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坂部恵『モデルニテ・バロック―現代精神史序説』/『坂部恵―精神史の水脈を汲む』/川中子義勝『ハーマンにおける言葉と身体』

☆mediopos3234  2023.9.25

「はじめにことばがあった」

その「ことば」は「神」であり
「神」は「ことば」だった

ギリシャ語では「ロゴス」

その「ロゴス」が
ラテン語に訳されて
「ラチオ」と「ヴェルブム」に

ラチオは「理性」
啓蒙の「ラチオナリスムス」へ
さらにはカントの『理性批判』の哲学へ

「ヴェルブム」は
神の「ことば」でもある「息吹」
その「ヴェルブム」は「ラチオ」の覇権のもと
隠されたバロック的地下水脈となっていった

その「ヴェルブム・メタフィジーク」の源流は
ヘレニズムやビザンチンの世界
ギリシャ教父の世界であり
それがクザーヌスへ
ライプニッツへ
ヘルダーへ
そしてカントと同時代において
カントの『純粋理性批判』に対する
ハーマンの『理性の純粋主義のメタ批判』となっていった

カントVSハーマンは
必ずしもラチオVヴェルブムそのものではない
ハーマンは理性と言葉を別のものだとはしていないからだが
「言葉は理性の子宮」だと言い
理性はむしろ言葉から生まれるのだとしている

「カントの理性批判のもとでは、言葉はX」
といった記号になってしまうが
骨組みだけだとしてもその記号も言葉ではあるのだというのだ

しかしハーマンのいうほんらいの「言葉」は
まさに神が人ともなったという「ことば」であり
それゆえに「身体の言葉性」が強調されている
それは身体性の失われた単なる理性ではない

「万物はことばによって成った
成ったものでことばによらずに成ったものは
なにひとつなかった
ことばのうちにいのちがあった
いのちはひとを照らす光であった」(ヨハネ伝)
のである

神はそのために
ことば=身体をもって世にあらわれた

カントは「理性(ラチオ)を抽象的に
「ユニヴァーサルなコンセプト」としたが
ハーマンはそうしたコンセプトなしに
「常に人と人のあいだに」ある
身体性をもったヴェルブムを示唆したのである

昨今のAIの「ことば」には
身体性は存在せず
ラチオマシーンでしかない

AIは身体性をもった「人」に対してはいない
「人」の抽象的なラチオと
身体性をもたない「ことば」をやりとりしているだけだ

人は息ととともに身体をもって生まれる
その息はラチオではなくヴェルブムである

■坂部恵『モデルニテ・バロック―現代精神史序説』(哲学書房 2005/4)
■『坂部恵―精神史の水脈を汲む』(別冊水声通信 2011/6)
■川中子義勝『ハーマンにおける言葉と身体/聖書・自然・歴史』(教文館 2023/3)

(坂部恵『モデルニテ・バロック―現代精神史序説』〜「バロックの復権は哲学史をどう書きかえるか/二十世紀哲学の回顧と二十一世紀の展望」より)

「ギリシャ語の「ロゴス」は、ラテン世界に入って主として二つのちがったラテン語によって訳されて受け継がれます。「ラチオ」と「ヴェルブム」がそれです。前者はもちろん「理性」の意味、後者はギリシャ語といっても古典期のそれではなくヘレニズム期にヘブライ語の「ダーバール」をはじめとする中近東語のバイアスを大いに受け、新プラトン主義の流出説の裏打ちをもった「(世界を)生み出すことば」、息吹といった意味、新約聖書ヨハネ伝冒頭で「はじめにことばがあった」といわれるあの「ことば」、神言です。「ラチオ」は、やがて啓蒙の「ラチオナリスムス」、合理主義を生み、カントの『理性批判』の哲学に行き着きます。一方、「ヴェルブム」(ガダマーのいうヴェルブム・メタフィジーク)は、近世での「ラチオ」の覇権のかげにむしろ地下水脈に甘んずることを余儀なくされますが、それでも絶えたわけではない。バロック的なライプニッツの哲学は、力を本源と見、そこからの万象の生成を考える(ライプニッツにとっての微積分演算はこの生成をミニマムのレベルからシミュレートする方法です)点でヴェルブム・メタフィジークの後継者と見なされうるでしょう。

