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フランソワーズ・ダステュール『死/有限性についての試論』/池田晶子『死とは何かか』/シュタイナー『死について』

☆mediopos3361  2024.1.30

メメント・モリ(死を想え)という
ラテン語の言葉がある

しかしわたしたちは
「死」という言葉は知っていても
「死」がなんであるかをよく知らないでいる

知らないからこそ
恐怖や不安・苦悩や悲嘆といった
否定的なものの源泉ともなり
それゆえにそれを克服すべく
あるいは直視するべく
さまざまに思索が重ねられてきた

池田晶子の解説によれば
現象としての死は存在しない
死と死体は異なっていて
死体は存在するが
死の存在は見えないからだ

さらに論理的な観点からすれば
一人称の死は存在しない
私が生きているとき死は存在せず
私が死んだあとは生きてはいないからだ

二人称の死つまり親しい人の死は
ある意味でその人の記憶があるかぎり
その人はいつまでも生きているともいえ
その意味でもその死は存在しているとはいえない

三人称の場合
一般的な現象として
死は死体として存在しているといえる

しかし実際のところでいえば
私たちは生きているからこそ
じっさいのところ
「死」がなんであるかがわからない

死への恐れというときにも
それは生きているからこその恐れであって
いまだ生の領域において死と呼んでいるだけだ

メメント・モリといったところで
じっさいは生を失うことを想えということであって
私たちは必ず生の世界を去ることになるにもかかわらず
生を失ってどうなるかはわからないままでいる

おそらくそれは逆説的な意味において
私たちが「有限な生」を生きること
つまりは「地上で学ぶ」ことこそが重要だからなのだろう

それゆえにかつて仏陀は
生きて学ぶことの必要性から
死後の世界はあるともないとも言わなかったのだろうし
孔子はいまだ生を知らないのに
死を知ることかわかるだろうかと言ったのだろう

しかし時代は今やその課題を超え
シュタイナーの提唱した神秘学は
地上において死後を学ぶ必要があることを示唆している

「死後のことなら、死後学べばいい」のではなく
死後のことも生きているうちに学ばなければ
死後学ぶことはできなくなるからである

死後においてわたしたちは
生前に学んだことを霊界に持ち込み
そのもとで生きることになるということだ

つまり生を知るためには
死をも知る必要があるということであり
その意味で生と死を貫く霊性を理解し
それを身体をもちながら学ぶ必要があるということである

■フランソワーズ・ダステュール(平野徹訳)
 『死/有限性についての試論』(人文書院 2023/10)
■池田晶子『死とは何か/さて死んだのは誰なのか』
 (毎日新聞社 2009/4)
■シュタイナー(高橋巌訳)『死について』(春秋社 2011/8)

(フランソワーズ・ダステュール『死/有限性についての試論』〜「訳者あとがき」より)

「ダステュールは(・・・)、死という経験は「思考不可能」で、「思考自体を無に帰すもの」、「完全な空白」、「喪失」であり、死をめぐって語ること自体が逆説的であり、矛盾をはらんでいる。生きているだれにも確実には知りえないのが「死」であるというのに、それを語ろうとしてきた人間という存在は、ある意味、不可思議な存在ではないかと問題を提起します。

 ダステュールはとりあえず、恐怖や不安、苦悩や悲哀といった、われわれが等しく抱いている死にまつわる否定的なイメージをうけいれ、そのうえで、死をめぐって本書を書いたことは、逆説的にも「よろこびと笑い」にたどりついたと結論します。考察の道ゆきの根底にあるのは、死と生が結び付いている(死ぬべき定めがあるからこそ有限な存在の生がある)という見解であり、(・・・)随所で表明されています・

 死と生の結びつきという視覚からみると、「喪(弔い、葬式)」といういとなみが、きわめて重要な意味合いを帯びてくる。喪は、死者と生者がいかなる関係をうちたてるのか、という問いへの応答の表明であり、そこには遺体という身体的なもののみならず、魂、霊的なもの、精神的なものへの態度が表現されている。ダステュールは、「あらゆる文化が死の文化」であるといい。死者といかなる関係をつくるかが人間のいとなみの根本にあるとする見方を示します。」

(フランソワーズ・ダステュール『死/有限性についての試論』〜「結論 死、言葉、そして笑い」より)

「まさしく不安とは、おのれを脱する〔脱自という〕現存在の性格があらわになることすなわち自身に対する本質的な居心地の悪さと〈わが家〉の親しさへの帰属のなさがあらわになることであるから、不安においてこそ根源的に現存在が死のうちに投げいれられていることが露呈されるから、不安が歓喜や愉快さ、笑いにひそかに結びついているからなのである。この点をハイデガーのみならず、バタイユも見てとっていたのは、理由なきことではなかった。「笑いのなかにある、何か知らん大きく口をあけたおの、致命傷を負うたもの、それは、自然が自分自身に対して行う暴力的な宙吊りの行為」であり、「決裂の、一切放棄の点、死の予告」なのだ。じっさい、笑いが炸裂するのは、不安の場合と同じく、いっさいの地盤が消え失せ、いっさいの固定的なものが存続しなくなるときであり、この宙づり状態のもとでわれわれは日常の重みと束縛から突然解放され、人間的であることにもまして軽さをとりもどし、この軽さをとおして実存は重荷から恩寵へと変わる。

