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特別対談 魚豊×アダム・タカハシ「創作家と哲学史家」 (『ユリイカ 2023年1月号 特集=コペルニクス』/魚豊『チ。』/アダム・タカハシ『哲学者たちの天球』

☆mediopos2965  2022.12.30

15世紀のヨーロッパ
天動説が支配している時代に
地動説は異端思想として
その思想を奉じる者は火あぶりにされていた・・・

物語の設定は「ファクト」ではなく
「フィクション」ではあるが
命を捨てても曲げられない信念としての
異端思想である地動説を求める者
そして徹底的に異端審問を行う者との
熱いドラマを描いている漫画『チ。』の著者 魚豊

アラビア哲学を介して発展させられ
科学革命までの学問を一千年以上にわたり支配した
天と大地をめぐる教説であるアリストテレス主義が
キリスト教世界の中で
どのように受容されたのかを描いている研究書
『哲学者たちの天球』の著者 アダム・タカハシ

その両者による対談が
『ユリイカ 2023年1月号 特集=コペルニクス』に
掲載されている

論じられているのは
当時のヨーロッパで天動説が地動説へとシフトした
というような「ファクト」の受容の話ではない

知性と暴力の話であり
世界と人間の関係性のなかでの
知と信の話である

『チ。』第1集からの

「不正解は無意味を意味しない」

という印象深いセリフが紹介されている

「神を証明したかったのだけれど
結果神がいないことになっちゃったというか。
それもある意味裏切られたということですけれど、
でも信じて突き進んだことは無意味ではない」

「裏切られたことで自立して、
自分で考え始めなければいけなくなるから。
それはすごく孤独で切ないことでもあるけれど、
でもそこから全てが始まると思います」

というように
結果が正解だったか不正解だったかではなく
「?」と思い「疑うことを信じる」こと
「疑問に思うことを肯定する」こと

魚豊は『チ。』でそのことを描きたかったのだという
「?」こそが知性と暴力を隔てるのだと

その「?」が
世界観に関わるものであるとき
そしてその世界観に対するとき
どのような態度を取り得るか

ある意味では現代においては
科学(主義)にもとづく世界観こそに
「?」が必要なのだろう

世の多くが「?」をもたないままに
肯定しそれに従っているものに
たった一人でも「?」をどこまで持ち得るか

ここ数年の世界を見渡すと
まさに「?」がスポイルされたまま
破壊的な状況が訪れているようにも見える

そしておそらくは今後私たちの多くは
さまざまな「裏切り」に合っていることに気づくだろう
しかし重要なのはその後の自らの態度だろう

そのときに反省しないアイヒマンになるのでもなく
ニヒリズムに陥るのでもなく
「能動的ニヒリズム」のほうへ行くことができるか

ともあれまず「?」をもつことだ

■特別対談 魚豊×アダム・タカハシ「創作家と哲学史家」
 (『ユリイカ 2023年1月号 特集=コペルニクス』 青土社 2022/12 所収)
■魚豊『チ。―地球の運動について― (1)』
 (BIG SPIRITS COMICS 小学館 2020/12)
■アダム・タカハシ『哲学者たちの天球―スコラ自然哲学の形成と展開』
 (名古屋大学出版会 2022/10)

 (「魚豊×アダム・タカハシ「創作家と哲学史家」より)

「魚豊/『チ。』で描きたかったのは知性と暴力の話でもあるけれど、やはり世界と人間の関係性が変わっていくなかで神が崩壊して個人が誕生して資本主義が入ってきて・・・・・・という、個が誕生していく寂しさと強さみたいなものは、天動説、地動説をきっかけに描きたいと思っていました。やはりこの地球が宇宙の中心なんだと思っていた人たちが、いや数ある星のうちの一つだよと覆されたときの感覚はまったく想像がつかないですけど、本当に信頼していたものに裏切られた挫折の感覚は感じられると思います。そうした世界との臍帯を切られてもうつながることができない、自分が中心じゃないという感覚を物語の終わりに向けて描きたいと思っていました。

 結局裏切りのようなテーマが好きなんです。裏切られたことで自立して、自分で考え始めなければいけなくなるから。それはすごく孤独で切ないことでもあるけれど、でもそこから全てが始まると思います。神にも、登場人物にも、世界にも裏切られても、でも世界は全然美しいままで自分はまだそれを感知できる心があり、そこでニヒリズムに入らなくていい。ニヒリズムだとしても能動的ニヒリズムのほうへ行けるんだという感覚は描きたかったです。それに、自分の人生を変えるような言葉を言った人に裏切られることがあったとして、その言葉のもたらした経験や手触りみたいなものはキャンセルしたくない。

 神学を徹底させるがゆえに結局別の次元へ行ってしまう、というようなことは、描いている段階ですごく思いました。神を証明したかったのだけれど結果神がいないことになっちゃったというか。それもある意味裏切られたということですけれど、でも信じて突き進んだことは無意味ではない。第一話で「不正解は無意味を意味しない」というセリフを出したのですが、まさに全体を通してそのことを描きたかった。『チ。』の登場人物たちは完全に不正解で、別に地動説は迫害されなくてもよかった。だけどその不正解のなかでもがいていた人たちは無意味なのかと言えば無意味ではないというのが自分の感覚として大きいんです。

タカハシ/今日は、ファクトかフィクションかという話から始めましたが、人間には「知」と合わせて「信」という精神の動きがあって、そういう精神の経験自体はリアルなんだし、その不可逆なリアリティをとらえているところに魚豊さんの作品の魅力があるのだと再確認できました。私も『哲学者たちの天球』で、単なる学説史ではなく、アリストテレスの著作を読み解くことで世界の真実を描きたかったし、不十分ながらも自分としては描いたつもりです。彼らも結局は世界に「裏切られる」側でした。ですから最終章で、ガリレオやケプラーという新しい時代の人々がまさに出てくる時代に、なおアリストテレスを擁護した人々についての章を短いものですが置いています。

 『チ。』では、天動説の立場を信じていた人からすると、地動説への転回は世界や神からの「裏切り」と映ってしまう。一方、地動説を信じて身を投じた登場人物たちにしても、もちろん地動説自体が結果的に正しい科学となったわけだけれど、劇中では必ずしも「正解」とは言い切れないものですよね。また、魂から発する「信」は客観的な「知」からすると端的に余剰分だけれど、その余剰分は、くり返せばポスト・トゥルースの状況で再度問題になっています。そういう時代に、いま「能動的なニヒリズム」と仰ったけれど、「疑い」があるかぎりでかろうじて私たちは「倫理的」でありうるのかもしれない。『チ。』が描いているのは、そういう状況での人の精神の動きであり、この作品自体がひとつの「思考実験」としてあるのかもしれないとも感じました。(・・・)

魚豊/『チ。』では疑うことを信じることを描きたかった。知性と暴力を隔てるものは「?」だと思うんです。「?」と思わなければ知的なものも暴力になりうるし、暴力のように見えるものにも疑いをかければまだ知的なものの兆しというか、救いはある気がしている。だから疑問に思うことを肯定するということを最後には描きたかったですね。そして今後のテーマとしては、信じることの強さを描きたいとも考えています。」

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