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高崎将平『そうしないことはありえたか? 自由論入門』/フランク・ウィルチェック『すべては量子でできている 宇宙を動かす10の根本原理』

☆mediopos2889  2022.10.15

「私たちは果たして自由であるのか」

古来から哲学者たちは
自由と決定論のあいだで議論を重ねてきた

そして自由と決定論は両立するのか
それとも両立しえないのか
そうした問いが堂々巡りのように
繰り広げられてきているが
(そうした議論に細かく付き合うのも疲れてしまう)
論者がどの視点に立っているかによって
その答えはすべてにあてはまるものではなさそうだ

自由が何を意味しているかにもよるが
じっさいのところ私たちは
自由ではありえないとも
自由であるともいえると捉えたほうがよさそうだ

ちょうど量子力学のわかりやすい本
フランク・ウィルチェックの
『すべては量子でできてい』がでているが
そのなかでとりあげられている「相補性」が
その問いに対するひとつの答えを示唆してくれる

「相補性」とは「一つの事柄が
異なるいくつもの観点から考慮されるときには、
非常に異なる、あるいは矛盾する
複数の性質を持つように見える可能性がある
という考え方」である

量子力学で物体の最も基本的な記述をする場合
波動関数を用いるが
位置と速度とを同時に予測することはできない

それを音楽を分析することにたとえれば
和音とメロディーにあたる
その両者を同時に扱うことはできない

自由であるのか
という問いに対しても
ある観点から自由ではありえないとされても
それと矛盾する観点からは
自由であるといえるかもしれない
そしてその両者は別のものではない
相補的な矛盾的同一がそこに成立する

それに加え観測問題がある
「何かの性質を測定するためには、
それと相互作用しなければならない」
さらには
「正確な測定には強い相互作用が必要」となる

量子力学的にどうなのかわからないが
観測問題はある意味で(アナロジーとしてだが)
自由の両義性を表しているともいえるかもしれない

私たちはただ他に働きかけているのではない
働きかけられてもいる
さらにいえば働きかけるためには
働きかけられなければならない
強く働きかければかけるほど
強く働きかけられる

その意味では
○○からの自由というとき
わたしたちは自由であろうとしながら
むしろ逆説的に○○に働きかけられ
純粋に自由であることはできなくなる
自由を求めれば求めるほど
自由をなくしてしまうことになる

すべては関係性のもとに成立しているからだ
その関係性のなかにおいて
自由ということも捉える必要がある

それでは○○からの自由が
自由と逆のベクトルを招来してしまうのだとすれば
自由をどこに求めればいいのだろうか

むしろ○○への自由という観点において
関係性のなかでの創造的なありようが
可能になるのではないか

ある意味ではそうしたありようのなかで
自由ではないことと自由であることが
相補的に成立し得るのではないか

ある時は自由であり
ある時は決定論的であり
それぞれが相補的に成立するなかで
私たちは存在していると

■高崎将平『そうしないことはありえたか?/自由論入門』
 (青土社 2022/9)
■フランク・ウィルチェック(吉田 三知世訳)
 『すべては量子でできている/宇宙を動かす10の根本原理』
 (筑摩選書 筑摩書房 2022/9)

(高崎将平『そうしないことはありえたか?/自由論入門』〜「序章」より)

「私たちは果たして自由であるのか。この問いは長年の————溯れば古代ギリシャの時代からの————哲学者たちの悩みのタネで、この二千年来ああでもない、こうでもないと喧々囂々の議論が繰り広げられてきた。」

「哲学者たちは、ある極端な状況を想像する。それは「私たちが日常におこなっている行為の全ては、実は私たちが生まれるはるか前から決まっていたのではないか?」という想像である。世界の在り方が私たちの意志にかかわらずあらかじめ決まっているのだ、という考えは、「決定論」的な世界観と呼ばれる。」

「「決定論」的な世界の見方と「運命」には、実は深いつながりがある。
(・・・)
あなたのなすこと全ては運命の網の目の中に絡み取られていて、あなたは決してそこから抜け出すことができない。このような世界観を「運命論」と呼ぼう。
 さて、運命論が言うように、この世界の全てが運命によって決まっているとしよう。このときあなたは、「それでも私たちは自由だ!」と自信を持って言えるだろうか。もしそう断言できない気持ちがどこかにあるなら、あなたはすでに、立派に自由に関する哲学的思索の一歩を踏み出している。というのも、冒頭で述べた哲学者の悩み————決定論的な世界で私たちは自由でありうるのか、という悩み————は、運命論的な世界観にいまあなたが感じたであろう薄気味悪さに通底するものがあるからだ。」

「私たちは決定論という考えをトンデモ理論だといって無視することはできない。決定論は、私たちの日常的思考に深く浸透している科学的な世界化に裏打ちされているからだ。また同時に、「私たちは本当は自由なんかじゃないんだ」と簡単に開き直ることもできない。というのも、「自由」という概念は責任の帰属や他者への非難・賞賛といった私たちの道徳実践と密接に結びついており、自由を否定することはそれら実践の意義をも否定することにつながりかねないからだ。かくして、私たちは「自由と決定論」という哲学的問題の前に立ち止まって、納得のいくまで考え抜かねばならない。」

