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伊藤邦武「啓蒙の光と影」 (『世界哲学史 6』)/坂部 恵『理性の不安』

☆mediopos2725 2022.5.3

光のあるところには影が生まれる

啓蒙というEnlightenmentは
理性の光によって
生まれてくる影とともにある

光そのものは見えない
光として見ているものは
じっさいは光を反射しているものだ

光が当たっていなければ不安だが
光が当たっているからこそ不安も生まれる

世界において現象するものは
ことごとくそうした両義性を抱え持っている
片方だけをとりだすことはできない
両者はつねに同時に現象する

規則をつくることで
規則に反することが生まれる
正しさをつくることで
不正が生まれる
現代のような管理社会への傾斜も
安心・安全の反作用として生まれている

その意味で啓蒙の時代は
光を強めようとしたがゆえに
影を強めることになった時代だ

西洋近代の啓蒙の思想がイギリスの名誉革命
アメリカの独立戦争・フランス革命を生んだときも
そこには暴力という影が生まれたように

理性だけが勝つことはない
むしろ「理性は情念の奴隷」だ
といったのはヒュームである

感情の複雑さを解せない理性は暴走する
もしくは理性そのものが機能しない
平和を求めるときも
その平和の複雑さを解せないとき
平和そのものが成立し得なくなり
平和そのものがスポイルされてしまうように

光と見えるもののなかにも闇があり
闇と見えるもののなかにも光がある
光と闇が錯綜し干渉し合いながら
現象する色彩の妙をとらえ
いかに理性と感情を芸術的に昇華させるか
それが「中庸」としての光と闇の課題だともいえる

■山内志朗×中嶋隆博×納富信留
 「Ⅰ世界哲学の過去・現在・未来/第1章 これからの哲学に向けて〜
  『世界哲学史 6 ――近代Ⅰ 啓蒙と人間感情論』」
(『世界哲学史 別巻 ――未来をひらく』ちくま新書 2020/12 所収)
■伊藤邦武「第1章 啓蒙の光と影」
(『世界哲学史 6 ――近代Ⅰ 啓蒙と人間感情論』ちくま新書 2020/6 所収)
■坂部 恵『理性の不安―カント哲学の生成と構造』
 ( 勁草書房; 改装版 2001/6)

(『世界哲学史 別巻 ――未来をひらく』より)

「中島/わたしたちは今回、感情を強調しましたが、通常一八世紀は理性の啓蒙の世紀だと言われてきました。もちろんそれは全然間違っておりません。感情を読み直したうえで、もう一度理性や啓蒙の問題を振り返ってみると、どういうことがいえるのでしょうか。

納富/伊藤先生が第1章「啓蒙の光と影」でおっしゃっているように、やはり光と影のセット・融合として見るのが面白いと思います。人間は理性だけで動いているのではなく、その光が強くなると逆の面が浮かび上がってきます。そもそも理性に対する捉え方自体、単純ではありませんよね。

 いま、情念は複雑だという話が出てきましたが、理性もそれに相即して複雑です。世界と魂もそうだったように、一つの概念で捉えることは困難をもっていた。

(…)

中島/わたしたちにとっては、坂部恵先生の『理性の不安』が大事な参照項なわけです。坂部先生は、理性は決してしっかりしたものではなく、そこには不安がべったりと貼りついていると看破されました。」

(伊藤邦武「第1章 啓蒙の光と影」より)

「啓蒙とは「蒙を啓く」ことを意味する。蒙とは暗いこと、ものごとの道理に通じていないことである。啓くというのは、その無知をなくすこと、正しい知識を与えるということである。この言葉は漢語としては、「俗論の誤りを正す」という意味で二世紀頃から使用されるようになったといわれ、日本では一五世紀頃の文献に現れている。

 一方、啓蒙という言葉の英語はEnlightenmentで、フランス語はLumièresである。ただし、Enlightenmentという英語の意味は、光を照らすということで、迷妄から目覚めること、暗闇から脱出することを意味するとしても、言葉自体としては「啓蒙主義」という場合のような、限定された使い方をされるわけではない。たとえば仏教における「解脱」ということを英語で表現する言葉はEnlightenmentである。釈迦は悟った人という意味で仏陀と呼ばれるが、仏陀とは何よりもまず覚醒した人、the enlightented personである。
(…)
 しかし、同じ執着からの解放、迷妄からの脱却という意味でも啓蒙ということをいっても、西洋近代のいわゆる「啓蒙主義」と呼ばれる思想には、他の思想伝統にはないこの思想に独特の激越さがつきまとっている。
(…)
 何より身、西洋近代の啓蒙の思想が、イギリスにおける名誉革命、アメリカの独立戦争、そしてフランス革命という、一八世紀に連続して生じた西洋世界の最大級の変革のうねりに、直接間接に影響を及ぼすような、政治思想上のバックボーンの役割を果たしたからである。」

