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梨木香歩『歌わないキビタキ』/諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か?』/河田桟『ウマと話すための7つのひみつ』

☆mediopos3427  2024.4.5

梨木香歩『歌わないキビタキ』
「あるべきようは」の章から

エリマキシギの雄の夏羽の話
性スペクトラムの話
そして馬語の話

エリマキシギの雄の夏羽には
黒褐色の強そうな色合いのもの
白っぽい気品ある色合いのもの
地味な雌そっくりのもの
という三種類があり
注目すべきは雌そっくりの
フェーダーと呼ばれるタイプ

メスそっくりのタイプは
雌の群れに紛れ込んで
自分の遺伝子を残すのだという

黒褐色のタイプは縄張り意識が強い
それに対し
白っぽいタイプは縄張り意識だけ解除して
黒褐色のタイプの隙をみて雌と交尾に及ぶが
メスそっくりのタイプは
雄の姿そのものさえ解除している

梨木香歩はそのフェーダーのタイプに似て
「自分の心は女性である」と偽り
女性に性暴力を繰り返していた例を挙げているが
昨今のLGBTQ+にしても
それを巧妙に使った犯罪が起こったりもする

「性別」を絶対化しない意識は必要だが
ひとの数だけ「性別」があるともいえる
しかも性自認は外的にはわからないこともあり
それを社会制度のなかにどう反映させていくかはむずかしい

そうした「性別」の問題については
このmedioposでもとりあげたことのある
(mediopos2907 2022.11.2)
諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か?』の視点では

「オス対メスという対立軸は虚構」であって
「性は百パーセントオスと百パーセントメスの間で連続している
性スペクトラム上の位置で捉えられるべきもの」だという

しかもそれは固定的に発現するのではなく
「生涯にわたって変化し続ける」
しかもおなじひとにおいても変化し続けたりもする

単純に考えただけで
たとえば男性が女性を求めるということにしても
やはり女性であればだれでもOKというわけではない
そして女性といってもその女性には
性別以前にさまざまな特徴がある
つまり単純な男性と女性という二分法ではとらえられない

しかしながらエリマキシギの雄の例でもあったように
傾向としてはマッチョタイプのような
典型的で単純な「オレは男だ!」というタイプや
「ワタシは女よ!」というタイプも確実に存在し
「女は」「男は」という類型化された言葉もよく使われる

続く「馬語の話」だが

そこには「言葉という手蔓がなく、
文化的コードに頼ることもできないとき、
生き物同士はどう「付き合ったら」いいのか」という問いがあり
「相手との「距離」そのものも、馬語に含まれる」のだという

動物と人間の付き合い方でいえば
人間を「上」と認めさせる「調教」がなされることが多いが
そうではない関係性についても示唆されている

「相手の存在を認める、ということ。
そして世界ごと、相手の個性を捉えていくということ。
相手の属性が雄か雌かよりまず先に、そのことがある」
というのである

いうまでもなく
人と人のあいだの付き合い方も同様であるにもかかわらず
上下や固定化された属性
社会制度における関係性などによってしか
相手に対することができないことも多いようだ
そして「○○であるべきだ」がゾンビのように増殖する

そのひとがそのひとであることへの信頼や愛情によって
「相手の存在を認める」のが基本だと思うのだが
それができないことがあまりにも多く
そこに人間の深い業(ごう)が存在しているともいえるのだろう

■梨木香歩『歌わないキビタキ 山庭の自然誌』(毎日新聞出版 2023/9)
■諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』
 (NHK出版新書 NHK出版 2022/10)
■河田桟『ウマと話すための7つのひみつ』(偕成社 2022/10)

