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釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは?3・4(「群像」)/若松英輔『生きる哲学』/上松佑二『光の思想家 ルドルフ・シュタイナー』/シュタイナー『芸術と美学』

☆mediopos3412  2024.3.21

若松英輔と釈徹宗の往復書簡(「群像」連載)
「宗教の本質とは?」の第3回・4回は
「塔」「像」がテーマ

ユダヤ教やイスラム教では
「「像」という形のなかに無限なる絶対者を封じ込め、
その存在を矮小化することにもなる」ことから
「神の像」である「偶像」をつくり
それを拝することは禁じられているが

同じ一神教であるキリスト教においては
建築や彫刻そして絵画と
さまざまな「像」がつくられている

仏教においても
ブッダは偶像的なものを禁じていたようだが
やがてギリシア彫刻などの影響もあったのだろう
さまざまな像がつくられるようになる

しかし同じ像を拝するといっても
典型的で大雑把な例としてではあるが
キリスト教においては
キリストの復活した身体からくる身体観から
死体や聖遺物などを拝するのに対して
仏教では拝するのは仏性であって
死体を拝するのではなく
さまざまな像も原則として偶像としては作られない

釈徹宗によれば
宗教における「像」は
「信仰の対象」「修行の補助」
「教えやメッセージの象徴化」
さらには像を造る者の「霊性の発現」
といった意味があるという

いうまでもなくそれらの「像」は
「神」の存在を矮小化するものではなく
むしろ「聖なるもの」につながるための
いわば「媒体」となっている

偶像崇拝の禁じられている宗教においても
「像」という形をとらないまでも
「聖典」を「媒体」として
「聖なるもの」につながろうとしている
ということはできるのではないだろうか

どちらにせよ
「神」とつながるために
「聖なるもの」が求められている

そして「聖なるもの」を形にして拝する宗教においては
建築・彫刻・絵画あるいは音楽といった
芸術作品の存在が重要な意味をもつ

シュタイナーによれば
芸術における「美」とは
「感覚的現実的な衣をまとった神的なものではなく、
神的な衣をまとった感覚的・現実的なものである」という

神的なものが形をとっているというのではなく
神的なものが感覚的・現実的なものとして
あらわされているがゆえの「美」だということだ

かつてのような霊的能力が衰えてしまっている現代人にとって
芸術を通し霊的世界を感受することが求められているといえるが

その意味において
美と芸術の問題にとっては
「感覚的なもの」と「超感覚的なもの」との関係が重要となる

「感覚的なもの」だけでも
また「超感覚的なもの」だけでも
そのままでは「美にも芸術にもなりえない」

「超感覚的なもの」との関係において
「芸術家と見者の間には古来親密な関係がある」という

「見者の世界においては、普通の知覚や表象は停止するが、
感情や意志はなお働いており、
観念的思惟とは異なった別の思惟」
シュタイナーのいう「フォルム思考」が働いているが
建築家や彫刻家における「思考」も同様である

芸術家においては
見者の有する「超感覚的な」思考が求められるのだが
見者にとっても
感覚的なものである芸術作品のなかに
超感覚的なものを体験しようとすることが重要な意味を持つ

見者と芸術家は互いに
「感覚的なもの」と「超感覚的なもの」との間に
「橋」を架ける重要な役割を持っているのである

ちなみにシュタイナーによれば
人体の法則を外部の空間に投影したものが建築芸術であり
エーテル体の法則を物質体におろすと彫刻が生まれるという

若松英輔は彫刻家である舟越保武の言葉を紹介しながら
「彫刻家の仕事は、石に像を刻むことではない。
石から像を彫り出さねばばらない」
「彼の言葉を借りれば
「すでに埋もれて入っている」何ものかを掘りおこすことが、
彼にとっての造形だった」と示唆しているが

