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ルドルフ・シュタイナー『霊界の境域』

☆mediopos2828  2022.8.15

ルドルフ・シュタイナーによる連続講義
「人智学に於ける哲学、宇宙論、宗教」は
1922年9月6日から15日にかけて行われ
1930年にマリー・シュタイナーによって
単行本として出版されたと記載されているが

その副題には
「ルドルフ・シュタイナーによって著述された
霊学的認識の瞑想過程」とあるように
そしてそれが最晩年の講義であることもあり
瞑想行に関する重要著作のひとつとみなされている

邦訳されている『霊界の境域』には
霊的修行に関する講義
「霊界の境域」(1913年)
「霊的認識の階梯」(1905−1908年)が
あわせてその順で収められ
『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』
『神秘学概論』の理解をより深める内容となっているが
重要な講義であるにもかかわらず参照されることは少ない

今回は先日来「哲学」そのものの営為について
何度かふれてきたこともあり
「哲学」という営為のほんらいについてのことを中心に
あわせて「宇宙論」「宗教」とは
ほんらい何なのかについて
示唆しているところを以下に引用紹介した

なぜ現代の哲学には現実性が感じられないままなのか
なぜ現代の宇宙論では物質的な様相しか探求されないのか
なぜ現代の宗教では智と信が別れてしまっているのか

この講義のなかでは哲学・宇宙論・宗教における
人智学の3つの課題が示唆されている
そしてそのことで人間存在全体を認識する基礎となる
基本的な見取り図とその認識を得るための視点が得られる

哲学に再び現実性を取り戻すことが第一の課題である

かつて総合的な認識の仲介者であった哲学から
いまでは現実性が失われ
抽象的な理念の総合となっているが
人智学によってエーテル的な認識が獲得される

人間を全体を包括する宇宙論を構築することが
人智学の第二の課題である

かつて宇宙の内面生活を観照していた宇宙論から
人間のアストラル実質についての認識が失われ
自然科学が承認したものだけに立脚する学問となっているが
人智学によってアストラル体についての認識が再び獲得される

科学を宗教生活の基盤とすることが
人智学の第三の課題である

かつて神界についての認識と結びついていた宗教から
霊人を暗示していた「自我」の本質を見失ったことから
かつてひとつのものだった智と信が
二つの体験内容となってしまっているが
真の「自我」の観想的認識を獲得することで
「自我」「霊人」が認識される

現代のような唯物論的な世界認識であれば
現代へと近づくほどに認識は深まるはずだが
むしろ古代の叡智が求められるのはなぜだろう

たしかに古代における認識は
ある意味で高次のものだったのだが
そのときの意識状態は
現代人が夢を見ているときのような意識状態で
現代人のような意識的なものではなかった

人智学の課題はかつてのような叡智を
意識的に獲得しさらに深めることであるともいえる

けれどともすれば高次のものであった古代の叡智へと
逆行してしまいがちな態度もみられるが
それは決して新たな認識を獲得することにはならない

現代においては
現代人にふさわさしい認識と
それを獲得するための高次の感覚が求められる
そのことを忘れたとき
すべては過去へと逆行する倒錯したものとなりかねない

■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)『霊界の境域』
(神秘学叢書 水声社 1996/5)

(『霊界の境域』〜「宇宙論・宗教・哲学/1 人智学の三つの課題」より)