「自由という哲学的主題の主軸となる問いは、私たちが(ときに)自由であるということと決定論が真であることとが両立するか、一言で言えば、「自由と決定論は両立するか」である。この問いに「イエス」と答える立場は「両立論」、「ノー」と答える立場は非両立論と呼ばれる。

(フランク・ウィルチェック『すべては量子でできている』〜「第10章 相補性は精神を拡張する」より)

「「相補性」とは、その最も基本的な形態においては、一つの事柄が異なるいくつもの観点から考慮されるときには、非常に異なる、あるいは矛盾する複数の性質を持つように見える可能性があるという考え方だ。相補性は経験や問題に対する一つの態度なのだが、それは目からうろこが落ちるようなきわめて有用なものだと私は気づいた。それは文字通り、私の考え方を変えた。」

「世界は単純であると同時に複雑であり、論理的であると同時に奇妙であり、法則に従っていると同時にカオス的だ。「根本的な理解」は、これらの二重性を解消したりはしない。実際、すでに見たように、逆にそれを際立たせ、深める。相補性を重く受けとめないかぎり、物理的な実在に正しく向き合ったことにはならない。
 人間もまた二重性に包まれている。私たちは小さいと同時に巨大であり、儚いと同時に長く存続し、博識であると同時に無知である。相補性を重く受けとめないかぎり、人間の状態に正しく向き合ったことにはならない。」

「量子力学では、物体の最も基本的な記述は、その物体が電子であろうが象であろうが、その波動関数である。物体の波動関数は一種の原材料で、私たちはそれを処理して、物体の振る舞いについての予測を導き出すことができる。波動関数はさまざまな異なる問題に答えるために、それぞれに応じた異なる方法で処理することができる。その物体が今後どこに存在するかを予測したければ、その波動関数をある方法で処理しなければならない。その物体がどんな速度で運動しているかを予測したければ、別の方法で波動関数を処理しなければならない。
 この波動関数を処理する二つの方法は、おおまかに言って、音楽を分析する二つの方法に似ている。和音による分析とメロディーによる分析の二つだ。和音が局所的な分析だ——音楽の場合は、空間の一点ではなく、時間のなかの一瞬を調べる——が、メロディーはもっと広範囲の分析である。和音は位置のようなもので、メロディーは速度のようなものだと言えよう。
 この二つのかたちの処理を同時に行ったりはしない。両者は互いに干渉しあうからだ。位置の情報が欲しければ、速度の情報を破壊してしまうような方法で波動関数を処理しなければならない。そして、その逆の場合も同じだ。」

「物理的な振る舞いのレベルでは、この対立——相補性——は、二つのキーポイントを反映している。一つ目のキーポイントは、何かの性質を測定するためには、それと相互作用しなければならないといいうことである。言い換えれば、私たちの測定は「実在」を捉えるのではなく。実在の標本を抽出するだけだ。
(…)
 二つ目のキーポイントは、一つ目のものをいっそう高めたもので、正確な測定には強い相互作用が必要だ、である。
(…)
 ここで触れた二つのキーポイント——観測は能動的なプロセスで、観測は侵略的である——は、ハイゼンベルクの分析の堅固な基盤である。これらがなければ、私たちは量子論の数字を使って物理的実在を記述することができない。しかしこれらは、私たちは子ども時代に構築した世界模型を損なう。「向こう側にあり」、私たちが観察することでその性質が明らかになる外界と、私たち自身とのあいだには厳格な区別があるという世界模型を、ハイゼンベルクとボーアの教えを受け入れるなら、そのような厳格な区別は存在しないのだと気づかざるをえない。世界を観察することで、私たちは世界の構築に参加するのだ。」

「精神と心理学に基づくものと、物質と物理学に基づくもの、どちらのモデルも間違ってはいない。それぞれが異なる疑問にちゃんと対応している。しかし、どちらも完璧ではないし、どちらも他方の代わりをうまく務めることはできない。人々は確かに選択をするし、彼らの体験は実際に物質の法則に従っている。これらの知見は日々の現実だ。消えてなくなることはない。相補性の精神で、私たちは両者を受け入れる。どちらも相手を反証することはない。事実がほかの事実を反証することはできない。むしろ両者は、実在を処理する異なる方法を反映しているのである。
 人々は自分が行うことを選択できるのだろうか? それとも、数理的な物理学の調べに合わせて踊る操り人形なのだろうか? これは良い質問とは言えない。音楽は和音なのか旋律なのかと問うのと変わらない。
 自由意志は、法律と道徳規範にとって本質的な概念だが、物理学は自由意志なしでうまくいっている。法律から自由意志を取り去る、あるいは物理学に自由意志を挿入するなら、法律もしくは物理学がむちゃくちゃにしてしまうだろう。そんなことはまったく不要だ! 自由意志と物理学的決定論は、実在の相補的な二つの側面である。」

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