**(梨木香歩『歌わないキビタキ 山庭の自然誌』〜「あるべきようは」より)

*「日本にもときどき旅鳥として訪れることがあるエリマキシギの、雄の夏羽には三種類ある。

 黒褐色の強そうな色合い(権高な貴族的襟巻きを持つ)のもの、白っぽい気品ある色合い(高貴な貴族的襟巻きを持つ)のもの、そして襟巻きなしに地味な雌そっくりのもの。

 実際は襟巻きの色がどちらともつかないものもあり、(私には)分類が難しいこともあるが、大体において黒褐色はマッチョタイプの雄で、縄張り意識がすこぶる強く、ディスプレイ競争に夢中になる。白っぽいタイプは縄張り意識がなく、黒褐色の縄張りの周りをうろうろして、黒褐色が油断した隙をみて、すかさず雌と交尾に及ぶ。注目に値するのは三番目の雌そっくりのタイプだ。雌の群れに紛れ込み、警戒されないのをいいことに、周囲に数多いる雌と交尾、自分の遺伝子を残すのだ(ただ、雌と思い込んだ黒褐色に恋を仕掛けられる面倒ごともある)。それを知ったときは、ただもう呆れて、雌獲得のためにそこまでするのかと思ったけれど、彼らには彼らの事情があるようだ。

この雌そっくりの種類をフェーダーと呼び、Nature誌によると、このフェーダーが生まれた原因は、約三百八十万年前に変異を起こした遺伝子(超遺伝子)にあるらしい。この超遺伝子はその後、約五十万年前に一部のフェーダーで再び変異を起こし、これによりちょっと元に戻り(?)、その結果縄張りを持たない白っぽいタイプが生まれた。

 こういう遺伝子の変異は本当に偶然なのだろうか。

 すべての雄が覇権を競うような。猛々しく暑苦しい社会はうんざりだと、「何者かによって、実験的に」仕組まれたように思われてならない。最初の変異でその「何者か」はちょっとやりすぎたようだと反省、マイルドな変異(襟巻き自体は保ったままで、縄張り意識だけ解除。結果として白い襟巻きになった)にスイッチバックした(のでは?)。たしかに縄張り意識さえなくせば、世の中の大半のもめ事は解決するだろう。(・・・)

 と思っていたら、人間社会でとんでもない事件が起きてしまった。

 障碍を持つ人びと等を対象とした、相談支援事業所を運営していた人物が、「自分の心は女性である」と偽り、女性の部下らの警戒心を解き、性暴力を繰り返していたとして逮捕された。これはエリマキシギ・フェーダー、雌擬態型の雄の行動とほとんどいっしょで、すごい、と唸ってしまた。だが、この容疑者にエリマキシギと同じ超遺伝子の発現があったとは思えず、また、行動様式は同じだとしてもエリマキシギがそんな暴力に及んでいるとも考えられず、正々堂々の獲得競争を回避して、こんな巧妙な真似をしてまで、女性に乱暴を働きたかったのかと思えば、同じ人間として、「いのちなりけり小夜の中山」レベルの深い感慨を引き起こされてしまう。どうしたって(性暴力は)起きるのだろうか。起こさずにはいられないのだろうか。ただもう、なぜかエリマキシギに申し訳ないような気がしている。」

*「エリマキシギのことを調べていると『オスとは何で、メスとは何か? 性スペクトラム」という最前線』(諸橋憲一郎著)という本に行き当たった。読み始めてすぐ、ヨーロッパチュウヒ(中くらいの猛禽類)のオスの四十パーセントがメス擬態型だとあって、心底驚いた。これもエリマキシギの同型と同様、縄張りを持たず、他のオスの縄張りにノーチェックで出入りし、隙を見て自分の遺伝子を次世代へつなぐ行動に出るのだ。それにしても、四十パーセントとは。

(・・・)

 魚類のなかには。群れに必要とさらば、さして葛藤の様子も見せず易々と性転換するものが一種のみならずあるということは知っていたが、シオカラトンボやアカトンボたちにも擬態型が存在するとは知らなかった。捕まえたトンボの識別に悩み、新種ではないかと心踊らせた少年少女も多かっただろう。

