見出し画像

マンフレッド・クリューガー:『魂の暦』とともに/シュタイナー『四季の宇宙的イマジネーション』『人体と宇宙のリズム』/ハンス=ヴェルナー・シュレーダー『イースターの秘密』

☆mediopos3420  2024.3.29

今年(二〇二四年)の復活祭(イースター)は
春分後の満月のあとの日曜日なので三月三十一日

復活祭の前の三月二十五日一六時には
「天秤座」で満月&半影月食が起こり
(日本は十二星座でいえば「天秤座」に属する国)

復活祭後の四月九日(日本時間)には
メキシコ・アメリカ合衆国・カナダ東部などで
皆既日食が見られるので

復活祭前後に月食と日食が起こる

例年はあまり意識しないでいるが
二〇二四年は特別な感じがすることもあり
シュタイナーの示唆をガイドに
この祝祭について
少しばかり意識しながら過ごしておきたい

シュタイナーは
一年のはじまりを復活祭とし
週ごとに四季を体験するための瞑想の言葉が付けられた
「魂のこよみ」をつくっている

それについて解説されている
『『魂の暦』とともに』(マンフレッド・クリューガー著)が
訳されているので(2006年刊)それを参照しながら
第一週「復活祭」のための瞑想のことばを
見ておくことにする

復活祭は太陽神としてのキリストが
磔刑のあとに復活したことを祝しているが

復活祭の起原は
「太陽神が地球とひとつになる、
死する地球に新たな生命を与えるというお祝い」である

光が闇に勝利するように
太陽は春分の日を境に次第に力が強くなり

地球は「いままで吸っていた息を吐きはじめ」
「植物は暗い大地の奥深くから、
光に向かって大地を突き抜けて上昇してい」く

復活祭は
その太陽の崇高な力が地球のなかに入ってきて
「太陽と地球がひとつにな」り
「崇高な神と人間がひとつになること」を
祝っているのである

「春の訪れとともに、
生まれてくる新たな自然界を人間が体験するとき、
太陽の言葉が人間の魂のなかに浸透していく」が
復活祭にその太陽の言葉が「地球とひとつ」になる
ここでいう「言葉」はロゴスでありキリストのこと

「魂のこよみ」のなかで
「世界を見つめる人間の目のなかで、輝く光とひとつになる」
と表されているように
「観る」ことで
私たちは魂の奥底から「光り輝」き
新しく生まれ変った自然に向かって自分自身を開いていく

冬のあいだ成長してきていた思考を
「自己の狭い枠から限りない空間の彼方へと広」げ
「人間の本質と高次の精神をかすかにつないでゆく」のである

キリストが磔刑の後に
闇の深みに降りていった後
その闇のなかから
新たな身体をもって復活するように

私たちはみずからの闇の深みから
光を復活させ
「生命の力」を未来に向けて
新たに生み出していかなければならない

復活祭において重要なのは
世界にむかって開かれながら
「自然の霊たちと共にこの祝祭を祝う」ということ

それは現代においてはとくに
「自然の霊たち」をますます閉じ込めてしまう
過剰なまでの科学信仰やAI信仰などの闇から
目覚めるということでもあるだろう

ほんらいの「生命の力」をスポイルしてしまう
そんな闇の世界から目覚め復活するために
「もっと光を」である

■マンフレッド・クリューガー(鳥山雅代訳)
 『『魂の暦』とともに』(水声社 2006/2)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)
 『四季の宇宙的イマジネーション』(白馬書房 1988/6)
■ルドルフ・シュタイナー「地球のリズム」
 (ルドルフ・シュタイナー『人体と宇宙のリズム』風濤社 2003/4)
■ハンス=ヴェルナー・シュレーダー(小林直生訳)
 『イースターの秘密』(涼風書林 2009.4)

**(『『魂の暦』とともに』〜「第1集 復活祭の情景」より)

*「はるか宇宙のかなたから
  太陽は人間の感覚へと語りかける。
  そして深い魂のなかから湧き立つ悦びが
  世界を見つめる人間の目のなかで、輝く光とひとつになる。
  すると思考は自己の狭い枠から
  限りない空間の彼方へと広がり
  人間の本質と高次の精神を
  かすかにつないでゆく。

