見出し画像

鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜/キェルケゴールをつなぐ』/ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』/世界の名著『キルケゴール』

☆mediopos3240  2023.10.1

ウィトゲンシュタインの
前期(『論理哲学論考』)と
後期(『哲学探究』)のあいだには
キェルケゴールの「実存哲学」という契機があった
ある意味「回心」である

ウィトゲンシュタインの『哲学探究』が
「実存哲学」だというのではない

「ソクラテスに源泉をもち、
キェルケゴールが練り上げた〈実存哲学〉に、
哲学理論の構築といった皮相的な次元においてではなく、
人間の生き方という本質的な次元で彼がきちんと向き合い、
そしてそこでの学びをもとに彼が哲学していった」
というのである

鈴木祐丞はその観点から
『〈実存哲学〉の系譜/キェルケゴールをつなぐ』において
ウィトゲンシュタインを
「ソクラテスに連なる〈実存哲学〉の真の後継者」
として位置づけている

ソクラテスの「哲学」(知を愛すること)は
誠実に「魂」をできるだけすぐれたものにするよう
配慮することだったからである

それは「知」を求めることを
理論ではなく生き方に求めるということである

キェルケゴールは『死に至る病』で
「絶望は罪である」とし
「あるがままの自分を肯定して生きるところに救いを求め」
それをキリスト教から理解したが
いうまでもなくソクラテスはキリスト者ではなかったように
キリスト教的な「罪」という視点から
いわば「魂の世話」を求めなければならないわけではない

たとえばルドルフ・シュタイナーの
『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』に
神秘学修行の「条件」として挙げられている原則がある

「あなたの求めるどんな認識内容も、
あなたの知的財宝を蓄積するためのものなら、
それはあなたを進むべき道からそらせる。
しかしあなたの求める認識内容が
人格を高貴にし世界を進化させるためのものであるなら、
それは成熟への途上であなたを一歩前進させる」
(高橋巌訳/ちくま学芸文庫)

さらいえば
「如何なる理念も理想たりえぬ限りは魂の力を殺す。
しかし如何なる理念も理想たりうる限りは
すべてあなたの中に生命力を生み出す」

この「条件」は神秘学にかぎらず
あらゆる「知を愛すること」に通底している「条件」だろう

そしてそれは「知」を越え
「生きること」(「実存」といってもいいだろう)において
西行の和歌にもあるような
「なにごとの おはしますかは 知らねども
 かたじけなさに 涙こぼるる」
といった魂の姿へもつながるものだと思われる

逆にいえば
そうした魂の姿を求めないところで
「知的財宝を蓄積する」ために
理論構築といったことにばかりこだわる向きは
「哲学」(知を愛すること)にはならないともいえる

■鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜/キェルケゴールをつなぐ』
 (講談社選書メチエ 講談社 2022/10)
■ル-トヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(イルゼ・ゾマヴィラ編/鬼界彰訳)
 『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』(講談社 2005/11)
■桝田啓三郎編/世界の名著『キルケゴール』(中央公論新社 1966/9)

(鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』〜「プロローグ」より)

「あるがままの自分を全面的に肯定して生きるのは、とても難しい。人間は種としての固定されて生き方を持たず、各人が自分の生き方を自由に思い描き、それを実現しようとする。人間が人間として生きるとは、つまりはこの自由とともにあるということだろう。そしてこの自由は、ときに人間を、苦悩の中に導き入れることにもなる。自由に思い描いた自分の理想像と、逃れられない所与の自分のあり方。このギャップの中で、人間は右往左往してしまうのである。
(・・・)
 キェルケゴールは、人間の条件とも言えるこの自由が、絶望の温床になることをよく知っている。そして彼は、とても強い言葉で、私たちに語りかける————「絶望は罪である」と。それは『死に至る病』という本の中でのことだ。彼はその本の第一編で、人間は誰もが。自分以外の何かによって、目に見えない力のようなものによって、今ここに存在させられているはずであることを説き、そしてその何かをないがしろにしてしまう人間の生き方に「絶望」を見る。
(・・・)
 「絶望は罪である」という言葉は、あるがままの自分を肯定して生きるところに救いを求めたキェルケゴールの生身の思考の痕跡なのであり、それは、理論構築に携わる学者が、客観的な考察のすでに導き出した解ではないのだ。」

「結局のところ、キェルケゴールはキリスト教思想家ではあっても哲学者ではなく、哲学の側としては、その生命を抜き取らずには彼のことを活用できないだろうとあきらめ始めていた矢先、思いもよらない人物が、不器用にもキェルケゴールと正面から向きあい、その魂を引き継いで哲学してたことを知った。それがウィトゲンシュタインという、言語・論理という観点から人間という存在について考えつづけた。二〇世紀の哲学者であった。彼は壮年期に、自分の罪深さと、それを覆い隠そうとする虚栄心に思い悩むのようになった。それでもごまかすことなく誠実に生きようともがき苦しみ、その過程でキェルケゴールに扶けを求め、彼に導かれて、不完全な現実の自分を肯定し、あるがままの自分として生きる道を見つけ出した。そうしてはじめて『哲学探究』という偉大な本が生み出された。そのようにしなければ『哲学探究』という本は生み出されなかった。彼は言う、キェルケゴールは「本当に生き生きした人間」であり「巨人」だと。それは理論構築にあくせくする哲学者にによるキェルケゴール評ではありえない。ウィトゲンシュタインはキェルケゴールの力強い言葉を、「絶望は罪である」という言葉の真意をきちんと受けとめて、自分を見つめ直し、そうすることでようやく地に足をつけて哲学できるようになったのだ。」

(鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』〜「第Ⅰ部哲学史の中のキェルケゴール」より)

「キェルケゴールは『死に至る病』第一編で、絶望のさまざまな形態を叙述していく。自己についての意識が明晰になればなるほど、その上でなされる絶望はより深刻度を増す。そこで絶望の諸形態の叙述は、おもに自己意識の深まりすなわち絶望の深まりに沿って進む。その最果てにある最高度の絶望は「悪魔的な絶望」である、自己について、それゆえその後見人としての他者(神)の存在について、きわめて明晰に意識しながらも、自己として措定されていること事態に対して反抗的になり、自分を他者(神)の失敗作として顕示したがるような状態である。
『死に到る病』は第二編で、こうした心理学的考察から、キリスト教的考察へ性質を転じる。それは要するに、自己を措定して他者を、キリスト教の神として捉え直すということである。そのことにより、自己としての人間はじつは、人となった神であるキリストの贖罪の対象であり、人間には罪の赦しの恩恵がもたらされているということが明示される。そしてそれは、それにもかかわらず絶望しつづける人間は、実は「罪」(Synd)を犯しているのだという理解につながる。プロローグで触れた「絶望は罪である」という言葉はそのような意味である。(・・・)なお、『死に至る病』第二編は、このように心理学的考察の枠を越えたキリスト教的考察であるがゆえ、実存哲学において、さらには哲学史において、言及されることがきわめて少ない。」

(鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』〜「第Ⅱ部キェルケゴールの〈実存哲学〉の系譜」より)

「キェルケゴールは、ヘーゲル哲学などと対峙して、それらと批判的に向き合いながら〈実存哲学〉の概念を練り上げた。他方で、彼がその作業の際に肯定的に向き合った思想家、〈実存哲学〉が多くを引き継いでいる思想家を一人挙げるとするなら、それはソクラテスである。〈実存哲学〉の概念の形成において、彼の影響は圧倒的である。
(・・・)
 ソクラテスは哲学者の原型とされる。人間が手にできるのはどこまでも人間的な知恵のとどまり、人間は本来の知恵に遠く及ばないこと。こうした人間の限界を誠実に認めること。それがソクラテスによって知恵を愛すること(哲学)であった。彼は言う、「神の命によって————とわたしは新字、また解したわけなのですが————わたし自身も、他の人も、だれでも、よくしらべて、知を愛し求めながら生きてゆかねばならない」と。そして、ソクラテスにとって哲学とは、そうした不知の自覚を求める活動として、「魂(いのち)」をできるだけすぐれたものにするということに」配慮することだったのである。」

(鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』〜「第Ⅲ部〈実存哲学〉の系譜」より)

「キェルケゴールは『死に至る病』で「絶望は罪である」と言う。その言葉は、哲学的な命題として解釈されることを求めているのではない。その言葉は、〈実存哲学者〉からのメッセージとして受けとめられることを求めている。というのも、その言葉は、彼が、懺悔者意識を根底に、神から与えられた任務としての著作家活動を、自らの救いを懸けて遂行する中で、人々を本当の意味でのキリスト者としての生へ導こうとして発せられたものだからだ
(・・・)
 ソクラテスからキェルケゴールが引き継いだ〈実存哲学〉の系譜は、〈実存〉という概念にとは一見無縁の哲学者へ向かう。それは、二〇世紀にあって言語・論理という観点から人間を考察した、ウィトゲンシュタインである。(・・・)
 念のために補足しておくと、それはウィトゲンシュタインが〈実存哲学者〉だったことを主張するということではない。そのようなカテゴライズを試みることに意味はないだろう。〈実存哲学〉の系譜とは。プラトンではなくソクラテスに源泉を持つ、誠実さを本質とし主体的思考と間接的伝達を旨とするキェルケゴールの〈実存哲学〉の、近現代の哲学へのつながりのことである。」