 この本によると、オス対メスという対立軸は虚構である、性は百パーセントオスと百パーセントメスの間で連続している性スペクトラム上の位置で捉えられるべきものだ、しかもその位置は、例えば六十ペーセントオス、四十パーセントメス、などと固定しているものではなく、生涯にわたって変化し続ける、らしいのだ。もちろん、人間も例外ではない。この立ち位置を変化させる力は、オス化メス化の二方向だけでなく、脱オス化、脱メス化という力も入ってくる、という。すんなり納得できる気がする。

 もしかして、鳥のエクリプス期というのはオスのメス擬態化の姿ということか、という考えが一瞬脳裏に浮かんだが、メス擬態化オスは、(たぶん)生殖を成功させるため、ああいう姿になっているのに対し、エクリプス期は、もう繁殖も終わり、縄張りも必要なく、オスを誇示する必要もなくなった一時期の変化なので、脱オス化の力が強くなった、と捉えた方が彼らの事情に即しているのかもしれない。

 また、ある種のモグラのメスは、卵精巣を有しているという。その精巣領域で精子を作るわけではない。ではなぜ? 「どうも男性ホルモンを作っているらしいのでう」(同書)。子育て期の、外的に対して攻撃的にならねばならないときなど、その男性ホルモン濃度を上昇させ、闘いモードに入る、ということらしい。知らずに人間も、他の手段で似たような自己コントロールをやっているのかもしれない。」

*「昨年、文筆家で馬飼いの河田桟さんが、『ウマと話すための7つのひみつ』という絵本を出版された。すでに一般書でも『馬語————ウマと話そう』など、ウマとその場にいることを述べながら実は自他の境界について訥々と手探りの、紛れもない自身の言葉で綴られていく著作を出している河田さんであるが、子どもを(そして大人のなかの子どもをも)対象にして語る言葉は、シンプルなハウツーの体裁をとりつつ、やはり彼女の著作らしく、根源的なものと響き合っている。

 言葉という手蔓がなく、文化的コードに頼ることもできないとき、生き物同士はどう「付き合ったら」いいのか。この絵本で推奨されていることは、何もせず、動かず、目を合わさず、少し遠くにいること。そしてなんとなくうれしい気分でいること。つまりどうやら、世界の一部になって。同じく世界の一部である相手を感じ続けることらしいのだ。そうしてゆっくり、相手に認知されるのを待つ。

 こういったことすべてが、「馬語」の世界で行われていることである。興味深いことに、相手との「距離」そのものも、馬語に含まれる、と河田さんはいう。「近くにきたり、遠くにいったり、この距離も馬語」なのだ、と。「いまの気持ちにちょうどいい距離、というのが、ウマにはあります」「必ずしも、近いほうがいいとはかぎらないのがおもしろいところ」

 動物との付き合いにおいて、調教ということがまずあり、常にどちらかが上かをはっきりさせる、特に人間を含む群れ(家庭犬とか)の場合、人間を自分より下の存在と侮られないようにする。というのが、大体動物のしつけのハウツーの基本のように思われていた時期があった。今は知らないが、主流派それほど変わってはいないのではないかと思う。河田さんは、そういう関係性が苦手で、なんとか動物と対等に、うまく付き合っていく方法はないかとずっと、十年以上前から考えていらした。優しく書かれてはいるけれども、その集大成のような絵本だと、感じ入ってしまった。

「人語」の他に、「馬語」のバイリンガルになるということは、ずいぶん世界を広げていくことのように思える。何より、楽しい。まず、相手の存在を認める、ということ。そして世界ごと、相手の個性を捉えていくということ。相手の属性が雄か雌かよりまず先に、そのことがある。

 知人のヘアスタイルが、ときにショートになったりロングになったりしても、そのひとをそのひとと認識する「そのひとらしさ」にはほとんど関係がない。そのようにして、ひとの女性度、男性度が変化していったにしても、そのひとの本質には、さして関係はないように思う。」