  Wenn aus den Weltenweiten
  Die Sonne spricht zum Menschensinn
  Und Freude aus den Seelentiefen
  Dem Licht sich einst im Schauen ,
  Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
  Gedanken in die Raumesfernen
  Und binden dumpf
  Des Menschen Wesen an der Geistes Sein.」

*「復活祭です。

 復活祭の起原は、太陽神が地球とひとつになる、死する地球に新たな生命を与えるというお祝いです。実際キリスト教以前にも、古代の民族は、この時期、太陽の祭りを祝っていました。大いなる太陽に向かってその力をみんなでたたえたのです。実際に春分の日を境に太陽の光が闇に勝利を得ます。この時期人間は自然を見るごとに、太陽の力が強くなっていくのを確かに感じます。植物は暗い大地の奥深くから、光に向かって大地を突き抜けて上昇していきます。地球がいままで吸っていた息を吐きはじめたからです。息を吐きだしている様子はこの大地からあふれる植物の成長を通して体験できると思います。復活祭では、この太陽の崇高な力が地球のなかに入ってくることを意味しています。太陽と地球がひとつになること。崇高な神と人間がひとつになること。これが復活祭です。太陽が「人間の感覚」に語りかけるとき、人間の魂のなかでは悦びが生まれます。そして春の訪れとともに、生まれてくる新たな自然界を人間が体験するとき、太陽の言葉が人間の魂のなかに浸透していきます。この太陽の言葉が復活祭のとき、地球とひとつになったのです。しかも私たちの目も太陽のように活動する、ということを聞いたら驚くでしょう。人間の「観る」という行いはただ単に光をとりいれるだけではありません。人間の目は受身ではないのです。実際生理学的にも、私たちがたくさんの細い、目の筋肉の筋は信じられないくらい活発に動いています。

 ということは「観る」ということは私たちが魂の奥底から「光り輝く」ということなのです。このように冬の時期、魂のなかでしっかりと成長した人間の思考は、狭い窮屈な自己のなかから、「空間のかなた」へと広がっていきます。自然は新しく生まれ変わり。その自然に向かって人間は自分自身を開いていきます。しかしそこで失われるものがあります。それは冬の時期に培われた明晰な意識です。広がっていく思考は「人間の本質と高次の精神」をどんよりした。はっきりしない形で結びつけます。なぜなら復活祭の力は、認識の力ではなく、「湧き上がる生命の力」だからです。

 本当の「観る」行いのなかで人間の喜びは光とひとつになるのです。」

**(シュタイナー「地球のリズム」〜「春分」より)

*「キリストは復活祭の時期に、太陽と共同しはじめます。復活祭の時期は、地球が息を吐くときに当たります。そこで生じることを、反射された月光ではなく、太陽に関連させねばなりません。

 このような理由で、復活祭は春分後の満月のあとの日曜日になっています。そのようなことを感じつつ、人間は復活祭のころに、「私がキリストの力と結び付けば、地球の心魂が空気を吐くのと一緒に、私の心魂も宇宙の彼方に流れ、太陽の力を受け取る。キリストは地球から、太陽の力を人間の心魂に補給する。ゴルゴタの秘儀以前は、キリストは太陽の力を宇宙から人間に供給していた」と、言わねばなりません。

 しかし、そうすることで、ほかの何かが入ってきます。昔は、地上で最も重要なものが月光に関連していました。当時、祭は空間のなかで観察できるもの、つまり月が星々に対してどのような位置にあるかに従って決定されました。祭を定めるために、ロゴスが空間のなかに書き込んだ意味を解読しました。復活祭に関しては、ある点まで空間的に設定されました。「春分ののちの満月」と言うことができました。

 そこまでは、すべてが空間的です。いまや、人間は空間から抜け出ます。「春の満月のあとの日曜日」です。日曜日というのは空間的に設定されるものではなく、季節の循環のなかで決定されます。一週が、土曜・日曜・月曜・火曜・水曜・木曜・金曜・土曜というふうに循環するのと同じです。月の位置によって空間的に設定されるものから、日曜日という、季節の循環における純粋に時間的な経過へと移りゆきます。こうして、空間から出るのです。

 古代の密議で感受されたのは、つぎのようなことです。古代における祭の時期の設定は、宇宙空間に関連していました。人間はゴルゴタの秘儀によって、宇宙空間から出て、もはや宇宙空間と関係しない時間のなかに入っていきました。空間から、精神に関するものが抜き去られました。これは人間精神への大きな衝撃でした。」

