのか。肝心の定義が難しい。ましてや自動記述など夢のまた夢である。シュルレアリスムの詩的実践である「溶ける魚」をAIは書くことができるだろうか。」

「社会の効率化を極限まで追求するのであれば、「人と完全にわかり合う」ことはすごく重要になりますね。とくに、世の中を自分の思っている方向に動かしたい時には、他人にも同じ方向に向かってくれることを期待してしまう。自分が良いよ思っていることをみんなも良いと思ってほしいし、自分がこうだと言っていることを相手にもちゃんと理解してもらって、そのとおりに行動してほしい。
 でも、それは人の個性を無視してロボット化することにつながりかねない。それに、実際に人間は一人ひとり違いますし、また言葉はどうしても曖昧で不完全なものですから、「完全な相互理解」はできないと思うんですよね。結局のところ、私たちは不自由さを感じながら、不完全な言葉でコミュニケーションをして、「きっとみんなで一緒に辿りつける未来がある」という幻想を共有しながら生きていく。みたいなことになるのかなと思います。」

「たとえば仲の良い人と今晩の予定を話す時に、ただ「飲みに行く?」と聞けるのって、すごく完結じゃないですか。主語や目的語を省略できない言語だったら、「あなたは私とお酒を飲みに行く?」と言わなきゃいけない。「飲みに行く?」「うん、行く」で済むのって、すごく楽ですよね。こんなふうに、曖昧さを許しているがゆえに、コミュニケーションしやすくなっている面があります。そこは曖昧さの二面性ですね。誤解を招くかもしれない面と、スピーディーにコミュニケーションがとれる面があって、面白うところだと思います。」

○川添 愛(かわぞえ・あい)
1973年長崎県生まれ。作家。専門は、言語学、自然言語処理。九州大学文学部文学科卒業。同大学大学院、南カリフォルニア大学、京都大学大学院にて理論言語学を専攻。博士(文学)。著書に『言語学バーリ・トゥード:Round1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(東京大学出版会 2021)、『ふだん使いの言語学:「 ことばの基礎力」を鍛えるヒント』(新潮社 2021)、『ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学』(角川新書 2020)、共著書に『私たちはAIを信頼できるか』(文藝春秋 2022 )他。

(中田健太郎「換喩から隠喩への逢着あるいはオートマティスムの多義性」より)

「「超現実」は、いろいろなことがロボットやAIに置き替わりつつある、
われわれが今生きるこの世界にも見られます。
それは、非現実的な夢の世界ではまるでなくて、
非常にきびきびと動く、新しいリアリティをもった世界だと思います。
かつてわれわれ人間がやっていたことを「過剰に合理化」している、オートマットにあふれた世界です。」

「詩作や芸術制作におけるオーテマティスムの働きにかんして、何らかの事前の意味の存在を前提とする考え方と、意味はオートマティスムの作用を通じて事後的に生成するとする考え方の両方がブルトンのなかに認められると中田氏はいう。前者の考えに従う場合、「意味」が由来するさまざまな場所が想定されることに中田氏は着目し、初期のブルトンが、オートマティスムを作者が属する経験的世界の「外部」から届けられる「声」と関連づけて語る一方で、それとは正反対に、超自然的な「外部」を排除して、あくまで主体の内面にその由来を求めることもあったというのである。この両義的姿勢にブルトンの特徴を見出すのである。「意味」をめぐるこの二つの考え方を、言語学者ローマン・ヤコブソンの二分法にしたがい「隠喩的」なそれと、「換喩的」なそれと中田氏は名付ける。そして、精神分析の自由連想法に由来する「隠喩的な解釈可能性」と心理学・精神医学における「換喩的な言語の増殖」のいずれもがオートマティスムのなかに散見でき、隠喩と換喩の往還運動こそ、オートマティスムの特徴だというのだ。オートマティスムの誕生とその変遷をオートマティスムの多義性から捉え直す。」

「オートマティスムの概念は、精神分析の「自由連想」のような隠喩的な自動性や、精神医学の「観念連合」のような換喩的な自動性といった、多様な自動性を抱え込んでいらからこそ、こういった移行(換喩から隠喩への移行)も理論の射程に入ってきたのでしょう。
 一点付け加えておくと、シュルレアリスムの初期から、ブルトンは自動記述だけではなく、コラージュの重要な表現方法として定めていました。コラージュというのは、自分の外にある要素を利用した。まさに換喩的な操作だと思いますが、そのような表現によっても、いつか自分にとっての隠された意味、いわば「未来の隠喩」を、見出すことができるかもしれない。
 このように考えてみると、ブルトンが生涯をとおして、非常に長い期間にわたってオートマティスムを考え続けたのが、やはりとても重要なことだったのだと思います。長い歴史をとおして、オートマティスムの概念が検討されるうちに、コラージュや自動記述の実践が、換喩から隠喩への移行を起こして、「客観的偶然」に至ったのでしょう。
 オートマティスム論は、ブルトンの詩論としては、このように展開していきました。ただこれは、今日も話題にあがったように、現在のわれわれをめぐる状況にもかかわってくる話だと思います。自動的なシステムやAIの存在感が非常に大きくなっていくなかで、自分の意識によって統御できる領域が小さくなっていると感じている人も多いでしょう。それにともなって、自分が意識的に伝えたい真意の力、隠喩的な表現の力が弱まっていくように感じられるかもしれない。自分が伝えたかったはずの言葉が、自動的なシステムのなかで換喩的にズレていって、別の記号に変換されていってしまう。そして、もともと言いたかったことや思っていたはずのことが、自分でもどんどんわからなくなっていくような感じがする。ただ、そのようにズレていってしまった自分の言葉が、それを発した時点では気が付かなかったような意味を伝えてくれる日は、来るのかもしれない。オートマティスムは、そういう可能性を示した実験だったのではないでしょうか。」

「むしろオートマティックなシステムとの関係のなかでこそ、未来の「人間らしさ」が問われなければならない。ブルトンのオートマティスム論は、二〇世紀の早い段階から、そのための可能性を示していたかもしれません。」

○中田健太郎(なかた・けんたろう)
1979年東京都生まれ。静岡文化芸術大学文化政策学部国際文化学科講師。専門はシュルレアリスム研究、フランス文学、視覚文化論。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。博士(学術)。著書に『ジョルジュ・エナン:追放者の取り分』(水声社 2013)、編著に『マンガメディア文化論:フレームを越えて生きる方法』(水声社 2022、鈴木雅雄と共編)、論文に「オートマティスムの声は誰のもの?:ブルトン、幽霊、初音ミク」(『声と文学:拡張する身体の誘惑』所収、平凡社 2017)他。

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