「西洋近代の啓蒙という思想運動には、いわば、「光」という呼称で指示される輝かしい側面と同時に、これに反する闇の部分というか、光に随伴する影の部分が含まれている。そのために、本来光の運動であるはずの西洋近代の啓蒙思想の展開は、単純にそれまでの暗愚の時代に明るい光は差したというだけではしまない、複雑な陰影を帯びることになるのである。

 ここでいう、人間精神にみられる光と影の緊張状態とは、簡単に言えば、人間理性の持つ光の側面と、影の側面のことである。理性はわれわれの暗闇を導く光であると同時に、強烈な光によってわれわれの目をくらませ、別の意味での混乱や混沌へと導く可能性を内包している。理性は偏見に染まったわれわれに、本来の自然への目を開かせる一方で、われわれの「自然状態」を破壊し、われわれの人間精神の働きに狂気や不安を呼び込む可能性をもつ。

 それゆえ、理性は人間精神の自然であると同時に不自然でもある。そして、理性によってもたらされる恐れのある精神の不自然を、自然状態へと引き戻すのは、理性にはない精神的治癒力をもった心の働き、すなわち感情の作用である。したがって、啓蒙という光の作用のもっている影の部分に作用を及ぼし、その作用を計篇するのは感情である。」

「理性の勝利から理性のもっとも深い闇へ——。これが一七世紀のデカルトと一八世紀のヒュームの哲学とを隔てている大きな断絶である。
「理性は情念の奴隷であり、そうあるべきである」
 ヒュームは右のような絶望に終わった『人間本性論』の第一巻に続く、第二巻「情念について」の膨張で、改めてこう宣言した。
 彼は、理性だけでは人間は行為の選択も善悪の判断も十分にはできないことを主張するとともに、極端な孤独、不安、絶望へと導きかねない理性の働きに、自然な回復をもたらすのは、情念すなわち感情であると主張した。」

「プラグマティズムの思想家のなかでも、とりわけこのことを強調したのはウィリアム・ジェイムズであるが、彼は知覚的経験から計算的推論にいたる、すべての認識活動には感受的性格が付随していることを指摘すると同時に、実在論と唯名論の対立や唯物論と観念論の対立など哲学の歴史上の主要な理論的対立などが、実際には知的な問題というよりもむしろ気質の対立だ、と喝破した。このジェイムズの感受性の哲学に強い共感を表明したのは、フランスのベルクソンであり、彼もまた、人間精神の深い部分での働きは、表面上の知的計算とは別の、感情の質的な強さによって内側から感受されるとしたのである。」

「私たちは今なお、理性と感情という人間精神の二つの柱の間で揺れているともいえるが、この揺れの中には、世界的な規模での哲学や思想の歴史の痕跡がいろいろな形で隠れている。それゆえにこそ、世界哲学史というパースペクティヴの下で、人間精神の二つの中心である理性と感情の複雑な関係に今一度思いをいたすことには、十分に意味はあると思われるのである。」

『世界哲学史 6 ――近代Ⅰ 啓蒙と人間感情論』
【目次】

第1章 啓蒙の光と影 伊藤邦武
第2章 道徳感情論 柘植尚則
第3章 社会契約というロジック 西村正秀
第4章 啓蒙から革命へ 王寺賢太
第5章 啓蒙と宗教 山口雅広
第6章 植民地独立思想 西川秀和
第7章 批判哲学の企て 長田蔵人
第8章 イスラームの啓蒙思想 岡崎弘樹
第9章 中国における感情の哲学 石井 剛
第10章 江戸時代の「情」の思想 高山大毅
コラム1 近代の懐疑論 久米 暁
コラム2 時空をめぐる論争 松田 毅
コラム3 唯物論と観念論 唯物論と観念論 戸田剛文
コラム4 世界市民という思想 三谷尚澄
コラム5 フリーメイソン 橋爪大三郎

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