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『ユングの『アイオーン』を読む/時代精神と自己の探究』

☆mediopos-2306  2021.3.10

時代は変わる
「アイオーン」とは「時代」
ユングは『アイオーン』で
あらたな「時代」へと
セルフ(自己)の統合をめざすための
ビジョンを示そうとしたのか

昨年暮れに刊行されていた
エドワード・エディンジャー
『ユングの『アイオーン』を読む』は
ユングがキリスト教の「神」のイメージの変化を
人間が自己へと統合されてゆくプロセスとして示していることを
理解するための恰好のガイドとなっている

とはいえ高額なためもあって残念ながら
肝心のユングの『アイオーン』そのものが手元にはないままなので
図書館で借りようかどうしようかと思っていたところ
先日偶然のように古書店で目の前に現れてきたおかげで
ようやく原本(翻訳)を参照することができるようになった

こうしたシンクロのようなことはよくあって
そんなときはそれが重要な鍵になることもあるので
今日は『アイオーン』で示されているユングのビジョンをもとに
以前から漠然としたイメージをもっていたこと(半ば妄想)をは少しばかり
(ユングの論のさわりについては引用を参照のこと)

一元論・一なるもの・ONE・不二
それらは二元の世界として現れているものの元のありようを
そのようにとらえることで二元を超えようとするものだが
不二ということでもわかるように
世界が世界であるということは「2」ではじめて成立する
「有(存在)」ということだ
そうでなければ世界は「無」である

その「2」から不二である「1」が生まれる
その意味では「1」はすでに「無」ではない
「1」とは「有(存在)」においては
「2」が統合された「3」にほかならない
「三位一体」の導入にもその意味があるのではないか

「有(存在)」世界は
その「3」を一体とした分節をひとつの位階として
次々と次元を下降しながら展開していく
それを描いた象徴図のひとつがカバラーでもある
神秘学でも「3」がひとつの位階となって
ヒエラルキーを形成し展開していく宇宙論が描かれる

ユングはキリスト教の三位一体的な「3」では
真の意味での対立物の統合には至らないとし
「4」による統合を示唆している
三位一体には「女性」「悪」「肉体」といった
否定しえないものが排されているともいう

ユングの論からズレしまうことになるだろうが
ここであえて誤読を恐れずにいえば
「3」が「3」であるだけでは
「3」が統合されているとはいえない
「3」が「3」であるためには
それを統合するものが必要となる

そして「3」のそれぞれは
それぞれが独立しながら成立するプロセスで
そのままでは「3」は統合される働きを持ち得ない
ゆえにそこに「3」を統合する
「自己(セルフ)」の働きが「4」として必要となる

統合する「4」の働きで
「3」という分節化されたプロセスが機能することになる
そうでなければ「3」は「一体」であることはできない

シュタイナーの示唆している「三分節」ということも
「3」を支えている「セルフ(自己)」としての
「4」があってはじめて成立し得る

このことは「3」と「4」だけではなく
たとえばキリスト・イエスの十二使徒の「12」についてもいえる
十二使徒はキリストという「13」があってはじめて12として機能する
あるものを一体として機能させるためには
統合する中心であるもうひとつの働きが必要であるということになる

その統合する働きを
「場」「述語」的なものとしてとらえることもできるかもしれない
主語的な三位一体ではなく
そこでは無意識に排されてしまいがちな述語的な四位一体的なものへ

■エドワード・エディンジャー(岸本寛史・山愛美 訳)
 『ユングの『アイオーン』を読む/時代精神と自己の探究』(青土社 2020.12)
■C.G.ユング/MーL・フォン・フランツ(野田倬 訳)『アイオーン』(人文書院 1990.10)
■C.G.ユング(林道義 訳)『ヨブへの答え』(みすず書房 1988.3)

(『ユングの『アイオーン』を読む』〜
 鏡リュウジ「本書に寄せて/魚座から水瓶座、
 そしてペガサスへ ユングの宇宙論的歴史観をめぐって」より)

「ユングによれば水瓶座の時代にはキリスト教に内在していた「対立物」「二元論」を統合する方向へと動き出すことになる。「次のプラトン月、すなわち宝瓶宮(水瓶座))との共時性によって、対立統合の課題が問題になる」というのである。続けてユングは「そうなってくると、悪を単なる善の欠如(プリヴァチオ・ボニ)として帳消しにしてしまうことなど許されなくなり、悪の実際の存在が認められなければならない」と続けている。これはユングが様々な著作で論じた、キリスト教の歴史と今後の発展の預言と深く関わっているのであり、まさにユングの宗教的歴史観の中核なのである。」