「哲学はかつて総合的な認識の仲介者であつた。人間は哲学から現実世界の個々の領域の認識を得てゐたのである。個々の学問は哲学から生まれた。それでは、何が哲学に残つたのであらうか。多かれ少なかれ抽象的な理念の総合である。この抽象的理念によつて、哲学は他の学問に対して自己の存在の正当性を主張するののであるが、この正当性は感覚的な観察と経験の中に見出されるのである。哲学の理念は何に関連してゐるのであらうか。(・・・)哲学の諸理念の中に直接、現実を体験することはもはやないので、この現実性を理論的に基礎づけようと哲学は努力してゐる。
 哲学という言葉が智への愛を表はしてゐるやうに、哲学は単に悟性的な事柄ではなく、人間の魂全体の問題である。人間が「愛する」ことができるのは、このやうな魂全体に関はる事柄である。智はかつては現実的なものと感じられていた。単に理性と悟性だけが関与するものは「理念」にはなり得なかった。哲学は魂の熱の中で体験された人類的な事柄から、乾いた冷たい知識へと化してしまつた。哲学的思惟に没頭する時、もはや現実性を感じることはなくなつた。
 かつて哲学が現実の体験となり得たものが、人間自身の中から失はれたのである。感覚的な科学は感覚を通して媒介される。悟性が感覚によつて観察されたものについて思考するものは、観察を通して媒介された内容の総括である。この思考は固有の内容を有してはゐない。このやうな認識を生きることによつて、人間は自分を単に肉体として認識する。けれども、哲学は何よりもまづ、肉体によつては体験することのできない魂の実質内容なのである。魂の内容は感覚によつては知覚することのできない組織体によつて体験される。この組織体は、肉体の土台となつてゐるエーテル体である、エーテル体は超感覚的な諸力を内包し、肉体に形態と生命を与へてゐる。エーテル体組織は、肉体を使用するのと同じやうに、使用することができる。ただ、肉体は感覚を通して感覚界から理念を形成するのに対し、エーテル体は超感覚界から理念を形成する。古代の哲学者はエーテル体を通して理念を発達させた。人類の精神生活からこの認識の器官としてのエーテル体が失はれたことによつて、同時に、哲学から現実性といふ特徴が失はれた。哲学は単なる理念体型になつてしまつた。再び、エーテル的な認識が獲得されねばならない。さうすれば、哲学は再び現実性を取り戻すことができる。これが人智学の第一の課題である。」

「宇宙論はかつて、人間が宇宙の一員なることを開示するものであつた。人間の体だけでなく、魂も、霊も宇宙の一員とみなす必要があつた。そのことを通して、宇宙の中に魂的なものと霊的なものが見られるやうになつた。近代に於いて、宇宙論は単に数学と観察と経験を通して自然科学が承認したものの上に立脚する一つの学問になつてしまつた、このやうな方法によつて探求されるのは宇宙生成の一つの光景である。この光景からは、おそらく人間の肉体が理解されるであらう。けれども、エーテル体は既に理解不可能なものとなり、まして、人間の魂と霊はこの光景から理解されることはない。宇宙のエーテル実質が洞察される時、エーテル体は宇宙の一員として認識される。けれども、宇宙のエーテルは人間にエーテル組織を与へるにとどまる。魂の中には内面生活が存する。宇宙の内面生活を洞察しなければならない。古代の宇宙論はこの宇宙の内面生活を観察してゐた。この宇宙の内面生活の観照を通して、エーテル的なものを越え出る人間の魂的実態も宇宙の一員となる。現代の精神生活には、魂的内面生活の実際についての洞察が欠けている。現代の精神生活の体験内容に、生と死の彼方に生命が存するといふことについての保証は何もない。今日、魂は肉体の中に、肉体と共にあるものとして幼年期を通して成長し、肉体の死とともに消滅すると考へられてゐる。古代の人間偈苦は人間の魂の本質についての知識を有していた。今日ではその名残が残ってゐるにすぎない。この魂の実質が人間のアストラル実質と見なされてゐた。人間魂的実質は思考、感情、意志の中で体験されるのではなく、思考、感情、意志の中に反映してゐるものなのである。思考、感情、意志が宇宙の中に組み入れられてゐると考へることはできない。思考、感情、意志は人間の肉体的存在の中にしか生きてゐないのである。それに対して、アストラル実質は宇宙の一員と理解することができる。アストラル実質は誕生の時に肉体に入り、死と共に肉体から去る。誕生から死までの人生を通じて、思考、感情、意志の背後に隠されるもの————つまり、アストラル体————が宇宙的存在なのである。
 人間のアストラル実質についての認識が失はれたことにとゆて、人間を包括することのできた宇宙論もまた失はれた。単なる物質的宇宙論となつてしまつたのである。現代の宇宙論は人間の肉体の原理しか包含してゐない。人間のアストラル体についての認識を再び獲得する必要がある。さうすれば、再び人間全体を包括する宇宙論を構築することができる。
 これが人智学の第二の課題である。」