石のなかにすでに埋もれて入っている
エーテル体においてすでに存在している像を
石をつかって掘り出すということにほかならない

そうした営為のなかにこそ
「超感覚的なもの」を「感覚的なもの」として
あらわそうとする「美」が見出されるのだといえる

そしてそうしてつくりだされた「像」を通じて
私たちは「聖なるもの」を感受することができる

■釈徹宗×若松英輔 往復書簡
 「宗教の本質とは? 3(釈徹宗)宗教における塔/像」
 「宗教の本質とは? 4(若松英輔)神、他者、自己に出会い直す場所」
 (群像2024年3月号/4月号)
■若松英輔『生きる哲学』(文春新書 2014/11)
■上松佑二『光の思想家 ルドルフ・シュタイナー』(国書刊行会 2022/10)
■R・シュタイナー(西川隆範編訳)『シュタイナー 芸術と美学』(平河出版社 1987/5)

**(「宗教の本質とは? 3(釈徹宗)宗教における塔/像」より)

「今回は若松さんから「塔と像」というテーマをいただきました。これまでのテーマは動詞だったのですが、急に「塔と像」・・・・・・。」

・宗教と像
「塔は高みへと昇るという内発的なモチベーションと、遠くから目にすることができるという外的要因を併せ持っていると思います。」

・造像
「「像」と言われれば、大学院生の頃、サン・ピエトロ寺院でミケランジェロのピエタ像と対面した時を思い出します。しばし呆然と立ち尽くしてしまいました。像の周辺の時空が歪んでいるんじゃないかと思うほど、聖性が発揮されていました。その像から慈愛に満ちたオーラが放出されているかのようでした。すでにその時私は得度を済ませて僧侶になっていたのですが、もしそうでなかったら、ピエタ蔵に導かれてカトリックの洗礼を受けたかもしれえません。」

・造形の四つの機能
「宗教における像が持つ意味は、大別して四つくらいあるんじゃないでしょうか。

 一つ目は「信仰の対象」です。
(・・・)
 二つ目として、像は「修行の補助」という機能を持ちます。」
(・・・)
 三つ目として、像には「教えやメッセージの象徴化」という役割があります。
(・・・)
 そして四つ目に、クリエーター自身の「霊性の発現」があると思います。
(・・・)
 もちろん宗教的な像の造形はアイドラトリィ(偶像崇拝)であるとして、厳しく禁止する信仰もあります。」

**(「宗教の本質とは? 4(若松英輔)神、他者、自己に出会い直す場所」より)

・「生ける概念」と「死せる概念」
「「生ける概念」という表現は、シュタイナー研究者であり、自身が思想家でもある高橋巌の言葉です。
 概念は重要なはたらきをします。概念がなければ人は、あるとき愛を生きることはできても、それを探求し、語り合うことはできません。そのいっぽうで言葉を巧みに操るようになり、概念を便利な道具のように用いるようになった人間は、内実を伴わない概念、つまり「死せる概念」によって自説を語るようにもなってしまいました。「死せる概念」にふれるのは簡単です。世に公約と呼ばれるものの多くがこの「死せる概念」によって表現されるのが今日の現実です。
 この傾向は宗教の世界とも無関係ではありません。救い、彼岸、祈り、あるいは神、仏という言葉すた、私たちはそこに大きな畏怖の感情をともなうこよなく、口にすることがあります。
 いつも言葉に畏れを抱く必要はないのです。しかし、恐れるべきときもある。畏れの感情が宗教的感情の根本にある、と説いたのは『聖なるもの』を著したルドルフ・オットーですが、彼は宗教が神学化することにも強い警鐘をならしています。論じることに終始する宗教は、すでに生けるものではなくなっている。つまり、そこにそれらしい学説が誕生することはあっても、世の救済とは無関係になっている、というのです。
「塔」と「像」は、その発端に過ぎません。どこかでお考えを聞かせていただければと強く願っているのはオットーやエリアーデが深い情熱をもって語った「聖性(聖なるもの)」、あるいは「聖典」という問題です。「奇蹟」を語り合ってみたいなどと夢想しております。