「ユングはキリスト教の歴史を「神の像」イマゴ・デイの変容として理解していた。イマゴ・デイ、神の像は神そのものではない。神を論じるのは神学者の仕事である。心理学者としてのユングは神そのものを論じることはできないが、人々が描く「神のイメージ」を論じる分にはその権利を有する、というのが宗教問題という危険な領域に接近するに際してのユングの自己弁護であった。
 神の像はユング心理学では「セルフ」の主要な象徴である。神のイメージの変遷は個人の中で起こっている無意識の変容を、集合的レベルで反映していることになる。『アイオーン』の中心主題が「セルフ」でありながら、その中に膨大な宗教的な素材が引用され、かつ、「時代」(アイオーン)というタイトルになっているのはまさにそのためである。そしてこのプロセスはすでに完結したものではなく、現在進行形でもある。それは「(進行する)心全体の転換過程」なのである。
 ユングの宗教の変容に関するアイデアは『アイオーン』のほかに『心理学と宗教』『ミサにおける転換象徴』『三位一体の教義
に対する心理学的解釈の試み』、そして『ヨブへの答え』などさまざまな講義や論文などで展開されている。
 これらの著作で一貫してユングはユダヤ教、キリスト教の神の像(そしてキリストの像)は一面的あるいは無意識的であると述べてきた。ユングの『ヨブへの答え』は中でも印象的である。全知全能、そして完全なる善であるはずの神がまんまとサタンの口車にのり、「義人」ヨブを苦しめる聖書の『ヨブ記』は、神学史上では深刻な神義論的難問となってきた。ユングはなんと、ここで神ヤハウェを心理学的分析室へと連れ込む。ユングは神があまりにも無意識的だったのであり、ヨブの苦しみを通して意識化のプロセスが始動し、ついには神自身が人間となり十字架にかけられるイエスとなったと論じる。『三位一体の心理学』でも同じような義論が展開される。ユング研究者ロドリック・メインはこの論文を以下のように要約している。
 「三位一体のそれぞれの位格にはその心理学的対応物がある。父なる神には無意識と同一視される未分化な段階が対応する。子なる神には無意識から分離しつつある意識が、そして聖霊としての神は無意識と再結合を始めた自我意識が対応する。」
 ユングが『アイオーン』の中で、二匹の魚のつなぎ目の時代に登場したとするフィオーレのヨアキムは、歴史を「父の時代」「子の時代」「聖霊の時代」と変化して進む流れとして捉えた預言者であったが、それはユングの三位一体が歴史的、時間的に展開するという理解を導いたものだったに違いない。ヨブを苦しめたような無意識的な「神」から、痛みを知るヨブーイエスへ、そして無意識と再結合を目指す聖霊へと神のイメージはアイオーンの以降に従って変容していくのである。そしてユングが繰り返し述べるように「自己(セルフ)」の象徴が神のイメーゴ(イメージ)から経験的に区別できない」のであるから、神の変容はそのまま集合的なレベルでに人類の心の変容を映し出すのだ。
 ユングの議論で興味深い(そして論争の火種になる)のは、ユングが「三位一体では不完全だ」という点であろう。ユングによれば三位一体では心理学的全体性を表現しきれないのである。乱暴にユングの議論を突き詰めれば、「父と子と聖霊」の三つの位格はすべて男性であり、また抽象的、知的にすぎる。僕たちの経験世界においては、どうしても否定し得ない「悪」は実在する。中世のカトリックの教義において、悪は実在しない。それは「善の欠如」にすぎないというトリッキーなかたちで展開された神学的議論をユングは一種の心理学的否認だとユングは言う。あるいは女性、肉体はどうなるのか。そうしたものは依然として無意識の中にとどまっている。
 そこでユングはキリスト教の三位一体は、心理学的全体性に到達するためにもうひとつの位格を必要とすると言う。三位一体から四位一体への変容を必要とするというのである。『アイオーン』一四章「自己の構造と力動性」において、一見複雑な神話や錬金術を分析したダイアグラムがいくつも登場するが、そのいずれもが「四つ組」をベースにしたものになっていることに注目されたい。セルフは潜在的に四によって象徴される全体性をもつというのがユングの信念であったのだ。そしてその四番目のものは、悪、あるいは悪への誘惑者としてみられた女性や肉体なのである。
 「四」はユングにとって一種の秘教、聖数であったといっていいだろう。この全体性としての四の教義は、ユングのマンダラ論やこころの「四」機能にもとづく「四」タイプ論にも顕著に見ることができる。
 二元論にもとづくキリスト教は三位一体まで生み出すことができたがそれはいまだ抽象的で一面的であり、心理的善悪を包摂し、「対立物の結合」を果たすには至っていない。それは集合的なレベルで次のアイオーンの到来と関わるのだろう。
 そしてこの次のアイオーンの到来は、これまでと同じように天がその印を表すとユングは見ていた。そのとき空には「四」の星座が輝くのである。」

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