「宗教は、元来、誕生から死までの間の人間存在を構成する肉体的、エーテル的実質、及び、人間の肉体的、エーテル的実質と共に働く宇宙とは独立したところで持たれた体験の上に構築されてゐた。この体験から本来の霊人が形成される。我々に有してゐる「自我」といふ言葉のみが霊人を暗示する・
(・・・)
 近代人は「自我」の本質を見失つてしまつてゐる。哲学者は、「自我」の中に魂的体験の総括を見るだけになつた。「自我」、霊人についての認識を有してゐた理念は眠りの中で消散する。眠りの中で、この「自我」の内容は消え去るからである。このやうな自我についての知識しか有さぬ意識は、宗教の認識に合致することはできない。このやうな意識は、睡眠による自我の消却に抵抗するものを何も持たないからである。真の自我についての認識は現代の精神生活からは失はれてしまつた。それと共に、智から宗教へと向かふ可能性も失はれたぼである。(・・・)宗教は科学的体験とは別のところで獲得すべき信仰内容となつた。智と信は二つの体験内容となつた。かつては、智と信は一つのものだつたのである。
 宗教が人間生活の中で再び正しい位置を得るためには、まづ真の「自我」の観想的認識を獲得しなければならない。現代科学は人間の肉体しか現にあるものとして了解してゐない。人間のエーテル体、アストラル体、そして「自我」あるいは霊人が認識されねばならない。それが可能になれば、科学は宗教生活の基盤となる。
 これが人智学の第三の課題である。」

(『霊界の境域』〜「宇宙論・宗教・哲学/2 思考・感情・意志に関する魂の修行」より)

「哲学は今日あるやうなものとは異なつたものとして発生した。今日ある哲学によつては、魂の中の内なる理念との関連を体験することができず、自己意識を有した人間は哲学に現実性を感じることができなくなつている。どうすれば哲学が現実との関連を持つことができるかを、様々な理論は証明しようとしてゐる。けれども、このやうな方法によつては、相対的な正当性しか持たない様々の哲学大系が構築されるだけである。といふのは、それらの哲学大系の正当性を立証するのと同じ位十分な根拠を以つて、その大系を否定することができるからである。
 人智学は、理論的考察によつては哲学の現実性は獲得できないと考へてゐる。一面に於いては古代の哲学が有してゐた認識方法に似たものによつて、他面に於いては近代の数学と自然科学の方法を完全に意識した認識方法の形成によつて哲学は現実を獲得するのである。
 古代の哲学の認識方法は半ば無意識的なものであつた。現代人が夢を見てゐる時のやうな意識状態を有してゐたのである。内容の現実性を保証しないやうな夢の中を生きてゐたのではなく、その内容を通して現実を示唆するやうな白昼夢の中を魂は生きてゐた。このやうな魂の内容は、今日のやうな抽象的な表象ではなく、具象的な表象を有してゐた。
 このやうな魂の内容が再び隠されねばならない。しかし、全く意識的に、現在の人類の進化の状況に適した仕方で、この魂の内容を再び獲得しなければならない、科学的思考の中に存するやうな意識状態の中で、この魂の内容を得なければならないのである。人智学はこの魂の内容を、超感覚的認識の第一段階であるイマジネーション意識状態に於いて獲得しようとする。この意識状態は瞑想的な魂の修行を通して得ることができる。瞑想中、魂の生命の全ての力は、容易に全体を見渡すことのできる表象に向けられ、力に満ちた休らぎの中で、魂の力はこの表象に集中される。このやうな修行が長期間に亙って繰り返し行なはれると、ついには、魂が体から解放されたといふ体験が生じる。日常の意識に於ける思考は、全て霊的な活動の反映であるといふことが明瞭に認識される。今まで無意識なものに留まつていた霊的活動が、肉体組織をその活動の中に取り入れることによつて意識化される。日常的思考の全ては、超感覚的な霊的活動を模した肉体組織に依存している。ただ、その際、肉体組織が意識に上らせるものだけを意識してゐるのである。
 瞑想によつて、霊的活動は肉体組織から引き離される。そして、魂は超感覚的な仕方で超感覚的事象を体験する。肉体組織の中で魂的な体験が持たれるのではなく。エーテル組織の中で魂的体験が持たれるのである。具象的な像の表象を修行者は持つやうになる。
 この表象の中に、成長力として、また、養分摂取の規則の中に働く基盤となる力として超感覚的世界から有機体に与へられる諸力の姿が見られる。生命力を観想することによつて、この力の像が得られる。これがイマジネーション認識の段階である。修行者はエーテル組織の中に生きるやうになる。エーテル組織を通して、人間はエーテル宇宙の中に生きる。人間のエーテル組織と宇宙のエーテル組織との間には、物質界に於ける主体と客体のやうな明瞭な境界はない。
 イマジネーション認識の体験の中で、古代の哲学の内容を追体験することができる。そして、新しい哲学を構想することができる。真の哲学の構想はイマジネーション認識を通してのみ成立する。イマジネーション認識を通して完成された哲学は、日常の意識によつて把握、理解されるやうになる。イマジネーション体験を霊的(エーテル的)な現実に適つた型の中で語る哲学の内容は、日常意識による追体験を通して受容される。」