・絶対的なもの
「この国に暮らしていると「塔」と「像」、ことに「像」が宗教的な禁忌にふれるものであるとは想像しづらいかもしれませんが、ご指摘にとおりユダヤ教やイスラームにおいては神への冒瀆になる場合も少なくありません。「像」という形のなかに無限なる絶対者を封じ込め、その存在を矮小化することにもなるからです。
「塔」も例外ではありません。日本人が「塔」に感じている意味をそのまま踏襲すれば、異なる霊性では大きな問題になる可能性はあります。無限なる絶対者は、塔にだけいるわけではないからです。」

・ロダンの言葉
「聖堂————すなわち「塔」が象徴するのは、無限者のすまいであり、私たちの魂でもある。そこで人は神と他者と自己にさえも出会い直す。
 こうした多層的な意味を感じつつ、次のロダンの言葉を読むと聖堂、あるいは「塔」の意味がそれまでとはまったく異なるもののように感じられたのです。

   〔聖堂の〕内へはいる。私はみぶるいする。此の美は恐ろしい。私は夜の中へ踏み込んだ。どんな秘法が————古代宗教のどんな残酷な秘法が行われているか知れないと思われる生まな夜である。長い窓、薔薇窓から微かに光る日の光はあるのか。もう一人ぼっちではない。
 私の眼はだんだん此のいろいろなもののある薄暗さに慣れて来る。私の周囲に世界がある。円柱の世界が、恐ろしい気がする。其の力の所以恐ろしいのだ。(『賊ロダンの言葉』「ロダン手記」)

 恐怖とも畏怖とも判別できない旋律を伴う経験とともに、暗がりのなか。微かな光をたよりにして進んでいく。人は、どこに何を見るのではなく、胸に希望を感じ、無限者の実在を実感する、というのです。(・・・)「美は恐ろしい」と(高村)光太郎は訳していますが、ここにあるのは単なる恐怖だけでなく、畏怖ばかりか畏敬すら意味的に込められていることは想像に難くありません。ここでの「美」は、およそ「聖なるもの」に限りなく接近しているものでうs。」

・法隆寺・救世観音像
「ロダンも光太郎も彫刻家です。彼らはもともと「像」の世界で生きる者たちでした。」

「現代人は「像」は見るものだと感じている。光太郎にとってそれは見る対象であるよりもまず。畏るべき何かであり、感じるべきはその形であるよりも存在なのです。現代人は目で像を捉える。しかし、光太郎のなかで生きている敬虔なる者はそれを心の奥にある「たましい」と心理学者の河合隼雄が呼ぶ場所で受け止めようとしている。さらにいえば、像から放射される何かは、光太郎に目を閉じることを強い、たましいを開けと命じてさえいるようです。」

「像は、人に語られることを求めているのではない。まずは、深い畏れの感情を想起し、沈黙のなかにこの世界を在らしめている不可視な、その原義的な意味での不可思議なものに寄り添え、というのです。
 最後に光太郎も尊厳を隠さなかった宮澤賢治の「塔」をめぐる言葉を引きたいと思います。

  手は熱く足はなゆれど
  われはこれ塔建つるもの(『新編 宮澤賢治詩集』「疾中」)

「疾中」と題する一連の文章の中に在ることから考えると「手は熱く足はなゆ」るとは、病のため、身体が思うように動かなくなっても、ということなのでしょうが、私たちはそこに不可避的な人間の弱さの表現を見ることもできると思うのです。つまり、どんなに非力な存在であったとしても、人は「塔建つるもの」である、という神聖な義務から離れることはない、というのです。」

**(若松英輔『生きる哲学』〜「第二章 彫る舟越保武の「かたち」が照らす光」より)

「彫刻家の仕事は、石に像を刻むことではない。石から像を彫り出さねばばらない(・・・)。彼の言葉を借りれば「すでに埋もれて入っている」何ものかを掘りおこすことが、彼にとっての造形だった。彼にとって芸術活動とは、創造であるよりも発見だったといってよい。それは、何かを生み出すことではなく、隠れているものを掘り返す行為だった。
 彫ることは彼にとって生きることと同義だった。私たちの多くは、そうした人生を送っていない。しかし、生きるということもまら、何かを「彫る」ことに似てはいないだろうか。それはやはり、創造であるよりも、大いなるものの発見なのではないだろうか。」