「〈実存哲学〉と『探求』の哲学の関係について考えよう。
 従軍期、前線で日々死の恐怖に直面していたウィトゲンシュタインは、あるときトルストイの『要約福音書』に出会い、トルストイ的な思想を導きとして生きるようになった。それは、肉的な欲求から自由になり、霊に従い神の意志の忠実に生きるべきこと、それこそが幸福であることを人間に説く教えだった。それはいわば神の視点から現実を見下ろすものであり、現実を無視した理想主義だったといえる。
 ウィトゲンシュタインはその後、日常に戻ると、日々平凡な悪行を重ね続けてしまう現実の自分のあり方を気にかけるようになり、そしてそうした自分の不完全さ、罪深さの誠実な自認を妨げる虚栄心とも向き合わざるをえなくなった。彼はそこで、キェルケゴール〈実存哲学〉に救いを求めたのだった。〈実存哲学〉は、長く苦しい思考を彼に課した、彼は『死に至る病』を手にし、自分の状態が治療を要する病気(絶望)であることを学んだ。そして『キリスト教の修練』を手にし、キリストとの同時性に身を置き、キリスト者の理想像と直面した。彼はそこで、理想を演じようとする不誠実さを避け、虚栄心をしずめ、理想に比してどこまでも不完全な現実の自分の姿を認識し、この誠実な自認によって、罪の赦しの恩恵が自分に及んでいることを知った。彼の前に、あるがままの自分を肯定して生きる道が、哲学者として生きる道が開けた。そしてここから、その精神のもとで、『探求』の哲学を切り開いていったのだった。
 ウィトゲンシュタインが、『哲学宗教日記』後半の生の思考を通じて、ようやくたどり着いた生き方が、その生の境地が、はじめて『探求』の哲学を可能にしたのだと言える。ポイントは、誠実さ、である。ソクラテスとキェルケゴールが共有した、〈実存哲学〉の根底に流れる誠実さの徳である。それがどれだけ不完全なものであっても、偽ることなく現実をしっかりと見つめ、そこに立脚しようとする姿勢である。ウィトゲンシュタインが『論考』で、現実の日常的な言語使用の場をおざなりにし、言語と世界の本質を「理想」(論理)に求め、〈究極の言語〉の理論構築にいそしんだところには、この誠実さは欠如していたと言える。ヘーゲルの哲学にそれが欠如していた(とキェルケゴールが考えた)ように。だがウィトゲンシュタインは、それがどれだけ虚栄心うごめき、日々悪行を積み重ねる罪深いののであろうと、この現実の自分のあり方を偽ることなく誠実に認めること、そして罪の赦しの恩恵を受け手、あるがままの自分を肯定し、その自分として生きることを学んだ。「理想」(キリスト者の理想像)をわが身に体現しようと演じることの不誠実さを知り、「理想」とは、あるがままの自分をきちんと認識するための比較の対象であるべきことを学んだ。生の思考を通じて、このような誠実な生き方を学んだからこそ、「理想」(理論(的概念))に言語の本質を求め、それを追求しようとする虚栄心うずまく欲求を傍目に、どこまでも現実の日常的な言語使用に立脚してその洞察と記述を志向する、誠実な哲学が可能になったのだ。
 言い換えれば、『探求』以降のウィトゲンシュタインの後期哲学は、彼がいわばキェルケゴールの〈実存哲学〉の学校に入学し、そこで誠実さを学んだからこそ、可能になったのである。この意味で『探求』以降の彼の後期哲学は、〈実存哲学〉の系譜に位置づけられる。それは、その哲学が、キェルケゴールのような〈実存〉をめぐる〈哲学〉だったということではない。そうではなく、ソクラテスに源泉をもち、キェルケゴールが練り上げた〈実存哲学〉に、哲学理論の構築といった皮相的な次元においてではなく、人間の生き方という本質的な次元で彼がきちんと向き合い、そしてそこでの学びをもとに彼が哲学していったということである。」

(鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』〜「エピローグ」より)

「キェルケゴールはソクラテスのように、むしろこの現代においてこそ、誠実さの意義を説き、私たちの知覚を夜警のように歩き回っている。こう言ったソクラテスのように。

   つまり、わたしが歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ、つぎのことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、だれにでも、魂ができるだけすぐれたものになるよう、ずいぶん気をつかうべきであって、それよりもさきに、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない、と説くわけなのです。そしてそれは、いくら金銭をつんでも、そこから、すぐれた魂が生まれてくるわけではなく、金銭そのほかのものが人間のために善いものになるのは、公私いずれにおいても、すべては、魂のすぐれていることによるのだから、というわけなのです。」

◎鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜/キェルケゴールをつなぐ』
 【目次】

プロローグ
凡例
キェルケゴール著作年表

第1部 哲学史の中のキェルケゴール
第1章 実存哲学について
第2章 実存哲学とキェルケゴール

第2部 キェルケゴールの〈実存哲学〉
第1章 〈実存哲学〉遠望
第2章 キェルケゴールの〈実存哲学〉
第3章 著作家活動――〈実存哲学〉の具現
第4章 〈実存哲学〉とソクラテス――「誠実さ」の概念
第5章 〈実存哲学〉と実存哲学

第3部 〈実存哲学〉の系譜――キェルケゴールからウィトゲンシュタインへ
第1章 『論理哲学論考』期
第2章 中間期
第3章 『哲学探究』期
第4章 『哲学探究』とキェルケゴール――〈実存哲学〉の系譜

エピローグ

あとがき

○鈴木 祐丞
1978年生まれ。筑波大学大学院人文社会科学研究科哲学・思想専攻修了。博士(文学)。専門は実存哲学。現在、秋田県立大学助教。著書に『キェルケゴールの信仰と哲学』(ミネルヴァ書房)、訳書に『死に至る病』(講談社学術文庫)、『キェルケゴールの日記』(編訳、講談社)がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?