**(『四季の宇宙的イマジネーション』〜「3 春————復活祭の情景」より)

*「ゴルゴタの秘蹟は単に一度きりの事件として請じたのではありません。地球の歴史のなかでは一度限りの事件であるとしても、ゴルゴタの秘蹟は人間のために毎年更新されるのです。上方でルシファーが炭酸の蒸気のなかで物質的人間を窒息させようとし、下方ではアーリマンがアストラル的な雨のなかで地球全体を石灰のように活動的にして、人間を地球のなかで硬化させ、解体させようとしているのを感じ、洞見した者はルシファーとアーリマンの間に、物質から自由になったキリストの姿を見ます。キリストはアーリマンを足下に置き、アーリマン的なものを克服します。この情景がこのゲーテアヌムに絵画と彫刻で表現されています。そして、キリストはもう一方では、人間の上部だけを地球から引き離そうとするものを克服するのが見られます。アーリマンに打ち勝つキリストの顔は、ルシファーの揮発的な力に打ち勝つ顔でもあります。キリストが毎春ルシファーの力を地に引き入れます。アーリマン的になった地上の上に立ち、死に勝ち、墓から復活し、ルシファー的なものを地上的な美のなかに導き入れるキリストの姿は輝きに満ちています。
 このようにアーリマンとルシファーの間に、復活したキリストが現れます。キリストの上にはルシファーの力が漂い、下にはアーリマンの力が横たわっています。これが復活祭の光景です。」

「ミカエル祭とクリスマスに人間のまでに巨大なイマジネーションとして展開されるものは、表象像でしか示すことができませんでした。けれども、キリストの周辺で展開する、自然な霊の働きに高次の霊的生命が表れる復活祭の秘密についてイマジネーションとして示しうるものは、いかに儀式へと生成することができ、そして、地上で養育され、培養されるもんをいかに受け入れられるかを示すことができました。健康へと導き、治癒する力と、人間組織をアーリマン的・ルシファー的に破壊しうるものについての認識が受け入れられるのです。アーリマンは人間を硬化します。ルシファーは人間を呼吸をとおして解消、揮発させようとします。このなかに病気に導く力が存在するのです。」

**(『四季の宇宙的イマジネーション』〜「日曜日の福音/復活の祝日————三月二十一日以降の最初の満月の後の日曜日 マルコ福音書一六・一 − 八」より)

*「安息日が過ぎたとき、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメはよいかおりの香料を買い、イエスにその香料を塗るために墓に行った。
 週の最初の早朝一番、太陽がまさに昇ったときに、彼女たちは墓に来た。そして、彼女たちは、「だれが私たちに墓の入り口から石をころがしてくれるだろうか」とたがいに話した。そして、目を上げたとき、彼女たちは石がころがされているのを見た。石は非常に大きかった。
 そして、彼女たちは墓のなかに入った。そこで、彼女たちはひとりの若者が輝くように白い衣を着て、右側に坐っているのを見た。彼女たちは驚きでわれを忘れた。そこで、その若者は彼女たちに語った。「驚くな。おまえたちは十字架に掛けられたナザレのイエスを探している。彼は復活し、ここにはいない。見よ、彼らが彼の体を横たえた場所だ。行って、彼の弟子たちとペテロに『彼はおまえたちをガリラヤへ導くであろう。そこで、彼がおまえたちに約束したように、おまえたちは彼を見るであろう』といいなさい」
 彼女たちは急いで墓から逃げ去って、道を進んだ。大きな興奮が彼女たちをとらえ、彼女たちの魂は離れ去ったようであったからである。そして、その震撼ゆえに、彼女たちは体験したことをだれにもいうことができなかった。」

**(『四季の宇宙的イマジネーション』〜「訳者あとがき」より)

*「一九一一年春、マリー・フォン・ジーフェルス(のちのマリー・シュタイナー)は体調がすぐれず、アドリア海の港町トリエステの近く、ポルトローゼで三ヶ月を過ごした。インマ・フォン・エックハルトシュタインという女性が彼女に付き添っていた。ルドルフ・シュタイナーもポルトローゼに滞在し、そこから各地へ講演旅行に出かけていった。
 そんなある日、インマ・フォン・エックハルトシュタインは、新しいこよみをつくることはできないものだろうか、と思った。シュタイナーは彼女の提案を受け入れて、