**(上松佑二『光の思想家 ルドルフ・シュタイナー』〜「第7章 芸術とは何か」より)

*「シュタイナーは、美とは感覚的現実的な衣をまとった神的なものではなく、神的な衣をまとった感覚的・現実的なものであるという。つまり美とは感覚的・現実的なものであり、それが理念のごとく現れる。このような定義から出発する美学はまだ存在しない。それが二十七歳のシュタイナーのウィーン・ゲーテ協会での最初の講演であった。シュタイナーはそれを「ゲーテ的世界観の美学」と名づける。これは未来の美学である、と。
 その後一九二三年に彼は、美を輝くもの、内部を外部に現すもの、その本質を輝きによyって啓示するものと定義し、美の反対を求めるとすれば、それは隠すもの、その本質を外部に現さないものであるとした(『世界的使命を帯びた芸術的なもの』)。(・・・)
 美と芸術の問題にとってはいずれにしれも「感覚的なもの」と「超感覚的なもの」との関係が重要である。単に「感覚的なもの」はそのままでは美にも芸術にもなりえない。なぜならそこには美を美たらしめ、芸術を芸術たらしめる「超感覚的なもの」が欠けているからである。同様に単に「超感覚的なもの」もそのままでは美にも芸術にもなりえない。なぜなら、そこには「超感覚的なもの」を現象させる「感覚的なもの」が欠けているからである。」

*「芸術を生み出す源泉の側にも「感覚的なもの」と「超感覚的なもの」の二つがある。その一つは芸術家に外からやってくる「自然の啓示」であり、他の一つは芸術家の内面からやってくる「ヴィジョン」である。多くの優れた芸術家とその作品を見れば、それらが作家の内的ヴィジョンから生まれてきたものでるか、それとも外からの自然の啓示から生まれてきたものであるかのどちらかであろう。」

*「芸術家と見者の間には古来親密な関係がある。」

「芸術家の内的ヴィジョンと見者の内的ヴィジョンはどのように交差し、どのような関係にあるのだろうか。シュルレアリスムの画家マックス・エルンストは「画家は彼の内部で見えるものを描き、客観的な形をそれに与えねばならない」(『絵画の彼岸』)と言う。そしてパウル。クレーは「芸術は眼に見えるものを再現するのではなく、見えるようにする」(『造形思考』)と書いている。自らが見者であり芸術家でもあったシュタイナーは、芸術家のヴィジョンと見者のヴィジョンの間には多くの親密な関係があることを認めながらも両者の体験には、ある決定的な相違があることを指摘している。芸術家の創作や芸術作品の享受において人間は感覚を通して外界に向かうが、見者の認識にとっては外界からの知覚や表象は可能な限り排除される。それは禅やヨガをはじめとする多くのメディテーションの基本的な前提である。それゆえ見者が芸術作品に対する時、感覚界に対する時と同じ態度をとるとすれば、見者の作品体験は無意味なことになる。なぜなら見者にとってはあらゆる知覚および表象を排除することが原則であるにもかかわらず、芸術作品も知覚および表象の対象として見者の眼前にあるからである。しかし芸術作品は単に「感覚的なもの」ではなく、「感覚的=超感覚的なものの実現」であるから、「感覚的なもの」の中に「超感覚的なもの」を体験しようとする見者にとっても重要な意味をもつことになる。それどころか霊的能力が衰えた現代においては芸術を通して霊的世界が感受されることもある、とシュタイナーは指摘する。