「宇宙論はイマジネーションよりも高次の認識行為を必要とする。瞑想が進むと、この高次の認識を獲得することができる。ただ単に、魂の内容に集中的な静寂を作り上げるだけではなく、魂が瞑想によつて得た内容を意識から消し去った後で、実質のない魂の生は苦の中に確固として留まる必要がある。宇宙の霊的実質が、実体のない魂的生命の中に流れ込んでゆく。さうなると、インスピレーション認識の段階に達したことになる。感覚の前に物質的宇宙が広がつてゐるように、修行者の前に霊的宇宙が広がる。修行者は霊的な宇宙の諸力の中に、人間と宇宙との間の呼吸作用の中で霊的に生起するものを見る。この呼吸過程、その他の律動的な動きの中に、アストラル組織が、地上での生活が終わつた後でも、また地上での生活が始まる前にも霊的宇宙の中に存在し、受胎と誕生を通して肉体組織を纏ひ、死によつて肉体を捨てる有り様を見る。この認識を通して神秘学徒は遺伝と、霊界から携えてきたものとを区別することができる。
 インスピレーション認識を通して、宇宙論が獲得される。宇宙論は人間を魂的・霊的存在として包括する・インスピレーション認識はアストラル組織の中で育成されてゆく。インスピレーション認識によつて、修行者は肉体の外で霊的宇宙の中の存在を体験する・インスピレーション認識はエーテル組織に現はれる表象の中で言語に移され、哲学と結びつくことができる。このことを通して、宇宙哲学が生まれる。」

「宗教的認識のためには第三の超感覚的認識が必要とされる。インスピレーション認識内容の中で具象的な像として自らを啓示した諸存在の内部へ潜り込んでゆかねばならない。今まで述べてきた瞑想に、魂の意志の行が付け加へられることで、このことが可能になる。例えば、物質界で生じた事柄の順序を逆にして、後から前へと表象しようとすることによつて、通常の意識に於いては用ゐられることのない意志の経過を通して、宇宙の表面的内容から魂を引き離し、インスピレーションの中で自らを啓示した諸存在の中に沈潜するのである。真のイントゥイション、すなわち、霊界の存在との共同生活が始まる。この体験はエーテル体と肉体に反映し、この反映の中で宗教的意識内容が生じる。
 イントゥイション認識を通して、霊界に浸つている「自我」の本質を観ることができる。通常の自我の意識の中に存するものは、この自我の真の姿の極く幽かな余韻でしかない・インスピレーションによつて、地名のこの微かな反照が、真の自我が属する神的原宇宙との合一を感得する可能性が得られる。また、イントゥイションを通して、睡眠中、いかに霊人すなはち真の「自我」が霊界で生き続けるかを見通すことができる。この状態で、肉体とエーテル組織は律動過程の新生を必要とする。日中、「自我」はこの律動と肉体の新陳代謝過程の中に生きている。睡眠中、この律動と新陳代謝は肉体とエーテル組織の中で行なはれ、アストラル組織と「自我」は霊界に生きる。インスピレーション認識とイントゥイション認識の中で、神秘学徒は意識をもつて霊界に参入する。感覚を通して物質宇宙の中に生きるように、これらの高次の認識を通して修行者は霊的宇宙の中に生きる。この段階で、修行者は宗教的意識内容について、はつきりした認識をもつて語ることができるやうになる。霊的な体験が人間の肉体とエーテル体に反映し、その反映像を言語で表現することができる故に、宗教の本質について語ることができるのである。この表現形式の中に、通常の意識心情にとって宗教的に理解可能な内容が込められている。」

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