 笑いのなかでわれわれは、自分たちが「なんのためでもなく」生きている、理由なく生きている。われわれが現に在ることの理由をさがす必要も、現に在ることの事実を償う必要もないということを経験する。まさにこのとき、ニーチェが正しく「生成の無垢」と呼んだものをわれわれは体験する・そしてこのときわれわれは次のことを理解するだろう。生まれたというたんなる事実が過失でありその罰が死だなどということはなく、われわれが単純に現に在ることを可能にしてくれるものが死である、ということを。したがって。逆説的ではあるが、笑いのなかでこそ、われわれは死の定めとのもっとも本来的な関係をとり結んでいるのだ。」

(池田晶子『死とは何か』〜「死とはなにか————現象と論理のはざまで 一、現象としての死」より)

「まず、現象としての死、ということを考えてみます。

(・・・)

たとえば、死はどこに存在しているか、と問うてみましょう。そうすると、死体を見ても、そのどこにも、死というものは存在していないのです。停止した心臓は停止した心臓ですし、呼吸が止まったというだけのことですし、脳も同じです。やがて骨になっていくという過程はその過程であって、死そのものではありません。たとえば、死を見せてみて、と問うても、これは見せられない。つまり、死体は、見えるものとしてそこに存在していますが、死そのものは、死体から死を取り出そうとしても取り出せるものではないのです・

 その意味で、死は存在していない。死体と死は違うものなんですね。死体の中に死は無い。ここは非常に間違えやすいところです。脳死問題でもめるのは当然です。なぜかというと、存在していない死というもの、つまり、無いものを決めようとしているからです。在るものは決められますけれども、無いものは決められませんね。だからこそ一方で、死を決めようとする動きが、我々のなかに起こってくるわけですから。」

(池田晶子『死とは何か』〜「死とはなにか————現象と論理のはざまで 二、論理としての死」より)

「さきほどの現象としての死に対して、論理としての死ということを考えてみます。これは、哲学的な死と言ってもいいのですけれども、つまり、それが何であるのかとうことを考えるこよによる死というものです。

(・・・)

 これは有名な分類ですが。まず、一人称の死というのがあります。これはよく考えると確かに誰にでもわかりますけれども、経験できないものです。一人称の死は自分では経験できない。当然ですね。(・・・)つまり、死が存在するときに私は存在していないし、私が存在するときには死は存在していない、

(・・・)

 次に、二人称の死を考えてみます。二人称というのは親しい人の死、知っている人の死です。たとえば、親しい人が道端で死んでいればとりすがって泣きます。三人称の知らない人にはあまりそういうことはしません。二人称と三人称の間では、まったく違う心の動きがあります。あるいは、二人称の知っていると、身内とか、そういう人の死は、死体がなければ生きていると、どうしても私たちは思ってしまいます。だからいつまでも捜しに言ったり、ずっと待っていたりするわけです・あるいは。記憶のうちで語りかけたりとか、いつまでもするのです。死んでいるはずなのに、その意味では死んでいないのです。(・・・)ですから。ある意味で二人称の死というものは存在しないし、二人称の人はいつまでも生きている、という言い方も可能なんです。

 で、三人称の死。これがさっき言った、いちばん一般的な死であって、現象的な死という意味ですけれども、死体として存在しています。一般的な死です。これは誰それさんが死んだという言い方で、我々は納得しています。」

「自分が死というものを全くわかっていないということを、わからないままに、我々が生きるの死ぬのと平気で言っているのは、日常に存在する死体、つまり、動いていないものと定義していいと思いますけれども、死体を見て、それを死と呼んでいる。動いているものを、生きている人を見て、生と呼んでいる。呼び名としてそうなっているだけだということがわかります。

 つまり、これは非常に唐突に聞こえると思うのですけれども、言葉です。生死というのは、じつは言葉なんです。言葉がなければ生死は存在しないのです。なぜならば、考えていくと、生死の境目はどこにもない。そういう境目のない現象を言葉が分けているからです。死がなければ死と言うことはできません。生がなければ死と言うこともできません。だから生死は言葉なのです・

 ただ、言葉にすぎないかというと、(・・・)言葉にすぎないということでは決してない。なぜならば、現に私たちは死ぬからです。現実に毎日死んでいます。だから言葉にすぎないということは、じつはないのです。だけれども、その死とは何かをこんなふうに考えてくると、生死というのは確かに言葉になってしまうのです。」