 このライプニッツの発想に影響されるところから、ヘルダーは「言語起源論」を構想します。そこには、ヴェルブム・メタフィジークの生粋の後継者とも見なされうるハーマンの影響がオーヴァーラップしていました。カントの『純粋理性批判』にたいしてハーマンは『理性の純粋主義のメタ批判』を書き、その構想を敷衍ふる形でヘルダーは『純粋理性批判のメタ批判』を書きます。ここにあらわれる対立は、まさに、「ラチオ」と「ヴェルブム」という、もとはひとつの「ロゴス」から出た二つの流れの対立、近世の正統対バロック的地下水脈の対立ということはできるでしょう。

 ヴェルブム・メタフィジークの源流をさかのぼってゆくと、わたしたちはおのずからニコラウス・クザーヌスあたりを仲介にして、ヘレニズムやビザンチンの世界、ニッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオス、ダマスコのヨアンネスといったギリシャ教父の世界に行き着きます。(ベンヤミンもバロックの源流としてビザンチンの世界に注目しています)。古典古代にたいしてこのあたりを一段低く傍流と見る考えはそろそろ本格的に批判の対象とされてもよいのではないでしょうか。
 バロックとは、ともあれ、こうして、さきに見たようにモデルニテと通底してひとつの時代のおわりに立ち会いつつある者の生と思考のスタイルにほかならず、一方でビザンチンや中世の水脈につながりそれらの見直しと再評価をうながすものとして、千年単位の歴史の展望と見直しへとおのずからわたくしたちを誘うのです。」

(『坂部恵―精神史の水脈を汲む』〜坂部恵+川中子義勝+黒崎政男+山内志朗 司会=小林康夫「ratioとverbumあるいはカントvsハーマン」より)

「黒崎/ヴェルブムverubumに対比される概念として出ているのはラチオratioですよね、ラチオに対比される概念としてヴェルブムというのは何かというのをどなたか。ラチオ対ヴェルブムというのはカント対ハーマンでいいんですね。

 山内/いいじゃないでしょうか。ヴェルブムというのが、ポリフォニーを表現するものである限りはそれでよいかと思います。

 小林/ユニヴァーサルなコンセプトが立つカントさんと、絶対人と人のあいだにしか立たないヴェルブム。ヴェルブムのほうは、コンセプトをともなわず、常に人と人のあいだにしかない。カントは困りますよね。

 川中子/ハーマンは、言葉は理性の子宮だと言っています。理性と言葉が全く別の領域にあるとは言っていないと思います。『メタクリティーク』には、カントの理性批判を「古来の冷たい数学への先入見」と揶揄した部分があります。「言葉の〈実直さ〉をかくも無意味にして安易、不安定かつ不確実な何ものか=Xへともたらす。」カントの理性批判のもとでは、言葉はXになってしまう。記号です。でも記号Xもやはり言葉です。言葉というのはあまりに貧弱で、骨組みだけしか残っていないかもしれませんが、やっぱりそれは言葉なのです。その前に、幾何学すら「線や平面という概念の持つ〈理想性〉を経験的な記号やイメージによって規定し、形作る」と書いています。数学もやはり言葉であり、言葉を語っていると言っているんです。言葉には、そのように単純な言葉もあるけれども、神の受肉した言葉というのはそういう骨組みだけの言葉ではないというのですね。そういう含蓄ある言葉の方が本来の言葉であり、そこから理性のほうが大元だと言って、理性だけを追求していくと言葉が痩せてしまう。しかし痩せてもまだ言葉として存在はしている。ただ貧弱なものに貶められているとハーマンは言いたいので、言葉と理性の対決を言ってはいないと思います。理性のほうが言葉から生まれてくるということを言っている。

 黒崎/ロゴスがラチオとヴェルブムに・・・・・・。

 坂部/ラテン語の世界では、ロゴスlogosがラチオratioとヴェルブムverbumに分かれていく。ハーマンが「風のそよぎ」「魔術的な影絵芝居」と言っているのは面白いと思いました。詩人ですから、そういうものに神を感じるところがあるんですね。ここでやり玉に挙げられているものはカントの超越論的主観=Xです。Xとしかいえないが、それはある、という。それから受難というのは、先ほど話題になっていたへりくだりと密接な関係がある。ほとんど同じといってもいいと思います。そこのところをハーマンは非常に強調します。僕が興味を持っているヘルダーとはちょっと違うんですね。ヘルダーに対してハーマンはかなり批判的な意識を持っている。カントに対してではなく、ヘルダーに対しても批判はいろいろな形であるでしょう。これはこれで面白い話です。ハーマンの独自性が見えてくるのではないでしょうか。ヘルダーはカントよりはハーマンに近いところがある。たとえば民謡に着目して、これは神の言葉だけれども人間の言葉だと言ってみたり、いろんな民族の言葉を蒐集しようとして、世界中のいろんな民謡を集めてドイツ語に訳して出版したりしている。ヘルダーに対してハーマンは素直に共感できない。それもまた面白いところだと思います。」