**(諸橋 憲一郎『オスとは何で、メスとは何か?/「性スペクトラム」という最前線』より)

*「〝性〟には「生まれつきの性質」という意味もあるようですが、ここでは雌雄、男女、オスとメスを意味する性のことです。」

「性スペクトラムという言葉には、生き物の性を研究してきた研究者が、最近になってたどり着いた考え方が込められています。光スペクトラムで黄色が徐々に橙色に、そして赤色に変化するように、生物の雌雄はオスからメスへと連続する特性を有しているのではないか、という仮説を表した言葉です。つまり性スペクトラムとは、オスからメスへと連続する表現型として「性」を捉えるべきではないか、という新たな捉え方のことなのです。

 わたくしたち研究者はこれまで、生物の性を研究対象として取り上げるとき、オスの対極にメスを置き、あるいはメスの対極にオスを置いて、2つの性を対比しながら雌雄を理解しようとしてきました。対極に配置したオスとメスの間に深い境界を設けて、生物の雌雄を位置づけてきたのです。

 しかしながら、(…)ある特徴をもって雌雄を区別したとしても。そういった区別にはどうしても当てはまらない中間型の個体や、時にはその特徴が逆転している雌雄が自然界に普通に存在していることを、研究者は以前から知っていました。そのため、雌雄を2つの対立する極として捉えることで性を理解することに違和感を抱いていたものの、残念ながらそうした考え方から解放されずにいました。

 しかしわたくし自身、「性スペクトラム」という考え方に沿って進めるにつれて、長年感じていた違和感が次第に消失するのを感じています。」

「性スペクトラム上の位置は生まれついてのもの、つまりその個体が誕生したときにはすでに固定されていて、変化しないものなのでしょうか。

 決してそうではありません。つまり、性とは固定されているものではなく、生涯にわたってそのスペクトラム上の位置は変化し続けているのです。」

*「研究者は長い間、性(オスとメス)を、あたかも対立する2つの極として捉えてきました。そして、お互いの異なる部分を際立たせるような比較を行うことで、雌雄を理解しようとしてきました。このようにして雌雄を理解することが間違っていたわけではありませんが、これだけでは性の本来の姿を理解することは不可能だったのです。メスに擬態することで自身の子孫おを残すことに成功してきた鳥や魚、トンボなどの存在は、生物をオスとメスの2つに分けることの困難さを示すものでした。

 そして、そのような生物の性の姿をもとに登場したのが「性スペクトラム」という新たな生の捉え方でした。性は2つの対立する極として捉えるべきではなく、オスからメスへと連続する表現型として捉えるべきであるという考え方は、従来の性の捉え方に変革を迫るものでした。わたくしたちは「性スペクトラム」という新たな生の捉え方が、性本来の姿を捉えていると考えています。

 この考え方によれば、性は固定されたものではなく、柔軟に変化するという性質を持っていると理解できます。性スペクトラム上の位置はオス化の力、メス化の力、脱オス化の力、脱メス化の力によって、誕生から思春期、性成熟期を経て老年期へと、生涯にわたって変化し続けますし、女性の場合には月経周期に応じて、また妊娠期間を通じても変化します。

 このような性スペクトラム上の位置の決定や移動の力の源泉となっているのが、性決定遺伝子を中心とする遺伝的制御と、性ホルモンを中心とする内分泌制御です。性決定遺伝子はいったい何を行っているのか、性ホルモンはどのようにしてその機能を発揮するのかについては、本書の中で詳細に述べました。(…)理解していただきたかったことは、わたくしたちの性を制御しているものの本体は、「遺伝的制御」と「内分泌制御」だということです。」

*「わたくしたちの性は身体のどこに存在しているのか、何が性を有しているのかについて考察し、性は細胞に宿っていることを説明しました。オスの肝細胞とメスの肝細胞は見た目に差はないものの、両者の間には間違いなく性差が存在します。身体を構成する全ての細胞が性を有しているから、細胞によって作られる骨格筋や血管、皮膚、肝臓など全ての臓器や器官に性が宿るのです。」

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