(池田晶子『死とは何か』〜「死とはなにか————現象と論理のはざまで 三、現象と論理のはざまの我々」より)

「現象的には、生きているものは必ず死ぬということですし、論理的には、一人称の私は死なないということです。この矛盾ですね。だけれども、我々は現実に、というのはこの場合。論理的にと言っても同じですけれども、この現象と論理のはざまで生きているわけです。」

(シュタイナー『死について』〜「大切な人の死」より)

「地上に残された人は喪失感を持ちつづけなければなりません。抽象的な言い方をすれば、その人は予期せぬときに大切な人を非常から喪ってしまいました。(・・・)肉体を持つことで一緒に行ってきた体験に、悲しみ、苦しみが加わります。そうすると、肉体を通して結びついていた関係を変化させるような働きが生じます。なぜなら肉体を通して互いに向きあう日常生活の中で互いに共有してきた体験内容が、つらい喪失感を通して、カルマの流れに、進化の流れに日々付け加えられるからです。大切な人を失ったことによるすべての感情が、この世での経験に付け加えられます。(・・・)

 霊界へ赴いた人の観点は違います。その人は、霊界に赴いたからといって、地上に残した人と一緒にでなくなったとは思っていません。霊界にいる人の側から言うと、地上に残された人の魂との意識的な共有が、地上の体験よりもはるかに集中しyた、内密なものであり続けているのです。

 そのとき非常にしばしば、より内密なこの関係が。この地上界で作られた相互関係の輪を更に補充してくれるのです。

(・・・)

 死の門を通った人は。まだ地上に留まっている身近な魂たちと、思いを共有することができます。身近な魂たちの思いの中に入り、浸透することによって、カルマを基礎にしたこの世での関係を深化させることができるのです。もしもその人は死の門を通っていかなかったなら。地上の生活状況の中では、そういう深化を生じさせることができなかったでしょう。人間関係を正しく成就させるためには、この世の人は地上で苦悩に耐え、あの世の人はあとに残された人たちの思いと共にいることが必要なのです。」

(シュタイナー『死について』〜「感覚の変容」より)

「この地上で、死後の生活についてのイメージを持とうとするときの私たちは、死と向きあって、一種の激しい不安に襲われます。

(・・・)

 しかし、そういう不安の感情は、実は魂の深層にいつでも存在しているのです。ただ、注意が物質界に向けられているので、知覚されずにいるのです。今、そういう感情がこうささやくのです。————住みなれた、いつもの世界がすべてなくなってしまったら、お前はどうするのか。」

 そういう感情が私たちの無意識の中にいつでも生きています。その時にはもはや見ることも聞くこともできません。なぜなら感覚の対象がすべて奪われてしまうのですから。思考するこよさえもかなわないのです。

(・・・)

 しかしそういう状態が続いているだけでは。死と正しく向きあうことができません。死の謎を覆うヴェールをかかげることができないのです。」

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「死後の私たちは、先ず最初に、感覚のより利己的な部分をしっかりと保っています。このことから分かるように。人間は死後ただちに、本当に利己的な状態になるのです。

 子どもは自分の感覚をこの世の人生の中に持ち込み、それによって物質界。感覚界に順応していかなければならないように、死によって身体から抜け出た死者は、自分の感覚で超感覚的世界に順応していかなければなりません。

 この状態は死後かなり長く続きます。そして新しい仕方で感覚を使うのに慣れるまでの間、生前、この世で過ごしたときのことを思い出として保っています。けれどもその思い出は、思い出のあまり好ましくない部分なのです。

 死後の思い出は、数日間しか続きません。その時の思い出は、いわゆる『記憶の絵画』となって現れます。次いでこの思い出は、そのもっとも内的な部分が内部から生じてきます。生前この世で体験してきたすべてを、内的に体験し直すのです。なぜなら、新たに知覚する可能性は失われているのですから。」

*****

「超感覚的世界の場合、どんなに研究を続けても、そこに死を見い出すことはできません。事柄の本質を洞察する人にとって、超感覚的世界の中に死が存在するなどと思うことはナンセンスでしかありません。眠っている時のような意識状態もありますし、死への憧れも存在します。地上の私たちが人生を理解しようとするときのようにです。けれども超感覚的世界には、死は存在しないのです。

(・・・)

 問題は、物質的=感覚的世界を知覚できない、ということなのです。自分自身のことは分かっても、他の存在たちのことは何も分からないのです。このことが「萌える欲望」の段階の苦悩なのです。」

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 神秘学は天上では学べません。地上で学ぶことなのです。人びとが地上にいるのは、「嘆きの谷」を知るためだけではなく。神秘学を学ぶためでもあるのです。死後のことなら、死後学べばいい、と思われがちですが、これは大きな間違いです。

 人は、地上で学んだことを、死の門を通ったあと。霊界に差し出さなければならなのです。」

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