(『坂部恵―精神史の水脈を汲む』〜川中子義勝「語りとは翻訳である/『子供の自然学』執筆をめぐるハーマンのカント宛書簡を中心に」より)

「「語る」ことは「翻訳する」ことである、とハーマンは言う。ある者の理解の地平にあるひとつの表象は、語や名称、記号へと置き換えられ、他者の理解の地平へと移される。人間は純粋理性ではない。生身の現実において人間は、ものごとを俯瞰することなく、専らその主観的方向付けに従って像を受け止め、また形作る存在である。「感覚Sinneと激情Leidenschaftenが語り、解するのは形象Bild」のみ。人間は「像」の世界に生きている。像を作る、すなわち再翻訳するとは、語や名称や記号を他者の前提のもとで理解しうるものとすることである。この点に関して、哲学の言葉も同じことをしているのではないかとハーマンは示唆する。哲学の著作も「翻訳」をこととすると。ただしその場合にも、純粋に客観的な事柄(だけ)が問題ではなく、伝達の能力が問われてくると。他者一般への伝達ではなく。言葉もそのつどの使用を受け入れる生身の他者こそが顧みられなばならないと。普遍的ロゴスそのものを持つ者はいないからである。互いに有限な者として、その都度特定の他者が解しうるように語るという課題がそこにある。カントにおいては、主観性の統一のもとで、思考と言葉が相互に影響し概念を形成する、言語使用の一致の条件を示すことが課題となる。それは普遍言語に近いものとして相手が誰であれ当てはまるはずとされる。しかしハーマンはこれに対して、そのような関心はやはり、相手となるべき存在を見てはおらず、自己の内に閉じこもる姿勢ではないかと指摘する。哲学言語のそのような自己関係性を、他者を欲しない自己完結、言葉の自給自足として批判する。その批判の姿勢は、『子供の自然学』を間グル交渉、また『純粋理性批判』へのメタクリティーク、そのいずれにも通底する。
 この批判はさらに、カント『啓蒙とは何か』をめぐる交渉にも引き継がれる。ハーマンにとって「啓蒙」とは単に、「他者の助けなくして自己自身の悟性を用いること」ではない。普遍的悟性を目指す者は、歴史的偶然や経験の特別性のみならず個々人の弱点・欠点をも考慮に容れず、これを抽象化する。ハーマンにとっては、まさにそのような個々人の欠点こそが、他者に対して何事かを言いうるための前提となる。未成熟者の未成熟を怠惰と怯懦として「責任(罪)」有りと宣言するカントの啓蒙観に対して、ハーマンは成人への障害となる「未成熟」は、人を未成熟と決めつける当の者の内にも存在すると示唆した。「民の後見人を自負する知識人には、知識人なりの未成熟がある。その時代に抑圧される人びとの未成熟を「怠惰と怯懦」と攻める驕りと自足こそが、除かれるべき「未成熟」であると。」

(川中子義勝『ハーマンにおける言葉と身体/聖書・自然・歴史』〜「第5章 ハーマンにおける「言葉」と「身体」」より)

「言葉と身体こそは、ハーマンが自ら、彼の考察の隅の首石となしたものであった。彼はその著作において、つねに身体の言葉性を強調する。しかしまた、それ以上に言葉の身体性をその恥部として際立たせる。「神と人との属性の交流」としての言葉の歴史的事実こそは、言葉に、現実性のきわめて深い意味を与え。これを自由に、また生き生きと動かすのである。理性の信奉者たちは、これをただ純化すれば足りると考える。すなわち歴史における、また言葉における具体的な一回性、すなわち(ハーマンに言わせれば)世界に充ちみちている神の受肉(「へりくだり」)を、蔑み軽視する。これは、ハーマンにとって、理性の自己毀損であった。これを示すことが彼の著作活動の究極の目的であったといえよう。その際に、書物そのものの身体、すなわち、文体や語り口は、これまで見てきたように、決定的な役割を果たしている。」

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