 そして見者の世界においては、普通の知覚や表象は停止するが、感情や意志はなお働いており、観念的思惟とは異なった別の思惟がそこに生まれてくる。シュタイナーはこれを「フォルム思考」と名づけ、普通の「概念思考」から区別した。このフォルム思考はパウル・クレーが「造形思考」と呼んだものと同じである。したがってそれは建築や彫刻、絵画によって表現されるものと深く関わっている。ここでは抽象的思考は沈黙し、建築家や彫刻家がフォルムによって思考するような、いわゆる「対象的思惟」が現れてくる。精神的な世界を認識しようとする時、見者は概念思考によらず、フォルム思考によってこれを把握する。建築家や彫刻家はそれゆる、シュタイナーによれば、見者が霊的世界を体験するための過渡的役割を果たしている。両者の差異は、建築的・彫刻的フォルムの創造が潜在的な衝動から行われるのに対し、見者はこの衝動を霊的世界の認識のために全く意識的に生み出すことにある。

 見者が芸術家を妨げるのではなく、見者は芸術家に新しい光を投げかけ、芸術家は見者に暖かさを与える。こうして両者の間に「橋」が架けられるべきことをシュタイナーは説いたのである。」

*「シュタイナーはまた、一九一四年の『神秘的叡智の光の中の芸術』において芸術の体形について人間の本質から考察している。それぞれの芸術の本質が人間の本質から展開される。

 人間の本質から最も離れた芸術は建築である。建築は人間の外的要求に奉仕しなければならない。建築を最も外的芸術と見るのは、ヘーゲルやショーペンハウアーと同様である。シュタイナーは「建築芸術は人間の内面の法則性と呼ぶものかた解き放たれたものである」という。人間の中で最も外的なものは物質体である。物質体とは純粋な空間である。建築的な物質の組み合わせの中に法則として存在するものは全て人体の中に見出される。人体の法則を外部の空間に投影したものが建築芸術である。

 私たちがエーテル体の法則を物質体におろす時、彫刻が生まれる。それゆえ彫刻は生命の外見を目覚めさせる。それに自我とアストラル体が加われば、完全な生命をもつことになる。彫刻の法則はエーテル体の法則である。

 私たちがアストラル体を一段下のエーテル体におろす時、空間的なものが生まれるのではなく、図像が生まれる。つまり絵画が生まれる。絵画はアストラル体の法則を含む芸術である。

 そして私たちが自我を一段下のアストラル体におろす時、音楽が生まれる。音楽は自我の法則を含むが、普通の散文的な生命を生きるのではなく、無意識の、アストラル体の中に降りていって、自我がアストラル体の表面下に沈み、アストラル体の法則の中で泳ぎ、波打つものとなる。

そして私や知の精神自我(霊我)が自我に下りてゆく時、文学が生まれる。今日ではまだ予感されるだけの精神自我によって自我の中に沈む時、文学が生まれる。若き詩人が老成した人物のように語りかけるのはその為である。

 そして生命精神(生命霊)が精神自我に沈められる時、遙か未来に完成される芸術が生まれる。それがオイリュトミーである。オイリュトミーは今日必然的なものとして、人類の進化に登場するべきものである、とシュタイナーは言う。そして第七の芸術は精神人間(霊人)が生命精神に降りてくる時に生まれるが、その芸術の場はまだ未来の為に開かれている。」

**(『シュタイナー 芸術と美学』〜「人智学と芸術1」より)

「彫刻家になろうとするなら、頭で考えることをやめねばなりません。彫刻家が頭で考えるのは忌まわしいことです。彫刻家が頭で考えるのは馬鹿げたことです。そのようなことは不可能です。頭は空っぽになって、安らいでいなければなりません。特に人体を彫刻しようとするなら、指から人間の形態が流出しなければなりません。そうすると、なぜ芸術感情が豊かであったギリシア人が、アテネの像を兜をかぶった姿で作り上げたかが感じ取れるようになります。静かな宇宙空間を追感するためです。」

「人体の形態の中に入りこみ、いかに人体の形態が宇宙から形成されたかを理解すると、彫刻家になります。肉体をあらゆる角度から理解すると、建築家になります。いかにエーテル体(形成力体)が額を覆い、鼻を形成し、口をひっこませるかを知り、エーテル体固有の活動を正しく理解すると、彫刻家になります。彫刻家が行っていることは、エーテル体の形態の模写にほかなりません。」

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