 一、ゴルゴタの秘跡の年を紀元とすること、
 二、一年のはじまりを復活祭とすること、
 三、黄道十二宮の新しい絵を描くこと、
 四、こよみに歴史的、霊的・宗教的に重要な日を記すこと、
 五、四季を体験するための週毎の瞑想の言葉を付けること、

 を眼目としたこよみの製作にとりかかった。
 こうして、一九一二年三月、ミュンヘンのクーン印刷所で「一九一二/一三年のこよみ」(正確には、ゴルゴタ紀元一八七九年のこよみ)が印刷された。

 一九一八年には、四季を体験するための週毎の瞑想の言葉、すなわち「魂のこよみ」の第二版が、第一次大戦に従軍している兵士たちのために、「ヴァルドルフ・アストリア・カラー小冊誌」三十号として、たばこのおまけという形で印刷された。

(・・・)

 この「魂のこよみ」は、
 第一週「宇宙のかなたから/太陽が人間の感覚に語りかけるとき・・・・・・」、第五十二集「魂の深みから/霊が宇宙存在へと向かうとき・・・・・・」
 第二週「感覚の全体の外面のなかに/思考の力がその固有の存在を失う・・・・・・」、「第五十一週「人間存在の内面のなかに/感覚の富が注ぐ・・・・・・」
 第三週「人間の目覚めた自我は/みずからを忘れて/宇宙に向かって語る・・・・・・」、第五十週「宇宙存在の生成の喜びは/力強くみずからを開示しつつ/人間の自我に向かって語る・・・・・・」、
 というふうに対称しつつ、四季の流れを魂的・霊的に体験させるものであるが、シュタイナーのいうところでは、それがエール的なキリストを体験するもっとも確かな道なのである。

 ゴルゴタの秘跡の年を紀元としたのは「ゴルゴタの秘跡によって、人類に自我意識が誕生した」からであり、一年のがじまりを復活祭にしたのは「復活祭を自我意識の誕生との関係で考えると、小宇宙と大宇宙との意味深い関係が得られる」(『地上の人間と宇宙の人間』第四講、一九一二年四月二十三日、ベルリン)からである(ゴルゴタの秘跡が起こったのは、西暦三三年四月午後三時であり、復活祭は三月二十一日以降の最初の満月のあとの日曜日である)。」

*「自由ヴァルドルフ(シュタイナー)学校の、自由宗教の授業においても、その週の日曜日のために選ばれた聖書の断章を体験することが重視されており、一九六〇年ごろから、本書の後半部に訳載した「日曜日の福書」(あるいは、週の福書)に収めた形で聖書の断章を読むことがシュタイナー学校のみならず、人智学的な諸施設に広まっている。」

**(『イースターの秘密』より)

*「ドイツ語で「カールヴォッヘ」といわれている、この受難週間には祭壇が黒い色になります。それはどういうことかといいますと、キリストは人間の持っている光や愛といった、ポジティヴな面だけに結びつこうとしているのではなく、特にこの一週間、聖受難週間の間、人間の中にある深い闇の部分、暗い部分、それから悪の部分、そういったネガティヴな力にも深い関わりを持とうとしているのです。キリストはあらゆるものに結びつこうとしているのです。その闇と結びついているキリストの姿を私たちは祭壇の黒で表しているのです。
 この聖受難週間に、私たちの持っている、あるいは人類の持っている闇や悪と結びつき救済しようとしているキリストと共に、私たちは歩みを進めるのです。そして聖金曜日に死を体験して、そして聖土曜日に今度はキリストが地球の闇の深い部分に下りていくわけです。そこまで私たちはキリストと歩みを共にし、それから復活祭を迎えるわけです。
 そして復活祭の日曜日に、キリストが地球の闇の、深みの中から現れて来ます。キリストが闇よりも悪よりも強い存在だということの現れを、私たちは復活祭に体験するのです。復活祭というのはキリスト教におけるもっとも偉大な祝祭です。ですから復活祭を祝うときに意識しなければならないのは、私たちは自然の霊たちと共にこの祝祭を祝うということです。それが大きな意味を持ってきます。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?